artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
国立新美術館開館10周年記念 シンポジウム1「展覧会とマスメディア」
会期:2017/01/21
国立新美術館3階講堂[東京都]
自分の出たイベントや出品した展覧会については書かないようにしているが、このシンポジウムはこれまでありそうでなかったテーマだったので、それなりに意義があると思い書かせてもらう。テーマの「展覧会とマスメディア」とは、日本では美術館やデパートがおもに海外の大きな展覧会を開くとき、新聞社やテレビ局と共催する場合が多く、これを俎上に挙げようというもの。この美術館とマスメディアの「共催展」というのは、貸し画廊や公募団体展と並ぶ日本美術界のガラパゴス現象のひとつだが、もともと日本の美術館はコレクションが貧相で予算も少なく非力だったため、海外にネットワークを持ち、資金も情報も豊富で、宣伝力に長けた新聞社に展覧会企画を頼らざるをえなかったという事情がある。新聞社にとっては利益もさることながら、芸術文化に貢献することで自社のイメージアップを図れるメリットがあった。いいことずくめのようだが、マスメディアの本義である報道の面からいうと、自社の主催する展覧会は大きく取り上げるのに(この場合、報道と広告との境界が曖昧になりがち)、他社の展覧会は無視するか、終了まぎわに紹介するといったことがまかり通り、公平性を欠く恐れがある。これは以前から指摘されていたことだが、ほとんど問題にされることはなかった。
前説が長くなったが、まあそんな話をしようってことだ。登壇者は、日経新聞社文化事業局兼経営企画室シニアプロデューサーの井上昌之さん、読売新聞東京本社編集局文化部長の前田恭二さん、三菱一号館美術館館長の高橋明也さん、兵庫県立美術館館長の蓑豊さん、国立新美術館副館長の南雄介さん、という「長」のつくリッパな肩書きの人たちに囲まれて、ぼくは肩身が狭い。司会は国立新美術館の青木保館長。前半はそれぞれの立場から20─30分ずつレクチャーして、最後に全員で討論となるのだが、6人が話をするだけで3時間以上を費やし、話すほうも聞くほうも疲れるわ。前半は新聞社の方も美術館の方も、だいたい自分とこでやった共催展について話されたが、前田氏の「何とかしてクレー展」はタイトルだけでなく内容もおもしろかった。1961年に読売新聞社が池袋西武と共催した「クレー展」が実現するまでの綱渡り的な内情を暴露したもの。西武百貨店の堤清二、美術評論家の瀧口修造、神奈川県立近代美術館の土方定一といった戦後美術を担う伝説の人物たちが暗躍したこと、しかし日本には向こうとのやりとりを裏づける記録がなく、スイスのパウル・クレー財団にアーカイブされていたことなど、興味深い話だった。
手前味噌だが、ぼくは東京都美術館の開館(1926)からバブルの時代まで、つまり昭和期における新聞社と展覧会との蜜月ぶりをたどってみた。これは調べてみるとおもしろく、蜜月時代にもふたつほどピークがあって、第1のピークは、都美館で戦争美術展が次々と開かれた昭和10年代後半の戦中期、第2のピークは「ミロのヴィーナス」や「ツタンカーメン展」など、入場者が100万人を超す展覧会が目白押しだった昭和30年代後半の高度成長期だ。ちなみにどちらも主催は朝日新聞社の独占状態。しかし80年代からテレビ局が参入して宣伝方法も変わり、展覧会の内容も変質していく……というような話をした。結局、最後の討論は1時間ほどしかなく、報道と共催展の兼ね合いをどうするかとか、人気画家や人気美術館の展覧会に頼ってばかりでいいのかといった問題に対して、どこまで議論を深めることができたか心もとない。それにしても、最初から最後まで聞いてくれた人っているのかな。
2017/01/21(土)(村田真)
エリザベス ペイトン:Still life 静/生
会期:2017/01/21~2017/05/07
原美術館[東京都]
3年前のミヒャエル・ボレマンスに続く待望の絵画展。そういえばボレマンスとペイトンの絵は似てないけど似てなくもない(どっちや!)。どちらも人物が中心で、ペインタリーで、部分的に薄塗りで、小さめの作品が多く(原美術館が会場だからか?)、そして追従者が多いからだ(来年の卒展にはますますペイトン風の絵が増えるはず)。でも違いも大きい。ペイトンのほうがプリミティヴで、色彩が美しく、絵画としてより自律しているように見える。ドラクロワやクールベのよく知られた絵画、あるいはジョージア・オキーフ、カート・コバーン、ヨナス・カウフマンの肖像など、彼女にとって身近で愛すべきモチーフが採り上げられるのも特徴だ。この親密さと小ぶりのサイズがコレクターにはたまらないのよ。出品作品の大半は個人の所蔵だという。
2017/01/20(金)(村田真)
吉岡徳仁 スペクトル ─ プリズムから放たれる虹の光線
会期:2017/01/13~2017/03/26
資生堂ギャラリー[東京都]
いつものように資生堂ビルの階段を降りていくと、地下中2階に受付が移動している。ひょっとして入場料をとられるのではとアセったが、そんなことはない。移動した理由は階下に降りてみるとわかる。地下空間でスモークをたいているのだ(だからエレベータも使えない)。資生堂ギャラリーは奥の小さめの部屋と手前の大きめの部屋に分かれるが、奥の部屋に大きなパネルを立て、そこに透明な三角柱(プリズム)を3つ組み合わせたユニットを数十個並べ、裏から光を当てている。プリズムを通過した光は大きな空間の床や壁に小さな虹をたくさん生み出す。光源はわずかに動いているので虹も少しずつ動くという仕掛け。たいへんな装置だし、美しい光景を現出させるが、それだけ?
2017/01/20(金)(村田真)
美しい偶然と意図
会期:2017/01/18~2017/01/30
国立新美術館[東京都]
タイトルを聞いてなんの展覧会かと思ったが、サブタイトルは「地域で共に生きる障害児 障害者アート展」。港区内の障害者施設でつくられた絵や工作を公開し、障害者への理解を図ろうということだ。ある壁には港区内の小中学校の生徒たちと、施設や作業所に通う障害者の作品を混ぜて展示しているが、ひと目見て障害者の作品は区別がつく。それだけユニークだからだ。逆にいうと、小中学生の描く絵はみんな似たり寄ったりで哀れなくらい。展示室の奥には代表的な「アール・ブリュット」の作品も展示されていて、こちらのインパクトはメガトン級だ。例えば斎藤勝利は、スケッチブックの見開きいっぱいに鉄橋やトンネルなどの風景画を描いている。車や電車から見た風景だろうか、どれもパースが利いているし、建造物の構造もしっかり捉えている。聾学校出身の彼は耳が聞こえない分、見える世界を手でつかむように触覚的に把握しようとしているのかもしれない。だが、いまは目も見えなくなったそうだ。辻勇二は高い場所からながめた街景を記憶に留め、家に帰ってからペンで克明に描いていく。風景でも本でも音でもいちど目(耳)にしたものはすべて暗記し、再現できてしまうという、いわゆるサヴァン症候群だ。彼の場合、必ずしも正確な再現ではないが、屋根の瓦1枚1枚、線路の枕木1本1本まで描き倒し、画面を埋め尽くそうとする執念みたいなものに圧倒される。彼らの作品は「理解」するべきものではない。われわれ凡人の理解を超えたところにあり、「畏敬」すべきものである。
2017/01/18(水)(村田真)
5Rooms─感覚を開く5つの個展
会期:2016/12/19~2017/01/21
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
頭で考えるより、いかに「心に響くか」という直感で選ばれた5人のアーティスト。うち3人は未知の作家なので、どんなアンサンブルが聞かれるか楽しみだ。最初の部屋の出和絵理は、和紙のような白い素材で花や花器みたいな幾何学的形態を組み立てているが、じつはこれ、薄く伸ばした磁器だという。次の部屋の染谷聡は、植物素材と漆を組み合わせた彫刻ともオブジェとも現代いけばなとも呼べそうな作品。このふたりの作品は繊細で魅力的だが、それ以上に伝わってくるものがない。ひとことでいえば工芸的。さらに次の部屋の小野耕石は、紙の上にシルクスクリーンの版を100回くらい重ねてインクを盛った作品を、水平に寝かせて見せている。ほかに動物の頭蓋骨や蝉の脱け殻にもインクを盛っている。これも繊細で根気のいる仕事で、ある意味工芸的ともいえるが、いったいなにをやりたいんだか、どこにたどりつくんだか、よくわからない不気味さがある。次に進むと、齋藤陽道によるスライドインスタレーションとプリント写真の展示で、前の3人との共通性が失われてしまい、どういう企画展なのかつかみがたくなる。まあ5人の個展と考えれば共通性は必要ないのだが。さらに勝手に期待したアンサンブルをぶち壊してくれたのが、最後の大きな部屋に展開する丸山純子のインスタレーションだ。暗い空間に長さ10メートル以上はあろうかという廃船をなかば解体し、上から雪かホコリのように石鹸粉をまいている。ほかにも廃油石鹸の巨大な固まりの上から水滴を垂らして浸食させたり、殴り書きしたおびただしい量のボール紙を壁に貼ったり。ここには工芸的な意味での繊細さはなく、むしろ暴力的ともいうべき解放感に満ちている。出品作家5人に共通項はないけれど、見る順序は絶対これじゃないとダメだろうね。
2017/01/16(月)(村田真)