artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
石川竜一「okinawan portraits 2012-2016」
会期:2016/10/18~2016/11/12
入れ墨、ヤンキーやゴスロリ、異性装者。あるいは都市に生息し、化粧や服装がどこか周囲から浮いて奇異に感じられる人。そうした雑踏の中で特異な存在感を放つ被写体に正面から向き合って撮った、力強いポートレイトで注目される写真家・石川竜一の個展。同名タイトルの写真集が赤々舎から刊行されている。
本展では、これまで発表してきたポートレイト群からの過渡的な移行が4点にわたって見られた。1点目は、画面のフォーマットが正方形から長方形へ変化したこと。それに伴い、2点目として、空間的奥行きへの意識が生まれたこと。以前は、被写体の個性を前面に押し出したポートレイト主体の写真だったが、人物の背後の空間を意識したレイヤー構造が生まれている。例えば、画面手前でストロボの光を浴びて笑う、ロリータファッションの若い女性と、背後の暗闇に沈むホームレスとの対比。女物のキャミソールを身につけ、こちらへ射抜くような眼差しを向ける中年男性の背後では、マリリン・モンローの巨大な看板が微笑んでいる。あるいは、2人組の女子高生の横には、地面に激突したような格好で無残に倒れた陸橋と「歩行者注意」の文字が赤く光る看板が並び、日常風景に異様な裂け目を見せている。このように、人物だけでなく、風景が抱える奇妙さや歪み、綻びのようなものも石川の眼差しの射程に入ってきており、3点目として風景のみの写真の出現とも結びつく。それらはとりたててショッキングな風景ではないが、例えば、明るい陽射しを浴びて広い芝生に建つモダンな平屋建ての建物は、よく見ると扉や窓が破れて室内も荒れている。立地や建築の特徴から米軍関係のものと思われるが、どこか不穏さをかきたてる光景だ。そして4点目として、単体のポートレイトの中に「2人組」が出現し、人物を「あるグループの類型」として捉える視線が生まれている。ごく普通の女子高生や中年男性もいれば、夜の街で客引きする女性たち、化粧が白浮きした顔にギョッとさせられる中年女性たちもいる。路上から捉えた「沖縄の今」の並列的なカタログ化が試みられていると言えるだろう。
こうした変化はさらに今後、「沖縄写真」の新たな面を切り開くシリーズとして結実していくのではないだろうか。それは、日本の地方都市に漂う、平凡さとダサさをどうしようもなく抱え込んだバナキュラーな性質に対して、沖縄という場所が持つ共通性と特異性をあぶり出していく作業でもある。またそれは、「琉球文化の古層が残る島」といった超歴史的・神話的な時間へのノスタルジー/基地闘争という政治的主題、といったイメージの二極から離れた「沖縄写真」の成立へと向けられている。
2016/11/10(木)(高嶋慈)
山城知佳子作品展
会期:2016/11/04~2016/11/06
MEDIA SHOP | gallery[京都府]
自らの身体パフォーマンスを記録した初期作品3点(《OKINAWA 墓庭クラブ》(2004)、「オキナワTOURIST」3部作(2004)より《I Like Okinawa Sweet》《日本への旅》)と、近作の《沈む声、紅い息》(2010)を上映する展覧会。両者の対比から見えてくるのは、政治性をはらんだ現実の場所=背景のスクリーン/その手前で行なわれるパフォーマンスという固定化された二層のレイヤー構造から、潜行/浮上という垂直方向の運動のベクトルへ、という構造的な移行である。
《OKINAWA 墓庭クラブ》では、サンバイザーにミニスカート姿の山城が、沖縄の伝統的な亀甲墓をバックに、ダンス・ミュージックに合わせてキレのよいダンスを披露してみせる。《I Like Okinawa Sweet》では、米軍基地のフェンスの前で、汗ばむ肌を見せてアンニュイな仕草をする山城が、差し出されたアイスクリーム(Sweet=甘言)を延々となめ続ける。《日本への旅》では、国会議事堂の前で、沖縄の墓の写真を掲げた山城が抗議するかのように叫ぶが、聞こえてくる音声は「首里城」「長寿」「マンゴー」「夕陽の美しいビーチ」「モノレール開通」などの観光PRや「外から見た沖縄」のイメージである(「〜だと思われます」「〜らしいです」という断定を避けた言い回しが、外部の視線によって形成された曖昧なイメージであることを強調している)。
《OKINAWA 墓庭クラブ》において、伝統墓のある空間があたかもクラブに変貌したかのように腰をくねらせて踊り続ける孤独な姿は、古い琉球文化/アメリカが戦後もたらしたカルチャーという対比やねじれを示唆する。また、基地のフェンスの前で差し出されたアイスクリームに笑顔を向け、汗やアイスの滴がしたたった肌を見せつけながら、過剰な性的アピールとともに「なめる」姿は、沖縄の置かれた現状を自己批判的に演じている。《I Like Okinawa Sweet》は、《OKINAWA 墓庭クラブ》と同様、受動的な女性性を付与され、快楽に没入する「沖縄」を演じてみせているのだ。一方、《日本への旅》では、能動的に声をあげる女性が登場するが、「観光PR」を絶叫する音声が入るのは「静止画面」だけであり、音声カットされて無音で流される動画部分の山城が本当は何を叫んでいるのかは分からない。「沖縄が本当の声を主体的に話すことは許されない」のであり、その声はたとえあげられたとしても、私たちには届かず「聞こえない」のだ。
このように初期の3作品では、琉球(とその変容)/米軍基地/日本国家という存在が背後から規定する文脈として屹立するが、それは背景=スクリーンである以上、山城の肉体はそこに介入できない。一方、《沈む声、紅い息》では、より抽象的でメタフォリカルな表現に移行するとともに、沈む/上昇するという運動のベクトルが際立ってくる。ボソボソと聞き取りにくいつぶやき(家族の記憶?)や歌を口ずさむ老婆、彼女が海中に投げる花束のようなマイクの束、海中で不思議な生き物のように揺れるマイク。海に沈んだマイクを追いかけるように、若い女性ダイバーが海中へ潜行する。荒い呼吸音、ボコボコという泡の音、キスする映像のオーバーラップ。そして最後には、海底に沈んだマイクから空気の泡が立ちのぼっていく。それは、マイクに吹き込まれていた(死者たちの、あるいは語ることを抑圧された)無数の声の解放だろうか。この「下に潜る/浮かび上がる」という上下感覚の運動は、沖縄がはらむ記憶、その深い胎内の中への潜行でもある。
そしてこの潜行とそこからの再浮上の運動は、《アーサ女》(2008)でも波間を漂う不安定な視線の揺動として見られたが、以降の《肉屋の女》(2012)、最新作の《土の人》(2016)において、より強烈なイメージの強度と深度をもって遂行されていくことになる。(《肉屋の女》では、米軍基地敷地内の闇市で肉屋を営む女性が、「肉」を求めて群がる肉体労働者たちに襲われた後、胎内を思わせる鍾乳洞の奥深くを潜り抜け、海中を泳ぎながら上昇していく。自由に泳ぐその姿は「解放」を感じさせる一方で、冒頭に登場する、海中を漂って浜辺へ流れ着く肉塊とのつながりも思わせ、転生や「消費」のループを暗示する。また、《土の人》では、大地と同化したかのような長き眠りから人々が目覚め、穴の中へ転がり落ちる。
洞窟を這い進み、異次元につながるトンネルの出口のような別の穴から人々が顔を出すと、その空間には沖縄戦の映像が映し出されており、彼らは映像の光を顔に浴びながら驚異の眼差しで見つめる。続くクライマックスでは、一面に広がる百合の花畑の中から人々の両腕が天へ差し伸べられ、祈りか祝福のような手拍子のリズムが青空へ高らかに響きわたっていく)。
本展は、展示の機会が少ない初期作品をまとめて見られる貴重な機会であったとともに、山城作品を構造的な移行という視点から捉える契機をもたらすものであった。
2016/11/05(土)(高嶋慈)
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 松根充和『踊れ、入国したければ!』
会期:2016/11/03~2016/11/06
京都芸術センター[京都府]
松根充和の『踊れ、入国したければ!』は、アメリカ国籍のダンサーが、「アブドゥル=ラヒーム」というイスラム系の名前を理由にイスラエルの空港の入国審査で止められ、ダンサーであることの証明として「その場で踊ること」を強要された実話に基づくパフォーマンス。舞台(フィクション)と客席(現実)を隔てる「第4の壁」は、上演開始とともに早々に取り払われ、松根は「松根充和」という個人としてそこに立ち、観客に向けてフランクに語りかける。偶然、ネットのニュースで事件の記事を見つけたこと、このダンサーの所属する「アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンスシアター」は1958年に創設された名門であり、ゴスペルやブルースをモダンダンスと融合させ、当時の黒人公民権運動とともに黒人の自由を訴えるものであったこと……。ここで突きつけられるのは、自由と尊厳を勝ち取るための表現だったダンスが、人種差別の下に管理や強制の対象になってしまうという皮肉な事実だ。松根は「DVDを見て習得した」このダンスカンパニーの代表作の1シーンを、自らの肉体を駆使して実演してみせる。踊ることの自由や解放が、ハードな身体訓練を経て渾身の力を振り絞って踊ることの肉体的苦痛へと変容し、私たち観客はいつしか、踊りを強要した入国審査官の立場に立たされていることの気まずさを味わう。
一方で松根は、当の事件に関するドキュメンタリー的要素を一切不在にしたまま、「情報」の背後にあるものへと想像力を向けさせようとする。彼はどんなダンスをどのように踊ったのか。入国審査官はどんな反応を見せたのか。彼らが笑顔で拍手を捧げたことはありえないだろうか。松根自身による「ダンスの実演」においても観客は、「本来は群舞のシーンであり、周囲で踊る他の8人のダンサーがいること」を想像しながら見るように促される。「想像すること」は硬直化した現実を揺るがす武器となる。イントロダクションで、松根が「眉毛を顔から消してください」「眉毛を口ヒゲの位置に下げてください」と観客に課す。それは、作品中で、松根自身が「剃った眉毛を口ヒゲとして貼り付けた」顔写真を抗議者のように掲げ、それが実際に証明写真として認可されたパスポート(!)を見せるシーンにおいて、「見知らぬ私」として固定化されたアイデンティティを解除するエクササイズであったことが了解される。
終盤、松根は字幕を通して語りかける。「子どもの頃、海を見るのが好きだった。(……)世界を自由に旅することを夢見た。僕はうまく踊れていますか? 入国審査官たちは入国を認めてくれるだろうか? 僕は、水平線の向こう側まで行けるでしょうか?」それは、くだんのダンサーの立場を自らの身に引き受けながら、ラディカルな問いかけと想像力をもって、あらゆる物理的/想像的なボーダーを越えていこうとする強い意志の宣言である。
また、上演会場内では松根による企画展『世界の向こう側へ』が開催され、「境界」「越境」をテーマとした国内外の美術作家8名(榎忠、ムラット・ゴック、アルド・ジアノッティ、マレーネ・ハウスエッガー、レオポルド・ケスラー、ミヤギフトシ、パトリシア・リード、ジュン・ヤン)の作品が展示された。なかでも、トルコとシリアの国境線のフェンスを切り取り、ハンモックを吊るして寝そべる命がけのパフォーマンスを敢行したムラット・ゴックの作品は、自らの肉体的駆使とユーモアによってオルタナティブな想像の回路を提示する姿勢において、松根作品と通底していた。
公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN
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舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス
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古典のラディカルな読み替えと「通過」の分水嶺──木ノ下歌舞伎『勧進帳』
2016/11/04(金)(高嶋慈)
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 木ノ下歌舞伎『勧進帳』
会期:2016/11/03~2016/11/06
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
現代演劇の演出家とタッグを組んで歌舞伎の古典演目を上演する木ノ下歌舞伎は、演出に杉原邦生を迎え、主君に対する弁慶の忠義の物語として知られる『勧進帳』を、現代における複数の境界をめぐる物語として読み直した。平家を倒すも、兄・頼朝に謀叛の疑いをかけられ追われる身となった義経一行は、山伏に変装して関所を越えようとする。義経一行ではないかと疑う関守の富樫に対し、機転を利かせた弁慶は、「本物の山伏」の証明として、ニセの巻物を「勧進帳」に見せかけて暗唱し、難を逃れる。だが、
だが木ノ下版『勧進帳』は、戦略的なキャスティングによって、批評的なエッジが際立つものとなった。弁慶には巨漢のアメリカ人俳優を、義経には性別適合手術を受けて「女性」となった俳優を配役。実際の歌舞伎では女形が演じることの多い義経だが、発声や容姿は両性具有的な存在感を放ち、特に「関西弁をしゃべるガイジン」が演じる弁慶は、標準語で話す一行の中でひときわ異質さを際立たせる。ここでは、セリフとしては一切明示されないものの、俳優の身体的条件が(日本)社会の中でのマイノリティを体現し、それゆえ彼らは「通過」を許されず「排除」の対象と見なされるのだ。
加えて秀逸なのが、義経の部下/富樫の部下を、同じ4人の俳優たちが場面ごとに入れ替わって演じる仕掛けである。役が固定されず流動化することで、状況次第で排除する側/排除される側のどちら側にもなりうることを示唆する。また、彼らの衣装が警備員や特殊部隊を思わせることも、ここでの「関所」が現代的な状況として敷衍されるものであり、国境線の通過を許可/拒否する入国審査や検問所、そこで人種や国籍などの差異を根拠として排除が正当化されることを強く示している(このテーマは、同じく「KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN」で上演された松根充和『踊れ、入国したければ!』と共通するものであった)。
だからこそ、「和気あいあいとした義経一行に憧れるも、コミュニケーションが苦手でうまくなじめず、疎外感とともに一人取り残される富樫」をやや感傷的に描くラストの落としどころは、作品の持つ批評的な方向性から浮いている感じがして惜しまれた。「現代の若者像の等身大の日常」へ収束してしまったように感じられ、テーマ性への掘り下げがあと一歩欲しいと思わせた。
公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN
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舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス
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「境界」と「越境」をめぐるイマジナリー──松根充和『踊れ、入国したければ!』
2016/11/03(木)(高嶋慈)
あごうさとし新作公演『Pure Nation』
会期:2016/11/03~2016/11/08
アトリエ劇研[京都府]
劇場空間に巨大なカメラ・オブスキュラを出現させ、観客は「暗い部屋」の内部に座り、劇場の壁=スクリーンに映し出される光の像を見つめるという仕掛けのパフォーマンス公演。ただし映画と異なるのは、「動く光の像」が何度でも再生可能なフィルムの映写ではなく、「暗い部屋」の外で俳優・ダンサーによってリアルタイムに行なわれる生身のパフォーマンスである点だ。
公演は対照的な前半と後半に分かれる。前半では、観客はカメラ・オブスキュラの内部で「映像」として鑑賞した後、後半では部屋の外に出て、生身のパフォーマンスに向き合うことになる。ブラックボックスとしての劇場空間の中に、入れ子状に暗箱が出現した構造だ。演出のあごうさとしはこれまで、ベンヤミンを参照した「複製技術の演劇」をキーワードに、スピーカーやモニターを空間に立体的に配置し、録音音声や映像のみによって構成される「無人劇」を発表してきた。本作の試みは、写真や映像の起源のひとつとしてカメラ・オブスキュラに着目したと理解できる。また、「Pure Nation(純粋国家)」というタイトルは、ベンヤミンの概念「純粋言語」に由来するという。ただし本作を実見して感じたのは、コンセプトや仕掛けのアイデアが先行し、前半の光の受像経験/後半の生身のパフォーマンス、そしてタイトルがうまくかみ合っていないのではないかということだ。
前半、「暗い部屋」の内部に座る観客は、背後の壁に空いた1点の穴から射し込む光が、壁におぼろげに映し出すイメージを闇の中で見つめ続ける。闇に目が慣れ、白い炎のようにゆらゆらと揺らめく不定形のそれが、倒立した人体像であると理解するまでに少し時間がかかる。一転して、暗箱の外に出て鑑賞する後半では、「私の身体を移植します」という宣言が口々になされ、下着姿の男女の出演者9名が、骨格の歪みや歩き方のクセを実際に骨や筋肉を動かしながらレクチャーし、他の出演者がそれを身体的にトレースする、というワークショップ的な試みが展開される。「移植」されるのは、片側の肋骨が飛び出している病状を持つ男性と、脊椎がSの字に湾曲している脊椎側彎(そくわん)症の女性の身体である。骨盤や肋骨、肩の位置、左右の重心の取り方、足の開き具合などを本人が説明したあと、「歩き方」「声の出し方」「転び方」を全員がマネてやってみる。「インストラクター」役は、他の出演者たちの姿勢をダメ出しして矯正したり、「あ、それは僕の歩き方ですね」とOKを出す。出演者たちはぎこちなく身体を動かしながら、今の身体の状態や内部感覚について、自分自身の身体が抱える微細な歪みについて、口々に報告する。やがて彼らは折り重なり、闇の中で蠢く原始的な生命体のような塊からは、「腸が縮む」「粘膜を貼り替える」「膝がない」「皮膚を失う」といった詩情さえ漂う言葉がブツブツと発せられる。
このワークショップ的なやり取り自体は面白い。だが本公演で私が感じたのは、「知覚」の問題が前景化するとともに、前半と後半の間に乖離が横たわっているのではないかということだ。前半でまず、確固たる輪郭線を持った統一的な全身像としての身体イメージが崩れる時間を経験した後、他人の身体(しかも病気と診断されるレベルの歪みを抱えた身体)を「移植」され、随意に動かせずにコントロール不全に陥った身体を目撃することになる。闇の中で純粋な光に目を凝らし、知覚の臨界が試される時間と、自他の境界が侵犯され融合していく時間。だが、目の前で繰り広げられる「移植」の実践を「見ている」だけでは、他人の身体内部で起こっている変容の感覚や違和感そのものを「感じ取る」「共有する」ことは困難だ。光の受像に没入する網膜だけの存在と化し、徹底して「見る」主体であることを要請される前半の時間と、見る主体として出来事から疎外される後半の時間。その落差。「カメラ・オブスキュラの中から外へ」というアイデア自体は面白いが、非身体的な網膜的存在から自らの身体感覚の(再)活性化へ、没入から覚醒へと溝を飛び越えるには、もっと別の仕掛けや介入の方法が再考されるべきではないか。その困難な企てこそが、「身体芸術」としての舞台芸術に要請されている。
2016/11/03(木・祝)(高嶋慈)