artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
Nibroll『This is Weather News』
会期:2011/06/24~2011/07/03
シアタートラム[東京都]
なにより「わかりやすい」と思った。1年前にあいちトリエンナーレ2010で初演され、東京では初の上演となった本作。赤、黒、白といったきわめて少ない色彩数に限定したこと、また構成のシンプルさもそう思わせる要因だったのかもしれない。そして、同時に思ったのは「そのわかりやすさでいいのか?」ということだった。Nibrollの(とくにダンスの)なかにある独特のコミュニケーション不全状態。イライラと相手の態度を拒絶したり、容赦なく突き飛ばしたり、混乱しているというか、未成熟さの露呈というか、そのなんとももどかしく、自分にも他人にもとりまく状況すべてに齟齬を感じているかのような、言葉にしがたいイライラした所作(ダンス)こそ、Nibrollというか振付家・矢内原美邦の魅力であると思う。ただしそこにはまた、なぜそういう不全状態になってしまっているのかがよくわからないと思わせるところもあって、そうしたダンスの発生源はおそらく矢内原の個人史的な部分に関わるものとぼくは推測している。わからない、けれども、矢内原が踊ると不思議とそのイライラのダンスは、見ているぼく自身の記憶にアクセスしてきて眼の前で起こる出来事をぼく個人に関わる事柄と思わせ、故に無視できないどころか引きつけられてしまう。ここに、矢内原ダンスの希有な魅力がある。けれども、本作のわかりやすさは、そうした魅力とは違うなにかである気がした。例えば映像では、影絵状態の人形が激しく壁に激突するなど、暴力的な運動が展開された。はっとさせられる。けれども、ぼくにはその光景が、「そうした暴力的映像が好きなひと向けのもの」のように見えてしまった。その他の、色のトーンを限定した美しいシーン(とくにラストシーンの視界が奪われるほどの白)も、「そうした景色が好きなひとにはぐっとくる場面」に思えてしまった。なんというか、矢内原のわかりにくさが、わかりやすい「趣味の世界」に転換されてしまったかに見えたのだ。いや「趣味」ではなく、そこにおくべき言葉は「コンテンポラリー・ダンス」あるいは「コンテンポラリー・アート」なのかもしれない。故に、その選択は「正しい」のかもしれない。けれども、矢内原の「わかりにくさ」から伝わってくるものにぼくは興味をもっているのだが……と呟かずにいられない。
2011/06/25(土)(木村覚)
ミミトメ『マゴビキ、あるいは他人の靴の履き方』
会期:2011/06/18~2011/06/25
SPACE雑遊[東京都]
2人1組でテーブルごしに向き合う観客は、イヤーフォンから課せられる指示にしたがって行動する。本作の特徴は、観客の行動が作品の大きな構成要素となるという点。ただしそれは「観客が役者になる」のとは異なる。むしろ、観客に役者をあるいは演技を極力与えない芝居と考えたほうがいい。観客は、指示通り、目の前のボードにある景色(俯瞰したそれは山間部で、真ん中に菱形の湖がある)の上で小さな人形を移動させ、その都度、耳に入ってくるその場所にまつわる語りを聞く。要は、役者が人形に、舞台がボードになっており、そのぶん、役者や舞台美術から喚起されるイメージが最小化されているのだ。役者がまったく不在というわけでもない。テーブルの周りで、耳から聞こえてくるエピソードにちょっとだけ関連する(けどほとんど関係ない)芝居を2人の役者が演じていた。けれども、ここで大事なのは、演技が与えられていないということのはずで、それによって観客は、語り以外はきわめてミニマルな要素だけをたよりに、場所のありさまやそこでの出来事を想像することになる。役者が極力あらわれないことによる効用は、想像力を刺激する語りだけでとんでもなく非現実的なシーンでも出現させられるところにあるだろう。けれども、ミミトメ本人たちはそこにあまり執着がないようで、語りの中身に奇想天外ななにかはなかった。そのぶん、観客に「演技を与えない」という仕掛けだけが、さまざまな可能性を残しつつ、宙づり状態になっていた。
2011/06/25(土)(木村覚)
KATHY's "New Dimension"
会期:2011/06/03
ピンク、ブルー、イエローの衣装を身にまとい、ブロンド髪で顔には黒ストッキングをかぶっている(かに見える)、ユニークなルックスの三人組KATHY。「きもかわ」というか、ホラーと乙女チックの両方を重ね合わせたイメージと、「指令者が課してくる任務の遂行として踊る」といったコンセプトとで、これまでコンテンポラリー・ダンスの世界に限らず、さまざまな場で話題を振りまいてきた彼女たちが、6月に本を出した。タイトルにあるように「新しい次元」でのダンスがテーマ。驚くのはこの「次元」という言葉が比喩として用いられているのではないということ。宇宙物理学などを援用しながらの文章では「みえないダンスの世界へ」「マルチバース(多元的宇宙)においてのあたらしいダンスを考える」などの言葉が踊る。「新しい」なにかがここに胎動していると感じられはする、とはいえ、正直まだ謎めいた部分も多い。おそらく、本書を発端に展開される今後の活動を通して真意が明らかにされていくことだろう。現時点で十分明白に感じられるのは、「ダンス」という言葉で通念上考えられているなにかとは異なるなにかを希求する強い思いがKATHYのなかに沸き立っていること。なるほど、「立てない身体」から出発した土方巽が「床」の存在を疑ってみせたように、新しいダンスは、ぼくたちの通念を疑うところからしか始まらないに違いない。
「みえないダンス」の可視化に寄与しているのは、水野健一郎によるイラストレーション。肉体をもって踊ることが(通念上の意識において)三次元のダンスであるとして、一次元引いた(二次元の)イラストレーションによってこそ、三次元のダンスの限界の「先」が示唆できる、という事態に驚かされた。そうか、イラストレーションとしてのダンスか! ダンスは肉体で踊られなくても作品化できるのだ! 水野の絵には、ときにハンス・ベルメールの素描を連想させるところがあり、身体や空間のイメージが拡張されるスリルに満ちている。その意味で、水野の作品集『Funny Crash』をあわせて読むことをお勧めする。ちなみに添付されたDVDに収録されているKATHYの最新映像作品によっても十分予感を与えてくれていることなのだけれど、今後のKATHYや彼女たちと水野健一郎とのコラボレーションによって、彼女たちの謳う「あたらしいダンス」が確実なかたちを帯び、世界を震撼させるときがくることを待望せずにはいられない。
2011/06/03(金)(木村覚)
プレビュー:Nibroll『This is Weather News』
会期:2011/06/24~2011/07/03
シアタートラム[東京都]
Nibrollの新作『This is Weather News』が一押しです。Nibrollと言えば矢内原美邦の振り付けばかりが話題になりますが、もともとNibrollとはアーティスト集団の呼び名です。衣装や映像などを担当する作家集団としての彼らの久しぶりの東京公演が、これです。昨年あいちトリエンナーレ2010で初演された作品。今回の上演では、東日本大震災以後の状況というものがテーマと深く関わり、さらに「推敲」が重ねられているそうです。昨年の矢内原美邦による『あーなったら、こうならない。』では、戦争のイメージなど不吉な「非日常性」が作品に際立った印象を与えていましたが、本作では、そうした「非日常」が日常と化したいまの日本の状況がきっととりあげられることでしょう。そこで、どんな表現が彼らのメッセージとして投げかけられるのか、期待したいところです。
2011/05/31(火)(木村覚)
手塚夏子『民俗芸能と3.11以降』(2日目「実験地獄──生きたいから反応する」)
会期:2011/05/21~2011/05/22
小金井アートスポット シャトー2F[東京都]
1年以上前から国内外の祭りや芸能上演の場に行き、調査を繰り返している手塚夏子。これまでに獅子舞を試演したこともあるという。彼女のこうした方面へのアプローチを今回初めて体感した。大いに期待してしまうのは、昨年の公演『私的解剖実験5 関わりの捏造』に祭りの要素があったからで、そのときぼくのなかに「都市においてダンスの上演は今日的な祭儀の場となりうるのか?」という問いが浮かんだのだった。「都市に祝祭はいらない」と平田オリザが口にしてから十数年経つ。ぼくらの祝祭の要/不要あるいは可能性/不可能性をめぐる問いに、手塚はどう迫ろうとしているのだろう。
「実験地獄」と称された本上演は、休憩含め4時間。公演というより、あらかじめ用意した10個の課題を観客にも参加をうながしながら実演してゆくといった体裁。床に散らばる日常の小物たちを拾い、小物から喚起されたイメージを隣のパフォーマーに実演させたり、繰り返すシンプルな動作を「問い」とみなして「問い」を発した者以外の参加者が言葉でそれに「答え」たりと、焦点は各人のイメージの交換にあるようだ。課題の合間のトークで、手塚はそこに「見立て」というキーワードを置いた。「しめ縄」がときに「蛇」ときに「川」に見立てられるように、民俗芸能にしばしば見られる「見立て」、これに注目してみようというのだ。パフォーマーと観客が取り組む作業はしかし、民俗芸能の内に潜む、なにかをなにかに見立てたい「欲望」には直接触れない。この欲望に共同体の結集する力が潜んでいるのだろうし、祭りに集う者たちの共有する熱を煽って、それは祭りのテンションを高めることだろう。しかし、「実験地獄」はその点を括弧にいれたまま進む。モダニスティックな手つきが、なにか大事なものを無視しているように見えてイライラさせられもする。けれども、わかりやすく人を結集させるなにかを安易に置かないことによって、「見立て」の作業は、参加する個々人の抱える欲望の深みへ向かおうとしているかに見えた。
ぼくたち(いや内実をもった「共同体」というものが成立し難いいま「ぼくたち」などと言って集団を括ることはできない、とすれば「ぼくたちの各々」とでも言い直すべきだろう)が今日なにを真に欲しているのか、その問いを無視するならば、どんな祭りも形骸化するだけだろう。その問いは間違ってはいない。そのうえで思うのは、人を巻き込み、祭りの熱狂へと人を誘う、その手管に関しての地獄のような実験も見てみたいということだ。
2011/05/22(日)(木村覚)