artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーク・テ『Baling(バリン)』
会期:2016/10/22~2016/10/24
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
マレーシアを拠点とするマーク・テが10年間の集大成として完成させた『Baling(バリン)』は、公に語られずにきた自国の現代史に光をあてるドキュメンタリー演劇。タイトルの元となった「バリン会談」とは、イギリスによる植民地支配、日本による占領を経て、国家の独立をめぐる内戦状態に陥った「マラヤ危機」を終結させるため、1955年に行なわれた和平会談を指す。会談に臨んだ3名の政治指導者は、マレー系マラヤ連邦初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン、中華系マラヤ共産党書記長のチン・ペン(陳平)、シンガポール主席大臣デヴィッド・マーシャル。ジャングルに潜伏してゲリラ戦で抵抗するチン・ペンが、公の場に姿を現わす稀な機会としても注目されたこの会談を報じるニュース映画の上映で、作品は幕を開ける。武装解除と共産党の解散(もしくは国外退去)を条件に講和を求めるラーマンとマーシャルに対し、粘り強く交渉するチン・ペンとのやり取りは平行線をたどる。本作から浮かび上がるのは、マレー系/中華系というエスニックな差異が、保守/共産主義というイデオロギーの対立と重ねられ、民族・階級・思想の分断線をより強固にしている点、そしてそうした多民族国家の姿をポストコロニアルな視点から検証する姿勢である。
『Baling』が秀逸なのは、実際の記録に基づいて俳優たちが会談を「再現」するとともに、シーン毎に3名の「役」が順番に入れ替わること、実際は男性のみの会談を1名の女性俳優を交えて演じること、そして俳優たちが手にした「台本」に視線を落としながら演じることで、歴史を「再現/再演」しつつ、歴史=フィクショナルな存在であることをパフォーマティブに示す点だ。こうした歴史の虚構性は、時局の推移に伴って両極的なイメージを付与されたチン・ペンの写真イメージについての考察を交えることで、より強調される。抗日闘争の英雄としてメダルを授与されるチン・ペン/政府にゲリラ戦で抵抗する悪玉組織のボスとして糾弾されるチン・ペン。パスポート写真から取られた後者の顔写真は、指名手配のビラのように天井から吊られ、上空から観客の身体の上に降りかかる。ここでは観客もまた、安全な傍観者として静観することを許されず、『Baling』が発する幾重もの問いの中に身体的に巻き込まれるのだ。
ニュース映画の上映、会談の「再現」と「役の交替」、そして俳優自身が個人的な活動について話す場面が交錯して展開する『Baling』では、場面の転換ごとに背景となる壁やスクリーンが切り替わり、床に座布団を敷いて座る観客たちは、視線の矛先を変え、時に身体ごと移動しながら鑑賞することになる。あるいは、観客という一時的な共同体は、その間に割って入る俳優によって二分され、撹拌される。歴史は仮構的であること、それゆえ多視点で複眼的に眼差す必要があることが、安定した位置を脅かし、視点を流動化させることで、文字通り身体的に経験/要請されるのだ。
こうした多視点的な空間構成は、作品中の「語り」の位相の複数性とも対応する。政府の公式見解/会談の実際の記録/俳優個人としての語りかけといった複数の「語り」が交錯することで、作品は、唯一の「声」への奉仕ではなく、内部にいくつもの分裂を抱え込みながら、「誰が、何を、どのような視点から語るのか」という意識への覚醒を呼び覚ます。それは、演じる役柄の交替という、フィクションであることを曝け出すメタ的な仕掛けともあいまって、歴史=フィクションへの疑義とともに、演劇という機制それ自体への問いでもある。
そして、「交換可能な役として演じられること」と「身体から引き剥がされた写真イメージの過剰性」によって浮かび上がるのは、チン・ペンの実体性の希薄さ、亡霊性である。アクティビストでもある一人の俳優が語るように、実体がなく死なない=亡霊として回帰するからこそ、支配層にとって「チン・ペン」は恐怖の対象となり、過剰な検閲や取り締りが課される(この俳優は、亡命先のタイで死去したチン・ペンの葬儀に出席し、式で配布された自伝的な記録本を「汚れた洗濯物の中に隠して」持ち帰ったが、マレーシアの空港で本の所持を発見された者は逮捕されたという)。
終盤、ドキュメンタリー監督でもある別の俳優が、晩年のチン・ペンを亡命先で取材した映像記録が流される。だがそこに映るのは、かつての革命の闘士の真実の姿ではなく、ほとんど記憶を無くし、言葉もおぼつかなく、質問に対してただ「生まれ故郷のマレーシアに帰りたい」と所在なく繰り返す、ひとりの老人だった。それは、「チン・ペン」の真のイメージの不在を告げるとともに、より象徴的には、歴史の「忘却」、記憶喪失、健忘症という事態を暗示する。
ここで、『Baling』を、複数の国による植民地支配を受けた多民族国家マレーシアという特殊なケースとして片付けることは、作品のより本質的な要素を見誤ってしまうだろう。作品という個別的な特異点から普遍性を抽出し、自らの文脈に照射させて考えることが真の受容ではないか。興味深いことに、2日間に及んだ会談の再現場面では、「First Session」「Second Session」と表示される字幕に、「上演時の現在時刻」が同時に示されていた。私たちはここで、単に歴史の回顧を超えて、その批判的検証を「現在」に引きつけて考える場にまさに「立ち会っている」のだ。それは、グローバル化の進展、難民や移民の増加、強まる保守化・右傾化、民主主義の機能不全など、近代国家のアイデンティカルな輪郭や基盤が再び問われている現在へと折り返して考えることを取りも直さず要請している。
公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN
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2016/10/24(月)(高嶋慈)
NEWCOMER SHOWCASE #3 黒田育世振付作品『ペンダントイヴ』
会期:2016/10/18
ArtTheater dB Kobe[兵庫県]
NPO法人DANCE BOXが主催する「国内ダンス留学@神戸」は、ダンサー・振付家を目指す人を対象に、劇場を拠点として約8ヶ月間、レクチャーやワークショップ、ショーイング公演を通して人材育成する取り組みである。「第5期生」を迎える本年度は、国内外で活躍する8名のアーティストの振付作品に取り組み、「NEWCOMER SHOWCASE #1~8」として公演シリーズを上演する。「#3」では、黒田育世が主宰するBATIKの代表作『ペンダントイヴ』(2007年初演)を、カンパニーメンバーと共に上演した。
BATIK作品の特徴は、身体を極限まで駆使する振付の過酷さや感情表現の激しさと、とりわけそれが女性ダンサーのみで踊られる際の、強烈な少女性の発露にあると言える。思春期にさしかかった少女たちが集団的陶酔の中で繰り広げる、渇望、破壊的衝動、抱擁や愛撫、恐怖、孤立、歓喜、絶望。理由は不明のまま、感情だけが裸形で増幅され、過剰な身振りとして提示される。色とりどりの花のようなワンピースをまとったダンサーたちは、泣き、叫び、笑い転げ、身体を床に激しく打ちつけ、痙攣し、身悶えし、「○○ちゃーん」と互いの名を呼び合う。「固有の存在」として承認されたい欲求や焦燥感と、それが成就された時の歓びと、絶叫するまで呼びかけても応えてくれない絶望とが渦まくように交錯する。
ダンサーは全身を痙攣させ、過呼吸のように肺を激しく上下させるが、それが「振付」であるのか、激しい運動のせいで本当に過呼吸に陥ったのか、判断不可能に思わせるほどの過酷さと暴力が露呈する。踊り狂い、走り回り、泣き叫び、疲弊していく身体は「死」に近づく一方で、生の充溢を極限まで剥き出しにする。倒れるまで踊っても、「せーの! 1、2!」という掛け声とともに立ち上がり、再び踊り始めるダンサーたち。少女たちは生贄として捧げられるが、「死」と「再生」は執拗に反復される。誰かが(おそらくは「不在」の男性が)それを望み続ける限り、本当の「死」は訪れず、生贄の儀式は繰り返されるのか。あるいは何度でも「生き返って」踊り続けることは、「無垢なる死」への果敢な抵抗なのか。クライマックスで、空中ブランコのようなバーに両手を掛けてぶら下がり、孤独な美しい独楽のように高速で回転し続けるダンサーは、「吊られたイヴ」をまさに体現しながら、紙吹雪が祝福的に降り注ぐなか、めくるめくエクスタシーを味わい続ける。
一方、今回の上演で興味深かったのは、10名の出演者のうち、1名の男性ダンサーが入っていたことだ。他の女性ダンサーたちと同じく、ワンピースを着用し、後半は下着姿で踊るが、「女性(少女)を演じよう」という意識の無さがむしろ違和感を感じさせず、彼の肉体のままで存在していた。そのことは、「純粋無垢な少女が持つ残酷さや、生贄としての死」といった定式の呪縛から、距離をおいてBATIK作品を見ることを可能にするとともに、身体それ自体の力強さやエネルギーの過剰さをクリアに浮かび上がらせていた。それは同時に、なぜ踊るのか? 身体があることは無上の喜びなのか、(痙攣や過呼吸のように)自分の身体から疎外される絶望的な苦痛なのか? 感情があるから身体が動くのか、身体に負荷をかけ続けることで制御不可能な感情が発生するのか? 集団の中で共にいることと、個別的な存在として承認されることは両立するのか? といった根源的な問いを発していた。
2016/10/18(高嶋慈)
フィオナ・タン「アセント」
会期:2016/07/18~2016/10/18
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
フィオナ・タンは、民族誌学のモノクロフィルムを用いた初期作品、日本の女学生の集合写真を用いた《取り替え子》(2006)など、ファウンド・フッテージやファウンド・フォトを積極的に援用してきた。とりわけ本展「アセント」に関連する試みとして、《Vox Populi(人々の声)》(2004-12)がある。《Vox Populi》は、一般家庭のアルバムに収められたスナップ写真を集め、撮影のシチュエーションの類似性や、ポーズや構図の類型化などによってグルーピングして展示した作品。元の文脈から引き剥がされ、新たな文脈に再配置された膨大な写真群からは、人々の集合的記憶や欲望が浮かび上がる。そこにはまた、見知らぬ他人のプライベートを覗き見しているという快感に、言いようのない不安が忍び寄る。それは、かけがえのない記憶の交換不可能な個別性・唯一性と、集団的に共有された類型化の均質性・等価性がせめぎ合うからだ。私たちは、写真を通してかけがえのない瞬間を記録しているのか? それともイメージの受容が先にあり、先行して存在する写真を通して「ふさわしい」ポーズや構図を学習し、記号化された類型を再生産する儀式的行為によって、それをより強固にしているだけなのか? 家族スナップや集合写真は、個別性をむしろ集合的な均質性へと馴らしていく装置なのか? さらに、入学式や卒業式、さまざまな機会に撮られる集合写真を通してポーズや並び方が身体化されることで、何らかの社会的集団への帰属が強化されていく。
本展で発表された新作《Ascent(アセント)》は、一般公募による富士山を被写体とした約4000枚の写真とIZU PHOTO MUSEUMのコレクションを元に制作されており、写真をモンタージュした映像作品と、151枚の写真のインスタレーションとの2部構成をとる。映像作品《Ascent》は、「富士山」をめぐるイメージの形成史や文化史の考察であると同時に、イメージの受容や写真/映像の差異など、イメージそれ自体についてのメタ的な考察でもある。さらに、膨大な写真群に重ねられるヴォイスオーバーは、作中でも引用される『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』を踏襲した男女の架空の対話であり、山についての映画史も言及されるなど、極めて多層的な構成となっている。
《Ascent》では、「雲海と富士山」「花と富士山」「車窓からの富士山」「富士山と子ども」「富士山を撮影する人」「富士山と水面」など類型ごとのカラーのスナップ写真の群れと、さまざまな時代の冨士山についての語りやイメージが交互に展開する。開国後に外国人向けのエキゾチックな土産物として生産された横浜写真、竹取物語で語られる「不死の山」、江戸期に広まった「富士講」や信仰の場としての富士山、戦前期のプロパガンダへの利用、戦後期GHQによる富士山の映った映画の検閲……。時間は線的に流れず、ぐにゃぐにゃと曲がりくねって錯綜する。さらに、男の語る言葉は「遅れて届いた」手紙の文面であること、男は2011年に死亡していることが明かされ、現在と過去の時間軸もまた錯綜する。富士山への揺るぎない信仰は、写真に写されたもの=真実と見なす姿勢へとパラフレーズされるが、イメージや語りの時制が溶かし合わされることで、富士山という象徴性と物質の両面において堅固な存在は、泥のように柔らかく溶解していく。タンは、作中で「氷」に例えられる写真によって固定化・凍結するのではなく、写真をモンタージュすることで、光と影に揺らめく「炎」、さらには揮発性で熱をもつ「蒸気」に例えられる映像の溶解的な質へと変貌させていく。
私たちが見ているのは、集合的に作り上げられた「富士山」という幻影に過ぎないのかもしれない。既成のイメージを裏切りたいならば、自らの肉体を駆使して登るしかない。だが、実際に登山した経験を語る男は、山頂で「何もない」ことに気づき、絶望する。女神の御座所として女性性を付与される富士山に対し、山の征服に駆られる男性登山者たちの物語(とその失敗)が語られる。それでも「見続ける」しかないのであれば、眼差すべきはイメージそのものを超えて、その背後にある可視化への欲望の力学である。
2016/10/17(高嶋慈)
BODY/PLAY/POLITICS
会期:2016/10/01~2016/12/14
横浜美術館[神奈川県]
「BODY/PLAY/POLITICS」という簡潔にして示唆的なタイトルに惹かれて展覧会へ。出品作家は6名。ロンドン生まれでナイジェリアに育ち、植民地支配をめぐるヨーロッパとアフリカの複雑な関係やアイデンティティの多層性を「アフリカ更紗」を用いて表現するインカ・ショニバレ MBE、マレーシア出身の女性作家イー・イラン、映画監督としても知られるタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン、現代ベトナムの都市をダイナミックに映し出すウダム・チャン・グエン。日本からは、ダイアン・アーバスや鬼海弘雄の系譜に連なる、特異な風貌の人物のポートレートを撮る石川竜一と、映像、インスタレーション、パフォーマンスなどにより、ナラティブの生成と解体を同時に試みるような作風の田村友一郎が参加している。それぞれの文化的背景や制作の文脈は一見バラバラで、展覧会としてはやや拡散して見えるが、インカ・ショニバレ MBE、イー・イラン、田村友一郎の3者の作品にフォーカスを当てることで、一つの焦点が浮かび上がってくる。それは、ジェンダー、とりわけ「衣服」「身体」といった装置を通して演じる(「PLAY」)ことで、ある社会的集団や、宗主国/植民地、占領国/被占領国といった集団(「BODY」)間で形成されるアイデンティティと、そこに内包されたジェンダー関係という政治性(「POLITICS」)である。
インカ・ショニバレ MBEの映像作品《さようなら、過ぎ去った日々よ》では、黒人の女性歌手が、ヴェルディ作曲のオペラ『椿姫』のヒロインである娼婦ヴィオレッタに扮してアリアを歌いながら、主が不在の館を彷徨う。彼女がまとうドレスの鮮やかなアフリカ更紗は、1960年代のアフリカ独立の際にアイデンティティの象徴として用いられたが、実際にはインドネシア由来の模様で、ヨーロッパで大量生産され、アフリカに輸入されたという複雑な性格を持つ。また映像には、フランスに勝利した大英帝国が覇権を強めるきっかけになったトラファルガー海戦で命を落とし、英雄となったネルソン提督の死にまつわる絵画が引用される。複数の女性と愛人関係を持っていたと言われるネルソン。ここで、黒人女性が演じる悲痛に暮れたヒロインは、西洋宗主国(=男性支配者)に経済的に依存し、性的にも搾取される「アフリカ」の擬人化と見なせるだろう。
一方、イー・イランの映像作品では、長い黒髪を垂らして顔を隠した7人の女性たちが、初体験、パートナーとの関係、結婚観、子どもを産むことは義務か個人の選択なのかについて、赤裸々に会話する。ここで、彼女たちの顔を覆い隠す黒髪は、プライベートであけっぴろげな発言を許容するモザイクのような機能を果たし、かつ女性性を強調するとともに、作家の出身国マレーシアの国教がイスラム教であり、人口の半数以上を占めるマレー系を中心に信仰されていることを考えるならば、「ベール」を暗示するとも読める。「男性の視線から髪を隠す」ためのベールそれ自体を「髪」で代替するという皮肉な転倒を戦略的に用いることで、彼女たちは、(タブー視されている)自らの「性」についての主体的な語りを取り戻すことができるのだ。
また、田村友一郎の映像インスタレーション《裏切りの海》は、「ボディビルディング」を軸に、複数の時空間や史実/フィクションの境界が曖昧に混ざり合う空間を形作っている。占領下の横浜を闊歩した米兵の肉体に魅せられ、日本におけるボディビルディングの第一人者となった人物の回想、彼から肉体改造の訓練を受けた三島由紀夫の小説、2009年に横浜の海中で見つかったバラバラ殺人事件、1972年にイタリアの海中で発見された古代ギリシアの戦士像。これらについての架空の会話が流れる会場には、男たちの社交場としてのビリヤード台が置かれ、映像内では黒ビキニ姿のマッチョな男たちがビリヤードに興じている。展示台に置かれた、作りかけのようなトルソや手足の断片化された彫像は、理想的な肉体美への憧れとその無残な解体を同時に示す。ここで、ミルク=精液の摂取によって強い肉体を手に入れることは、身体の鍛錬を通した西洋的な規範への服従とその内面化であり、その男性性の獲得への強烈な渇望は、「強いアメリカ」に組み敷かれた敗戦国としてのコンプレックスの裏返しをさらけ出す。
このように3者の作品に焦点を絞ることで浮かび上がるのは、他者の視線を内在化してしまうことでアイデンティティが演じられるという表象の力学の政治性とともに、そこからの逸脱や解体の企てである。
2016/10/17(高嶋慈)
ヨコオ・マニアリスム vol.1
会期:2016/08/06~2016/11/27
横尾忠則現代美術館[兵庫県]
備忘録とアイディアスケッチを兼ねた日記、作品のモチーフとして引用された写真や印刷物、作品から派生した商品やグッズ、絵葉書やレコード、フィギュアなどの膨大なコレクション。こうした横尾忠則の制作に関するアーカイブ資料に光をあて、調査過程の現場も含めて公開する展覧会シリーズが「ヨコオ・マニアリスム」である。本展はその第一弾。
横尾が1960年代より書き続けている大判の日記には、その日の出来事の記録や写真の貼付に加えて、アイデアのメモやラフスケッチも記されている。日記の見開きページの複写と、「完成作」の絵画作品が対置され、両者の対応関係を読み取れる展示構成だ。さらに、半ズボンの制服姿で探検する少年たちや、涅槃像といった同一モチーフが自己引用的に反復されることで、作品どうしがゆるやかに変奏していくようなシークエンスが構成される。また、絵画やポスターのモチーフの引用元となった雑誌の写真や挿絵、自作を商品化したグッズ、「涅槃像」「猫」「ビートルズ」「ドクロ」といったカテゴリーごとにコレクションされた切り抜きやフィギュアが並置され、イメージが乱反射し合う磁場を出現させている。それは、大量生産されたイメージが「作品」を生み出し、さらに「作品」(の一部)がグッズやポスターなどの複製品として大量生産されていく、イメージが引用と消費を繰り返しながら自己増殖する回路である。横尾の「ポップさ」とは、単に図像の大衆性の問題だけでなく、むしろこうした自己増殖的な回路にこそある。
またここには、アーカイブにおける、収集行為と増殖性、価値のヒエラルキーの解体・相対化といった性質を見てとることができる。さまざまな「資料体」が等価に位置づけられる巨大なアーカイブ、その相互参照的なネットワークの中に「作品」を組み込み、位置づけ直して眺めたとき、「署名されたオリジナルとしての作品」/「作品以外の資料」という価値のヒエラルキーは解体され、相対化されていく。さらに、新たな資料が収集され、リストに付け加えられ、カテゴリーの追加や細分化、分岐や再接続が行なわれることで、ネットワークは絶えず更新され、書き換えられていく。従って本展の場合、「資料」が保管庫から「展示室」の中へ持ち込まれ、「作品」と並置される、あるいは調査過程そのものが「進行中」の現場として展示空間に出現するとき、いかに美術館という制度への批評となるか? という問いこそが問われていると言える。
ただし、本展では、展示室中央に設けられた「作業スペース」は、確かに「ワーク・イン・プログレス」の体をとってはいるが、壁面の展示や展示ケースからは見えない壁で分離され、展示の秩序は新たな変更や追加を受け入れることなく固定化されており、原理的に完成形を持たないアーカイブが潜在的にはらむダイナミックな動態を体感させているとは言い難かった。逆に言えば、「アーカイブ」という視点を持ち込むことは、「美術館」の制度を批評的に問い直す契機となるのではないか。
2016/10/15(高嶋慈)