artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

柳幸典「ワンダリング・ポジション」

会期:2016/10/14~2016/12/25

BankART Studio NYK[神奈川県]

柳は日本の現代美術シーンの中心にいると思ったら、いつのまにか忘れられて、でもまた注目を浴びたかと思ったら、また中心から外れていくという繰り返し。それが「ワンダリング・ポジション」(=さまよえる位置)の意味のひとつだろう。ぼくが最初に見た柳の作品は、たしか土の球体だ。一見重そうだが、ヘリウムガスを詰めたバルーンの表面に土を塗っているので宙に浮く。次に見たのは、色煙を詰めたドラム缶を絵具のチューブに見立て、周囲をカラーに染める作品。その次が地面を鯛のかたちに掘ってモルタルで固めた巨大な鯛焼き状の作品だったと思う。いずれも80年代後半で、どれもダイナミックでありながらとぼけたユーモアを漂わせるが、思いつきでやってるようで一貫性が感じられず、捉えどころがなかった。それも「ワンダリング・ポジション」と呼ばれるゆえんだ。そのせいか、活躍が目立つ割に、90年ごろから増えてきた欧米を巡回する日本の現代美術展に選ばれることも少なかった。あとで考えれば、彼こそ80年代のポストもの派と90年代のネオポップをつなぐ存在だったことに気づくのだが。
この展覧会には初期の土の球体をはじめ、蟻が浸食する「国旗」シリーズ、判子やネオンでつくる「日の丸」シリーズ、憲法9条を分解してネオンで表示する「アーティクル」シリーズなど、代表的な作品がほぼそろっている。圧巻は3階のインスタレーションで、瀬戸内海の犬島プロジェクトの一部を再現したもの。正面に見える光に向かって暗い迷路を歩いて行き、ようやく出口にたどりつくと、そこに広島に投下されたリトルボーイがぶら下がっている。これは迷宮に閉じ込められたイカロスが翼をつけて脱出し、太陽に近づいて落下したという神話を現代に重ねたもの。さらに奥の部屋に進むと、放射能の汚染土を詰めた黒い袋や廃車、廃棄物でつくられた巨大なゴジラの頭が鎮座する。ゴジラが放射能によって突然変異し、放射能をまき散らすモンスターであることを思い出せば、3階のインスタレーションがなにを表わしているかはいうまでもない。ここは見事に一貫している。

2016/10/14(金)(村田真)

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クラーナハ展 500年後の誘惑

会期:2016/10/15~2016/01/15

国立西洋美術館[東京都]

クラーナハといえば、マルティン・ルターの肖像画や艶かしいヴィーナス像で知られる画家だが、日本ではデューラーほど紹介されておらず、今回が初めての展覧会となる。それにしてもなんでいまクラーナハなのかと思ったら、来年がルターの始めた宗教改革の500周年に当たるからだ。そうか、ヨーロッパでは宗教改革がらみの展覧会がたくさん企画されてるに違いない。さて、同展にはルターやヴィーナスのほか、みずから胸に剣を突き立てるルクレティア、敵将の首を掻き切るユディット、老人と若い女性の「不釣り合いなカップル」(現代なら援交か)など、エグいモチーフが目立つ。ときおりクラーナハに触発されたピカソの版画や、北方ルネサンスの影響を受けた岸田劉生や村山知義による肖像画、クラーナハのヴィーナスを彷彿させるジョン・カリンのヌード画、ユディットを翻案した森村泰昌のセルフポートレートなどが出てきて面食らう。西洋美術館も進化したもんだ。圧巻はレイラ・パズーキの《ルカス・クラーナハ(父)〈正義の寓意〉1537年による絵画コンペティション》。西洋名画を大量にコピーすることで知られる中国・深圳の芸術家村の画家100人に、クラーナハの《正義の寓意》を模写させたもの。「クラーナハ展」にこんな大量の「贋作」を出していいのか。おもしろいのはこれを描かせたのがイスラム教国イラン人で、描いたのが中国人であること。西洋美術がアジアにシフトしてきている。

2016/10/14(金)(村田真)

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デトロイト美術館展 ~大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち~

会期:2016/10/07~2016/01/21

上野の森美術館[東京都]

デトロイトといえばかつて自動車の街として栄えたが、近年は自動車産業の低迷で都市は財政破綻し、いまや全米一治安の悪い都市として知られるようになった。とはいえ、かつて栄えた街には必ずすばらしい美術館があるもの。このデトロイト美術館も例外ではなく、ヨーロッパの近代絵画を中心とする質の高いコレクションがそろっている。ということはこの展覧会、コレクションを国外に巡回させて少しでも予算の足しにしようというコンタンだろう。そんな面倒なことをするより、コレクションそのものを売っぱらってしまえという乱暴な話も出たらしいが、そこはなんとか踏みとどまったという。展覧会の導入部は美術館の紹介だが、ホールの壁4面に描かれたディエゴ・リベラのフレスコ画の写真パネルがあり、これは実物を見てみたくなった。
展示は1階が19世紀後半、2階は20世紀前半の近代絵画。ドガは初来日の《女性の肖像》をはじめ5点、セザンヌは《三つの髑髏》など4点と、なかなかの品揃え。オッと思ったのは、ヴァロットンの美しい作品《膝にガウンをまとって立つ裸婦》があったこと。ヴァロットンが選ばれたのは、最近日本でも展覧会が開かれたからだろう。2階に上がるとフォーヴィスムやキュビスムが並ぶ、と予想したら大ハズレ、意外なことにドイツ近代絵画が並んでいるのだ。しかもその大半はナチスに「退廃芸術」の烙印を押された表現主義ではないか。ひょっとしてこれらはナチスがドイツ中から前衛絵画を集めて売り払った際、そのころ羽振りのよかったデトロイトが買ったものかもしれない。ナチスに嫌われそうなキルヒナーの《月下の冬景色》、ルシアン・フロイドに通じるオットー・ディクスの《自画像》がすばらしい。最後が20世紀前半のフランス絵画で、特にマティスの1910年代に集中した3点と、ピカソの初期からキュビスム、古典主義を経て晩年にいたるまでの6点が見られた。「クラーナハ展」の内覧会までの時間つぶしに見たわりに収穫の多い展覧会だった。

2016/10/14(金)(村田真)

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岡山芸術交流2016

会期:2016/10/09~2016/11/27

旧後楽館天神校舎跡地+岡山県天神山文化プラザ+岡山市立オリエント美術館ほか[岡山県]

各地で国際展や芸術祭が激増している。増えるのは悪いことではないが、問題は優れたアーティストやキュレーターは限られているので、被ってしまうこと。結果どこも同じような顔ぶれ、似たような作品が並ぶことになる。そもそも国際展や芸術祭はほかとの差異化を図り、独自性を打ち出さなければ意味ないのに、横並び体質の行政が主導するとどうしても均質化してしまうのだ。これでは見に行く気がしない。そんななか、ぜひ見に行きたいと思ったのが「岡山芸術交流」だ。なぜ見に行きたいかというと、まず第一に行政主導ではなく、岡山の実業家でコレクターの石川康晴氏が主導していること。第二に、そのためキュレーターもアーティストもほかとあまり被っておらず、独自性を発揮できていること。第三に、作品の多くはわかりやすい絵画や彫刻ではなく、見る者に「芸術とはなにか」を考えさせる広義のコンセプチュアルアートであることだ。だからとっつきにくいかもしれないが、近ごろの住人や観客にこびたようないわゆる「地域アート」よりずっといい。
参加作家は31組で、日本人は4人だけ。多少とも名を知られているアーティストはフィッシュリ&ヴァイス、ピエール・ユイグ、ジョーン・ジョナス、リクリット・ティラヴァーニャ、ローレンス・ウェイナー、眞島竜男、島袋道浩くらい。アーティスティックディレクターを務めるリアム・ギリックともども、大半が無名のアーティストなのだ。その姿勢は潔い。ただし出展作品は、アーティストが来日してつくった新作ばかりというわけにはいかず、3分の1は石川氏のコレクションから出ているという。じつは個人的に一番おもしろかったのは、これら旧作を使ったオリエント美術館での展示。モザイク画の隣に赤いミニマル絵画を展示したり(ロバート・バリー)、古代遺物の上方にパンダとネズミのぬいぐるみを吊るしたり(フィッシュリ&ヴァイス)、美術館側もよくやらせたもんだと感心する。ほかにも、銀色に輝く彫刻が駐車場跡地に軟着陸したようなライアン・ガンダーの《編集は高くつくので》や、武器としての弓が弦楽器の弓に変化していく過程を映像化した島袋の《弓から弓へ》が強い印象を残した。どちらもとぼけた外観の内に強いメッセージ性が読み取れる作品だ。やっぱり国際展=芸術祭はこうでなくっちゃ。

2016/10/08(土)(村田真)

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坂本和也「Between Breaths」

会期:2016/09/30~2016/10/29

nca[東京都]

150号を3枚つなげた超大作《Landscape gardening》を中心に、ジャングルを思わせる濃密な緑の絵画が16点。よく見ると2種類あって、ひとつは《Landscape gardening》に代表されるように枝、葉などをはっきり描き分けた具象的植物画、もうひとつは手前にある《Imbalance》のように、ナイフでコテコテ塗りたくった表現主義的抽象だ(加えてその中間に位置する作品もある)。前者はほとんどオールオーバーだが、気をつけて見ると、例えば《Day by Day》は四辺に沿って黄緑色の枝または蔦がはい、矩形の画面を補強しているのがわかる。画面に対する意識がきわめて高い。

2016/10/07(金)(村田真)