artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

被爆70周年 ヒロシマを見つめる三部作 第1部「ライフ=ワーク」

会期:2015/07/18~2015/09/27

広島市現代美術館[広島県]

県美からタクシーで現美に移動。「ライフ=ワーク」は事前情報ではいまいち意味がピンと来なかったが、展示を一巡してなんとなく納得。まず最初に目にするのは被爆者が描いた50点ほどの「原爆の絵」だが、これがスゴイ。全身に黄色い菊の花をまとってるように見えるのは腐乱した死体だし、アフロヘアの黒人女性がヌードで横たわってるように見えるのは真っ黒焦げの女性だし、ホタルイカみたいなのがたくさん浮いてるのは川面を埋め尽くした死体の群れだし……。爆発の瞬間を捉えた絵もあって、1点は街の上空がピンクと水色のストライプで覆われ、もう1点はちょっと理解しがたいのだが、乳房みたいなかたちが向かい合わせになり、先端から赤、白、ピンク、黄色、黒の順に塗られていて、どちらも抽象画に近くなっている。爆心に近くなればなるほど具象物は消え去り、抽象に染まるはずだろうけれど、それを見たものも消え去ってしまうわけだ。いずれも稚拙な絵ばかりだが、にもかかわらずスゴイものを見てしまったという気分。不謹慎を承知でいえば、もはや悲しいとかカワイそうとかヒドイとかいった気分を通り越して、笑いさえ出てくる。稚拙な絵であるにもかかわらずではなく、稚拙な絵だからこそ見る者の心をざわつかせるのだ。これはまさにアウトサイダー・アートならではの力、美術館ではなかなか出会えない衝撃だろう(ちなみにこれらの絵は平和記念資料館蔵)。おそらくこれら「原爆の絵」の対極に位置するのが、県美で見たばかりの技量を尽くした戦争画ではないだろうか。
その後、シベリア抑留体験を終生のテーマにした香月泰男や宮崎進、被爆体験に基づく作品を手がけた殿敷侃、被爆者の衣服などを撮った石内都らへと続き、県美とも一部かぶっている。ところが終盤になると、戦争をテーマにしてるけどまだ30代前半の後藤靖香や、戦中戦後にかけて30年間にわたり路傍の草花を細密描写し続けた江上茂雄、花のある風景写真を色鉛筆で克明に写し取った吉村芳生など、作品は徐々に戦争や被爆から離れ、最後は延々と迷路を描き続けるTomoya、映像とインスタレーションの大木裕之で終わる。最初の「原爆の絵」からずいぶん逸脱したような印象で、いったいどういう展覧会なのか、なにを伝えたいのか混乱してしまうが、ここに通底しているのは、彼らの「生」と作品が一致している(ライフ=ワーク)ということだろう。これらの作品は作者の人生に、否応なく降り掛かった運命に決定づけられているのだ。

2015/08/21(金)(村田真)

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広島・長崎 被爆70周年──戦争と平和展

会期:2015/07/25~2015/09/13

広島県立美術館[広島県]

日帰りで広島へ。今年は被爆70周年ということで、核や戦争を巡る展覧会がいくつか開かれている。まず広島県立美術館の「戦争と平和展」。ここは初めて訪れるが、思ったより大きく、地上3階、地下1階建てで、「戦争と平和展」は2階の常設展示室を使っている。ちなみに3階の企画展示室では「藤子・F・不二雄展」を開催中で、館内は子どもたちでにぎやかだが、残念ながら子どもたちは2階には行かないようだ。「戦争と平和展」は頭に「広島・長崎 被爆70周年」とあるように、長崎県美術館との共同企画で、両館のコレクションを中心とする展示(秋には長崎にも巡回)。19世紀初めのナポレオン戦争から20世紀の二つの世界大戦を経て現代まで、約170点の絵画、版画、写真、彫刻で構成される。前半(第2次大戦前まで)は西洋美術がほとんどだが、ゴヤの「戦争の惨禍」シリーズや、オットー・ディックスの「戦争」シリーズなど版画が大半を占め、油彩は数えるほどしかない。とはいえディックスの表現の強さにはあらためて驚かされる。ハイライトはやっぱり第2次大戦中の戦争画で、宮本三郎《南苑攻撃図》、小早川篤四郎《印度洋作戦》など10点ほど出ている。絵画としておもしろいのは、出征する兵士を見送る様子を20数人の表情だけで表わした阿部合成《見送る人々》、闇夜のなか画面中央に高射砲を映し出すスクリーンを描いた鍋井克之《戦況ニュース「納涼映画会」》、中国戦線で休息中の兵士たちの横に銃後の日本の農村風景が幻出する花岡萬舟《銃後ト戦線ノ勇士》などだ。
敗戦後は被爆写真とともに、丸木位里・俊《原爆の図》、福井芳郎《ヒロシマ原爆(産業奨励館1947)》といった被爆の惨状を描いた作品や、香月泰男「シベリア・シリーズ」、浜田知明の版画シリーズ「初年兵哀歌」など自らの戦争体験を描いた作品が並ぶ。被爆者の平山郁夫は広島の空一面を朱に染めた《広島生変図》も出してるが、それより興味深いのは原爆を投下したエノラ・ゲイを描いた水彩の小品。彼はどういう思いでこれを描いたんだろう。展覧会は被爆者の衣服を撮った石内都の「ひろしま」シリーズで終わってるが、いつものように会場を逆流してもういちど見て行くと、なんと戦争画の存在感のなさ、リアリティのなさが際立つことか。宮本三郎も小早川篤四郎も同展のなかではかなり大きなサイズ(200号大)で、しかもリアリズム表現に徹した絵画であるにもかかわらず、とくに敗戦後の打ちひしがれたような光景を描き止めた作品に比べると、まったくといっていいほど切実感がなく、リアリティに欠けてるように感じるのだ。もともと戦争画(作戦記録画)を依頼された画家は、従軍したとしても前線まで行かないし、すでに戦闘が終わった後の風景を見てスケッチするくらいで、多くは写真や兵士たちの証言を参考にして描いたものだから、リアリティがないのは当たり前といえば当たり前だけど、でもこんなに薄っぺらく感じたのは初めてのこと。逆にいえば、いくら技量に欠けていても、いくらデフォルメしていても、ディックスや香月のように実際に目撃したり体験したりした人の絵には目を釘づけにするだけの訴求力があり、ウムをいわせぬ説得力があるということだ。

2015/08/21(金)(村田真)

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大地の芸術祭──越後妻有アートトリエンナーレ2015

会期:2015/07/26~2015/09/13

越後妻有地域 (新潟県十日町市、津南町)[新潟県]

今日は合宿の最終日。まずはまつだい農舞台へ。ここでの見どころは、福住廉企画の「今日の限界芸術百選」展と、イリヤ&エミリア・カバコフの新作《人生のアーチ》。前者は華道家、パンクバンド、風呂屋のペンキ絵師など30組近い限界芸術家が出品するアウトサイダー系アートの祭典。入口正面に植物とガラクタを組み合わせたいけばなを出品し、屋外には自家用車にチョンマゲをくっつけた《暴走花いけ限界チョンマゲ号》を展示している上野雄次は、いけばなとしては異端だろうけど、現代美術としてはフツーかもしれない。逆に、羽生結弦、滝川クリステル、マララ・ユスフザイを墨絵で描いて軸装した高橋芳平は、素人絵としてフツーだが、現代美術としては異端というほかない。最近ノリダンとかサンドラムとか楽器を鳴らして歌い踊りながら練り歩く音楽集団が脚光を浴びてるが、切腹ピストルズも野良着姿で太鼓や三味線などを鳴らして十日町から松代まで2日がかりで踏破したという。これは見たかったなあ。城山を少し登ったところにカバコフの新作がある。斜面を平地にして(もともとなにかあった場所なのか、わざわざ造成したのか)アーチをかけ、上に五つの人生の場面を表わした彫刻を載せているが、この芸術祭の象徴的存在にもなった《棚田》に比べ、なんでこんなところにこんなものを、というのが正直な感想だ。
松代エリアではほかに、大巻伸嗣、アネット・メサジェ、イ・ブル、日比野克彦の《明後日新聞社文化事業部》、日芸の彫刻コースによる《脱皮する家》と《コロッケハウス》、丸山純子などの新旧作品を見て回ったが、これらはすべて空家か廃校を利用したプロジェクト。いずれも廃屋の気配を生かしつつ空間全体を作品化しているが、逆にいえば廃屋の空気に引きずられて発想が似通ってしまってないか。大巻、メッサジェ、イ、丸山らはそれぞれ独自の発想に基づいて制作しているのに、後で思い出してみるとどれも暗くて陰鬱な印象しかない。お昼は古郡弘の作品のあるおふくろ館で昼食をとって、ボルタンスキー+カルマン、塩田千春の旧作を見て、津南町の砂防ダムへ。ここは2011年の地震で土石流の被害にあった場所。磯辺行久の《土石流のモニュメント》は、その被災範囲を示す黄色いポールを立てたものだが、巨大な円柱を四つ並べたダムの存在感が強すぎて、黄色いポールはほとんど目に入らない。津南町の市街地に下りて、旅館だった建物を幻想的な空間に変えた原倫太郎+游と平石博一による《真夏の夜の夢》へ。走馬灯をはじめ素朴な作品が多く、とくに『北越雪譜』のページをめくるとイラストが本の前のスクリーンに立ち上っていくという松尾高弘の映像インスタレーションが秀逸。空家プロジェクトはアブラモヴィッチにしろボルタンスキーにしろ重苦しいインスタレーションが多くなりがちだが、彼らやコインランドリーを改造した「目」みたいにもっと楽しい作品があってもいい。
マウンテンパークの蔡國強と本間純の旧作を再訪して、最後にアントニー・ゴームリーの《もうひとつの特異点》へ向かったが、ここで残念な事態に遭遇した。17:30閉館だったので飛ばしてなんとか17:26に着いたら、おばちゃんがシャッターを閉めるところ。あわてて「もう終わり?」とたずねると怪訝そうな顔してなにも答えない。こりゃお客さんかと思ってなかに入ると、そのおばちゃんが「もう遅いわよ、帰るんだから」と実に不機嫌そう。なんとかなだめてパスポートに判を押してもらうが、放り投げるように返してくる。明かりをつけてなかに案内してくれたものの、「時間がないから詳しい説明はしないよ」「早く出てってほしい」などとあからさまにいわれ、ものの5分も経たずに追い出されてしまった。時間を見たら17:31。たった1分しか超過してないし、時間内の4分は文句たらたら言われながらの鑑賞となった。越後妻有の人たちは朴訥ながら気持ちよく接してくれるし、こへび隊の人たちもみんな礼儀正しくあいさつしてくれるのに、最後の最後にこういう心ない対応をされたのはまことに残念。でもまあ、全員がニコニコしてたら気持ち悪いし、たまにはプンプンしてる人がいたほうが世界は多様だと気がつくから許そう。


イリヤ&エミリア・カバコフ《人生のアーチ》


松尾高弘《Light book - 北越雪譜》

2015/08/18(火)(村田真)

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大地の芸術祭──越後妻有アートトリエンナーレ2015

会期:2015/07/26~2015/09/13

越後妻有地域 (新潟県十日町市、津南町)[新潟県]

BankART妻有「桐山の家」で3泊4日の夏合宿をおこナウ。中2日はワークショップに費やすが、初日と最終日は車で芸術祭を見て回る。朝9時に松代駅に集合し、まずは桐山の家に寄ってから、近くの廃校を再利用したCIAN(地域芸術研究所)へ。ここには川俣正が故中原祐介氏の厖大な蔵書を使ったインスタレーションがある。3年前は木箱を積み上げて脳内を再現したような迷路状の図書館に仕立てていたが、今回はパネルを使って勾配を強調した越後妻有の地形図《ツマリ・ジオラマ》をつくり、その裏に蔵書を収納させている。地形図の上にはいま設置されている主要作品のマケット数十点が置かれ、どこらへんになにがあるか一目瞭然。これが数百点まで増えれば壮観だろうなあ。車を飛ばして十日町のキナーレへ。前庭に畑をつくって穴を掘り、地下にスタジオを開設したのは開発好明。本人はモグラの着ぐるみを着て穴にこもり、ゲストを招いてトーク番組を放映しているが、これは昨年の「いちはらアート×ミックス」に出してた《モグラTV》を移設したもの。市原はモグラが多いらしいので納得だが、こんな豪雪地帯にもモグラはいるのか?
今回最大の作品は、キナーレの中庭に水を張り、中央に高さ10メートルほどの山をつくった蔡國強の《蓬莱山》。表面は植物で覆われ、滝まで流れている。が、背後に回ると後ろ半分は垂直に切れ、鉄骨の骨組みがむき出しに。これは傑作。3年前に同じ場所で見せたボルタンスキーのハリボテ感もあらわな古着のインスタレーションとは対照的に、蔡は蓬莱山も現代美術もハリボテにすぎないことを見せつけているのだ。ボルタンへの当てつけか? キナーレ内の里山現代美術館を一巡し、裏通りの淺井裕介の路上ドローイングを見て、小島屋でソバ食って、荒神明香とwah-documentによるチーム「目」の会場へ。これは今回いちばん驚いた作品かもしれない。通り沿いのさびれたコインランドリーに入ると、スタッフが部屋のどこかに「入口」があるという。壁や洗濯機のなかを点検してると、大きなドラム式洗濯機の奥に「秘密の扉」を発見。開けてなかに入ると事務室になっており、奥の階段を下りていくと円い扉がある。扉を開けると筒状の空間になっていて、出てみるとそれはドラム式洗濯機で、最初のコインランドリーに戻ってるという仕掛け。もちろんいちど階段を下りたのだから元に戻るわけはなく、最初の部屋とまったく同じ空間を再現した別の部屋に出たのだ。これは実によくできている。サイトスペシフィックでありながら越後妻有らしさが感じられず、むしろ場末感を漂わせたところもグッド。川西エリアのジェームズ・タレルの《光の館》に寄ってから、下条駅のみかんぐみ、越後水沢駅のアトリエ・ワン、ミオンなかさとの坂口寛敏、リチャード・ウィルソン、カサグランデ&リンターラと南下したが、いずれも以前の作品なので省略。
中里エリアに新たに建てられた清津倉庫美術館へ。ここは廃校の体育館を美術館にリニューアルしたもので、青木野枝、遠藤利克、戸谷成雄、原口典之の大作ばかりを集めた「4人展:素材と手」を開催中。これはおもしろい問題をはらんだ新機軸だ。まず、廃校をアートに使うといっても、ほかの例のように廃校をそのまま使ってインスタレーションをつくるのではなく、梁と柱を渡して補強し、四周に1階の窓をふさぐ高さの壁を立て、床をコンクリートで覆って美術館に仕立てていること。また、そこに越後妻有ならではの作品ではなく、他所から持ち込んだ過去の作品を展示していること。つまり廃校がその歴史や記憶を消され、単なるハコとして使われているのだ。これは越後妻有の地で発想され、その場でつくられたサイトスペシフィックな作品が売りものだったこの芸術祭にとって、明らかに違和感がある。だが別の視点で見れば、首都圏で高い倉庫代を払いながら死蔵されている旧作たちに公開の場を与え、多くの人たちの目に触れさせるわけで、これはアーティストにとっても観客にとっても、また廃校を抱える地域の人たちにとっても一石二鳥、いや三鳥のメリットがあるはずだ。そしてこのような廃校を利用した美術館がこの地域に広がっていけば、「もの派美術館」とか「ニューウェイブ美術館」とか「90年代美術館」といったように、越後妻有全体が現代美術の一大アーカイブになる可能性だって開けてくる(ただし売れ残った作品が中心だけど)。もっともそれは「大地の芸術祭」が目指したものとはまったく違う、ある意味で正反対の流れかもしれないが、でもすでに越後妻有方式がマンネリ化を迎えているようにも感じられる現在、この正反対の方向性は案外強力なカンフル剤として機能するかもしれない。この先どうころぶか、楽しみがまたひとつ増えた。帰りにアブラモヴィッチの《夢の家》、森の学校キョロロなどに寄って、芝峠温泉に浸かって帰還。


蔡國強《蓬莱山》を裏から見たところ


清津倉庫美術館(手前は青木野枝作品)

2015/08/15(土)(村田真)

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伊勢周平 個展「賽の一振り」

会期:2015/07/18~2015/08/22

タクロウソメヤコンテンポラリーアート[東京都]

カイカイキキから歩いて10分ほど、南麻布のTSCAへ。ネット上にも案内状にも休みとは書いてなかったが、ひょっとしたら盆休みで閉まってるかもと一抹の不安を抱きながら着くと、明かりは消えてるけどドアは開いてるので入ったら、奥から若者が出てきて「こんにちは」。こんな時期だれも来ないだろうけど、念のためバイトの留守番を置いたらしい。ともあれ明かりをつけて見せてもらう。いずれもジミーな色の絵具がペタペタ塗られたジミーな絵だが、まことに初々しい絵画だといっておこう。たとえば宣材にも使われてる《大リーグボール8号》。アンバー系に塗られた画面の中央に絵具が縦長に置かれ、そこから外に向かって放射状にペインティングナイフで削っている。たしかに縦長ではあるけれど高速ボールを正面から見たところに見えなくはないが、それよりナイフで削るときに裏の木枠が透けて二重枠になり、まるで後光の射すイコンのような聖性すら感じさせないでもない。おそらく「これを描こう」とか「こう描こう」と考えてつくったのではなく、描いてるうちに「こうなった」絵画ではないか。もうひとつ、右手と右足を描いた絵の隣に険しい山を描いた絵があって、言葉にするとまったく別物だが、絵にするとほとんど同じだったりする。つまり、なにか「もの」を描いているというより、「ただの絵」を描いているのだ。これほど楽しく、また難しいことはない。ちょっとほしくなってしまったが、プライスリストが見つからないため散財せずにすんだ。

2015/08/13(木)(村田真)