artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

快快『アントン、猫、クリ』

会期:2010/10/27~2010/10/30

STスポット[神奈川県]

篠田千明名義で2009年の4月に行なわれた「キレなかった♥14才リターンズ」(@こまばアゴラ劇場)というシリーズ公演の1演目として上演された作品を、快快名義で上演した今作。前回のときも感じたことだけれど、「雨、雨、雨」など、役者たちがものの名前を口にすると雨の情景が観客の心の中に自動的に広がる(広がってしまう)というアイディアは、1年半後に見直してもやはりとても新鮮だった。役者が役のセリフを喋るだけが演劇上演ではない。舞台美術というか小道具というか、そういうものが「もの」として用意されていなくても「言葉」が置かれるだけで(役者が舞台空間で発話するだけで)、観客の想像力によって舞台美術が勝手に立ちあがる。彼らがしばしば舞台風景を生み出すために用いるプロジェクターのように、観客の想像力がひとつのレイヤーとなって舞台空間を飾っている。とはいえ、ここで役者は単なる朗読者に収まってはおらず、言葉に動機づけられたさまざまな動作を小気味よく繰り出す。それはまるでダンスのようだ。と、ここまで書いて例えば「それはチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』(以下「別人」)に似ているということか」と思うひともいるかもしれない。そう、事実ぼくは上演中、両者を比較して見ていた。とくに思い出していたのは、隣の他人が聴いていた音楽がイヤホン越しに耳に入ってきて気になってしようがなくなる、なんて場面のこと。そうした「別人」での「入り込んでくる音楽」というテーマと快快が言葉を見る者の内に差し込む振る舞いとは、とてもよく似ている。さらに、ある程度、言葉に動機づけられるのとは別の動機から身体を動かす役者の有り様も似ている。ただし、チェルフィッチュの役者たちが訓練の行き届いたテクニシャンであるのに対して、快快の役者たちは統制がきいていなくて粗っぽく個性的だ。アフタートークで篠田が役者たちをバンドになぞらえていたのは、この点で示唆的である。チェルフィッチュの役者たちはまるでクラシックの演奏家、快快はバンドマンのよう。どちらがいいとはいい難いけれど、プレイヤーの姿勢の違いが作品に与える印象は大きい。今回は他にも録音されたセリフに合わせて役者が動くとか、同じセリフを何度もリピートさせて、しかも、断続的に「停止/再生」を行なうとか、上演についてのアイディアが多数試みられていた。そのどれも極めて興味深かったのだけれど、同時に、ひたすら陳列されるばかりでそれら方法相互の関係は不明確なままであり、一つひとつの方法が際立つとその分だけ、白血病の野良猫と近所のアパートの住人たちとの交流の物語が印象薄くなってしまった、その点はなんとも残念だった。

2010/10/27(水)(木村覚)

ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス展

会期:2010/09/18~2010/12/25

金沢21世紀美術館[石川県]

映像作品《事の次第》でよく知られた二人は、必ずしもヴィデオの作家ではない、むしろ彫刻の作家ととらえるべきかもしれない。彼らの作風がもっとも端的に表われているのは「グレイ・スカルプチャー」と呼ばれるポリウレタン製の彫刻群だろう。中が空洞で、お尻の穴から覗くとくり抜いた顔のパーツが見える作品《動物》や湾曲していて覗いても向こうが見えない作品《管》は、見るとなんだか情けない気持ちになる。脱力系? そう、知的な解釈も可能に違いないだろうが、作品に向き合って沸いてくる率直な感想は「へたれてるなー」。《不意に目の前が開けて》も90点の粘土作品がテーブルに並ぶ彫刻群。空想譚もポテトチップスもすべて同じ粘土で、似たようなサイズで表象されている。チープな素材が実現するイメージの世界、それはなにかを「可視化」させるという営みそのものの面白さとばかばかしさを同時に示している。ところどころに用意された失笑のポイントを通して、彼らが見る者に気づかせようとしているのは、「見ること」や「つくること」というきわめて基本的な行為の最中なにが起きているのかということだろう。それら二つを媒介するのが彫刻という存在に違いない。《事の次第》は、そう考えると動く彫刻の映像化なのであって、「見ること」と「つくること」の相互作用が緊張感を保ち、そのことが作品の強度を生み出している。

2010/10/24(日)(木村覚)

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遊園地再生事業団『ジャパニーズ・スリーピング』

会期:2010/10/15~2010/10/24

座・高円寺[東京都]

テーマは「眠り」。ある男が眠りについてのインタビューを続ける。男はあるときから不眠症に陥っており、インタビューはそこからの脱出策を模索してのものらしい。この男の不眠症は、友人が集団練炭自殺で亡くなったかも知れないという思いに端を発し、ときに「眠り」というモチーフは「死」の問題へと変換されもする。テーマは面白い。眠るという行為と演じるという行為は相反する関係にある、などといった原理的な問いが展開されることを期待した。ただし、思いの外そうはならず、既存の演劇の方法論が取り出されては用いられていった。同じ服を着た眼鏡男3人がひとつの役柄のセリフを分け合ったり、不意に激しい叩き合いがはじまったり、あるいはカメラを舞台上にあげてライブ画像を上映したり。ビュッフェのプレートのごとくバラエティに富んでいる。とはいえ、なぜその方法を用いるのかについて必然性が乏しい。そう思ってしまうのは、台詞回しや「巫女的」に女性を扱う仕方など、案外旧時代の演劇的なものが温存されているからかもしれない。

2010/10/22(金)(木村覚)

ロロ『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』

会期:2010/10/17~2010/10/24

新宿眼科画廊[東京都]

卒業式を控えた6人の小学六年生が織りなす恋愛模様。それを大学出たてくらいの若い役者たちが演じる。彼らのなんともかわいいこと! テーマは恋愛、というか告白。「式で歌う『卒業写真』(ユーミン)よりも、ぼくが君へ歌うラブ・ソングのほうがずっと素晴らしい」と、卒業式をすっぽかした男の子はギターをかき鳴らし猛烈な勢いで女の子に向けて歌い出した。それがラストシーン。三浦直之(脚本・演出・出演)は本作で、男の子・女の子の真っ直ぐな気持ちをかなり真っ直ぐに描いた。その振る舞いはベタにも映る。しかしそれはけっして単なる(無反省の)ベタではない。「メタな振る舞いをベタにやるのもベタだし」とメタのメタ(のメタ……)へと延々と思考を裏返し続けてしまうのがぼくたちの日常であるとして、そんななか「真っ直ぐさ」というのは見過ごされがちでかつ実行困難な、しかし素敵な生き方の選択肢ではないか。きっと三浦はそんな思いからあえて「ベタな恋愛を描く可能性」に向け突き進んでいるのではないか。メタが充満する世界からどうにかベタを救い出そうとする身振りが一番よく表われていたのは、相手の気持ちがわかったうえで、振られることを承知で女の子が男の子に告白するシーン。彼女は自作の台本を彼に渡し、告白の演劇を遂行する。「告白」を「告白の演劇」に転換してしまうメタな身振りは、しかし、告白の不可能性(ベタの否定)ではなく、むしろその可能性(ベタの可能性)を模索しているように見えた。「演劇」(メタ)という手段を使わなければできない「告白」(ベタ)は同時に「演劇」(メタ)という手段を利用してでも遂行したいなにかでもある。告白とはすなわち、絶望的であるにもかかわらず前向きな気持ちが消滅しない事実に向き合った末の、どうしようもない、真っ直ぐな表現行為なのだ。告白を舞台上に乗せること。日本演劇界の最年少世代・三浦の放つ強烈に前向きな姿勢は、チェルフィッチュや快快などと引き比べられうるなにかとみなして間違いはないだろうし、日本演劇の〈別の可能性〉として今後益々注目されることだろう。

2010/10/18(月)(木村覚)

岩渕貞太『untitled』

会期:2010/10/14~2010/10/16

STスポット[神奈川県]

タイトルがもたらしたものであるかもしれないが、目指すべきところが曖昧でとらえにくいと感じさせられた。岩渕貞太が目下日本のダンス・シーンのなかで際立って真面目で、魅力的な外見を携えた人物であることは間違いない。しかも今回は大谷能生を音楽担当に招いてのソロ公演。入念な準備がなされたと想像される。しかし、舞台上の岩渕は正直難解だった。ダンス作品が難解になるのは、多くの場合、振付を通して観客に伝えたいことが不明確なとき、身体の動く動機が観客に伝わっていないときである。目の前の身体がいま、なぜ、このような状態を示しているのか? 基本的に言葉を用いない故に、ダンス作品はわかりにくくなりがちで、身体が生々しくさらされれば、その分イメージは乏しく解釈の手がかりが乏しくなる。もう少し記号的あるいはキャラ的な作品作りでもいいのではなどと思ってしまう。しかし、そうしたやり方に岩渕の興味はない。「身体が動く」という純粋でとらえがたく、直接的な表現の可能性にこそ、岩渕の賭けはあるはず。確かに、ハッとする瞬間はあった。奇妙な怪物の孤独な遊戯にぞっとし、心を奪われた。そういう部分をもっと執拗に推し進めてもいいはずだ。残念なのは、音楽との関係が単調に思えたこと。大谷の具体音(小さい容器に小物を入れて回している音など)を用いた音楽は、ノイズ=前衛=難解なんて短絡的推論に聴く者を陥らせることなく、きわめてキャッチーかつリズミカルで、構造も明瞭、故に充分ポップだった。そうした大谷のアプローチに応答する試みが岩渕から出ていたら印象は違っていただろう。

2010/10/16(土)(木村覚)