artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
泉太郎『こねる』
会期:2010/11/02~2010/11/27
神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]
泉太郎によるおそらく最大規模の個展は、僅かな例外を除いてすべてが新作。というよりも、泉の最近の作品は、会場で撮影し、撮影したものをその場で上映するものが多く、本展でもほぼすべてがその方法で制作・展示されているのである。本展で際立っていたのは、映像が実物大であること。実物大ゆえ、かつてそこで起こったことが同じ縮尺でいまそこに展示される。例えば、巨大な空間に似たような双六のルートがつくられていてそこにルーレットとコマが移動する《靴底の耕作》、木製の小屋(五角形)を細長い空間に沿って数人がかりで転がす《小さなキャミー》、当人の説明を頼りに見えない人物の似顔絵を描く《鳩》。これらのゲームの模様は、実物大の過去(=映像)を現在(実物)に重ねるように展示してあって、現在進行中の出来事のようにすましている。けれども、それらは「幽霊」の見せる「祭りの後」でしかない。壁の小さな裂け目に粘土を押し込めて通過させてゆく《無題》でも、粘土の「にゅるっ」とした独特の振る舞いはとてもリアル、なのにそれは映像であってそこにはない(役目を終えた実物の粘土がそこに置き去りにされてはいるけれど)。このもどかしさは実物大だからこそ。「映像にはサイズはない」という通念を退け、映像の実物大性を見出した泉。それはかくももどかしく切ないものなのか。実物大性が確立されたとなれば、映像の縮小性も拡大性も成立可能だろう。泉のさらなる展開がそこにあると憶測する。
2010/11/27(土)(木村覚)
岡崎藝術座『古いクーラー』
会期:2010/11/19~2010/11/28
シアターグリーン・BIG TREE THEATER[東京都]
7人の人物が1人ずつ舞台中央に現われ、次々と独演する。それぞれのしゃべりには各々異なるエフェクトが与えられている。だじゃれとか、強圧的な怒鳴り声とか、「です」でいい語尾が「ですます」になっているとか。一貫しているのは、どれも「はずしている」こと。そのイタさは「ドゥーン」(村上ショージ)級。話の中身は多くが愚痴で、怒りが無思慮に放出されるたびに観客はあちこちで爆笑する。見ているうちに「悪意」という語が浮かぶ。7人のしゃべりにも時折登場していた古いクーラーが、終わりのほうで登場する。彼(クーラー)は30才と自称。空気の読めない彼は、最後にパンツを脱いで悪意をまき散らす。この30年で棄てられる運命のクーラーは、作者の神里雄大(作・演出)あるいは彼世代の自画像のようにも映る。強烈な虚無感と閉塞感が漂う。そうしたいらだちが見るべきものになっているのは、はずす演技を巧みにこなす役者たちの力量のおかげだろう。「悪意の芸術的昇華」という試みは、おそらくもっと高い到達点が設定されているのだろうが、現時点でも見応えはありゆえに後味は悪くはないが、しかしやはり暗くなる。
2010/11/26(金)(木村覚)
飴屋法水『わたしのすがた』
会期:2010/10/31~2010/11/28
にしすがも創造舎とその周辺[東京都]
にしすがも創造舎を起点に、観客が自分の足で周辺にある廃墟を三軒めぐるというのが、この演劇のストーリー。いや、正確には「ストーリー」はなく、そこにあるのはほぼ「コース」のみ。「ストーリー」に近いものがあるとすれば廃墟に点在する貼り紙くらいで、そこには聖書が基となっていると思しきシチュエーションにおいて「主」へ向けた「わたし」の独白が綴られている。恐ろしく朽ち果てた民家、小さな教会、病院。出発地の元中学校も含め、劇場=廃墟はどこを見ても、かつてそこに暮らしまた行き来していたひとの痕跡が空間にあふれかえっていて、不気味だ。おばけのいないおばけ屋敷のよう。すべての小物、柱や壁の傷、建物に巻き付く植物たちは、ただそれがそこにあるというだけでなにかしら見るべき出来事に見えてくる。小さな教会の大きめの部屋に巨大なスズメバチの巣が吊られているなど、演出は無数に施されている。けれども、同時に、ただの廃墟めぐりとどう違うのかとも思わされる。この仕掛けのどこがもっとも演劇的かといえば、廃墟を出るたびに渡される、次に向かうコースの記された地図だったのかもしれない。地図に誘導されることで町並みは劇場と化し、廃墟は貼り紙とも相まって無数のサイン(隠喩)を帯びたものに見えてくる。Port Bの『完全避難マニュアル 東京版』もまた、山手線の各駅周辺を舞台にしている。ぼくは「代々木」しか見ることができなかったが、街にある店の名前や看板の文句などの記された「台本」(専用ウェブサイトからプリントアウトして持参した)を頼りに、観客が店や看板を発見しながら進む作品だった。「フェスティバル/トーキョー10」のテーマ「演劇を脱ぐ」を強く意識させるこの2作が、役者不在、観客が街を歩くだけの作品であることは興味深い。Port B(本作の「代々木」)が街に潜在するものを意識させるマテリアル指向が強いとすれば、飴屋作品の場合それと独白とをブレンドさせることで観念的な指向が際立った。街を舞台にする作家としては岸井大輔も忘れてはならないが、彼らの取り組みによって、この方法の振り幅が明らかになり、それによって一層ユニークな試みが生まれてくる予感を抱いた。
2010/11/23(火・祝)(木村覚)
悪魔のしるし『悪魔のしるしのグレートハンティング』
会期:2010/11/11~2010/11/17
いわゆるバックステージもの。「フェスティバル/トーキョー10」の公募に採用されて、新作を制作する劇団の演出家という設定。金欠だったり、役者と折り合いがつかなかったり、そもそも演出家本人が怠惰だったりしてなかなか上手くいかない。その様子は「悪魔のしるし」という劇団が今回遭遇した出来事をリアルに再現しているかのようだ。しかも、舞台上の劇団が上演しようとするのは「竜退治」というおとぎ話。伝説の竜を退治に向かったら、思いのほか竜がしょぼくて怒りにまかせて殺したという内容。これは「F/T」というイベントに参加してみたもののしょぼい作品しかつくれませんでしたという前述の話とパラレルなわけで、こうした入れ子状の構造が舞台に刺激を生み出していることは間違いない。では、「『しょぼい竜を退治した話』をしょぼくしか上演できなかった劇団の話」が悪魔のしるしによって見事に“しょぼく”上演されたのかというと、その点が微妙で、やたらとひとり喋りまくる「演出家の男」以外は、なんだか覇気のない役者たちの演技が続く。正直、舞台全体が上手く機能しているように見えないのだが、じゃあこれが上手く機能していたほうがいいのかというと難しいところだ。しょぼいものを見事に描くのは、しょぼいものをしょぼく描くことより滑稽で愚かしい場合が多い。じゃあ、しょぼいものはしょぼく描くのがいいかといえばすぐには首を縦に振れないし、だからといって、しょぼいものは描くべき対象ではないといい切るのも間違っている気がする。そういう問いを誘発したという点で本作は問題作に相違ない。
2010/11/13(土)(木村覚)
プレビュー:高山明(Port B)『完全避難マニュアル 東京版』、飴屋法水の『わたしのすがた』ほか
[東京都]
11月のおすすめは、フェスティバル/トーキョー10関連です。さて、話題性第1位といえば、おそらく高山明(Port B)『完全避難マニュアル 東京版』でしょう。専用ウェブサイトにアクセスしてアンケートに答えると、おすすめの避難所がレコメンドされます、ってこれいったいなんなの?(ちなみにぼくは「浜松町」だった) きっと、そこに行くとなにかが起こり、高山の企みがわかるのでありましょう。ウェブサイトを見ていると山手線の全駅に「避難所」が設置されています。ということは「避難所全部行け!」ということなのでしょうか。避難所のスタンプラリー? 謎だらけです。飴屋法水の『わたしのすがた』も街を歩く作品のようです。公表されているのは4軒の不動産屋を観客が1人ずつめぐるという設定だけ……。これも謎めいていますね。と思ったら前田司郎(五反田団)の作品タイトルは『迷子になるわ』。「迷子の人間にしか書けないものを書く」と前田は今回堂々の「迷子宣言」をしています、こちらも謎めいてますが、かなりの本領発揮作になるような予感がします。ほかにも気になる作品はありますが、ぼくはともかくこの3作は見逃さないようにするつもりです。
2010/10/31(日)(木村覚)