2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ミクニヤナイハラプロジェクト No5『前向き!タイモン』

会期:2011/09/01~2011/09/04

こまばアゴラ劇場[東京都]

ともかく速くて、速くて、速いのだ。セリフはもちろんのこと、ダンスの振付家でもある矢内原美邦らしく、演劇でありながらセリフ内容とはほとんど関係ない動き(振り付け)もすべて、役者三人の役者のパフォーマンスは唖然とするほどに速い。この傾向は、矢内原が演劇を上演し始めた頃から、おそらく『3年2組』(2005)のときからある。だから演劇五作目を見る観客にとって了解ずみのことではある。しかし、それにしても、速い。速くて、しかも噛まない。速くて噛む、ということが当初はあった。噛む=身体の不能状態を露呈させる=身体のリアリティをあらわにする、といった解釈は当初はありえたが、いまその余地はない。速くて噛まない。すると、速さのもつ独特のグルーヴが強く感じられてくる。意味が理解できるかできないかの境で高速連射される言葉たち。ああ、なんだかこの感覚あれに似ている!と思った。「あれ」というのは、早口なアニソンたち。「もってけ!セーラーふく」(『らき☆すた』)でも「Utauyo!! MIRACLE」(『けいおん!』)でも「ヒャダインのじょーじょーゆーじょー」(『日常』)でもいいんだけれど、こうした曲の早口部分を聴くときのなんともいえない快楽、聞き取れそうで聞き取れないあたりで耳が漂う快感、それに近いなにかを、役者三人の演技に感じたのだ。近年、早口のアニソンが当たり前になったもとには、おそらく初音ミクの存在があるのだろう。機械的な再生のテクノロジーが早口の面白さを引き出したに違いない。とはいえ機械ではなく人力でそれをやるところに独特のグルーヴが(より濃厚に)生まれると人が考えているからこそ、そうした音楽は全面的に初音ミク化されずにいるのだろう。矢内原の演劇で感じるのも人力の面白さ。それにしても、はじめから終わりまで、延々と早口なのだ。舞台上の光景はもちろんのこと、演劇に「振り付け」のみならず「早口」という強烈なアレンジメントを組み込む、矢内原の強引で暴力的な発想に、観客は唖然としてしまうのである。

ミクニヤナイハラプロジェクトvol.5「前向き!タイモン」予告編

2011/09/04(日)(木村覚)

プレビュー:フェスティバル/トーキョー、『家電のように解り合えない』、山下残『庭みたいなもの』ほか

[東京都]

9月16日からはじまるフェスティバル/トーキョー(F/T)(2011年9月16日~11月13日)は、ロメオ・カステルッチが宮澤賢治『春と修羅』をモチーフにした作品『わたくしという現象』(飴屋法水との二本立て新作上演「宮澤賢治/夢の島から」にて。飴屋は『じ め ん』を予定)を上演するなど、注目作が目白押し。けれども、それに負けないくらいF/T以外にも沢山の話題作があって、9月はなかなか忙しいです。ひとつは、山下残『庭みたいなもの』。「ダンス」をフィジカルなものという以上にコンセプチュアルなものとしてとらえる山下の舞台は、言葉と身体、過去と現在を出会わせる知的でユーモラスなアイディアに満ちています、期待したいところです。大橋可也&ダンサーズも音楽に大谷能生を起用した新作『OUTFLOWS』を上演します。あと矢内原美邦(ミクニヤナイハラ プロジェクト)の演劇作品『前向き!タイモン』も要注目です。
ミクニヤナイハラプロジェクトvol.5「前向き!タイモン」予告編

2011/08/31(水)(木村覚)

鈴木ユキオ(パフォーマンスキッズ・トーキョー)『JUST KIDS(ジャスト・キッズ)』(発表日)

会期:2011/08/28

吉祥寺シアター[東京都]

本作は、小学三年生から六年生までの児童をダンサーに、鈴木ユキオが振り付け・演出を行なった、NPO法人・芸術家と子どもたち企画・制作による作品。舞台前方におがくずのような塊があり、次第に舞台が進むとそこが砂場に思えてくる。ああ、本作も疑いなく「3.11以後」の作品だ。けれどもあまり嫌な気がしないのは、鈴木のバックボーンをなしているのが舞踏であるからに相違ない。
 冒頭に登場した、ランニング姿など普段着に身を包んだ小学生たち、いかにも鈴木らしい振り付けを次々と男の子も女の子も実行してゆく。「力強く投げ回した腕が胴体に絡まる」といった小さなタスク(と、ここで呼んでみよう)が子どもたちに課せられており、いくつか実行してゆくうちに、生き生きとしてノイジーな子どもの身体は、段々、ダンスという怪物に縛り付けられてゆく。そう、ダンスとは(少なくとも舞踏は)怪しく人を誘惑し非日常へ連れ去るものだ。ステレオタイプの「子どもらしさ」を鈴木はタスクで封じた。その点で痛快だったのは、横に並んで鈴木の背を見ながら、子どもたちが鈴木の動きを真似た場面。従順に模倣するうちに異形の存在になる子どもたち。デリケートでユーモラスでもある振り付けの奥に、ちゃんと舞踏の暗黒性があった(もっと濃密な暗黒性を与えてもいいと思ったけれど)。
 その後、先にあげた砂場に照明がともされる。一人の子どもが砂に手をいれて団子をつくる。それを見ているだけで不吉な気持ちにさせられるのがいまのぼくたちの現実だ。この現実を忘れるためではなく、この現実と拮抗するために鈴木のダンス(タスク)は子どもたちに課せられていた。いわばおばけになるレッスン。家族はどう思うか知らないが、よい教育だったに違いない。

2011/08/28(日)(木村覚)

吾妻橋ダンスクロッシング2011

会期:2011/08/19~2011/08/21

アサヒ・アートスクエア[東京都]

11組が出演した今回の〈吾妻橋〉。一番盛り上がったのは間違いなくcore of bellsだった。パンク独特の一分弱の曲を数曲、ハイスピードで演奏した後、何気なく始まった「ゲス番長のテーマ」。前の数曲とさして変わらぬパンキッシュな演奏が終わり、ボーカルが「次は最後の曲です」と告げる。すると彼らは、まったく同じ「ゲス番長のテーマ」の演奏を始めた。まだこの時点では、これがなにを意味するものかは観客の誰もわかっていない。「あれ?」と思う間もなく、再度同曲の演奏。3回目? よく見ると、曲のみならず演奏するミュージシャンのジェスチャーもほぼ一緒であることに気づく。「ロックのジェスチャーって、あらためて見るとなんて過剰でシアトリカルなんだ」なんて感じさせられ、「記号化されたロック」のジェスチャーが執拗に反復されるそのシンプルな光景が次第に痛快に思えてくる。しかも、目の前に演奏としての演劇とでも言えるなにかが立ち上がっている気さえしだした。無意味な反復は、昨今の日本の演劇でもしばしば見られるアイディア。だがそもそもはミニマル・アートの文脈に端を発する。そう思い出すと、今度は美術文脈から読み込みたくもなってくる。そんなこと思いめぐらしているうちに何度反復されただろう、機械のごとくリプレイされる度に、観客の熱狂が増してゆく。いつか電気が切られ、さらに舞台が真っ暗になってもなお演奏が続行されたあたりで、盛り上がりはピークに達した。
 COB恐るべし。こうした無意味さへ向けた熱狂こそ吾妻橋ダンスクロッシングにふさわしい。そう思っているぼくにとって「東日本大震災+原発事故以後」の匂いのする諸作品には正直強い違和感を覚えた。舞台上にどんなものが置かれてあっても「東日本大震災+原発事故以後」のメタファーを読み込んでしまう、そんな一種のヒステリーを抱えてぼくたちが生きているのは事実だ。とはいえそのヒステリーに表現が汚染されてしまってはならない。それによって表現の質が鈍ってしまってはならない。少なくとも、一過性の表現になってしまってはならない。そういう表現というのは、本人たちにそうした意思がないとしても、震災や節電を売りにした見苦しい商売とさほど変わらないと評すべき類いものではないだろうか。

2011/08/21(日)(木村覚)

メルラン・ニヤカム『タカセの夢』

会期:2011/08/10~2011/08/11

シアタートラム[東京都]

「スカパンファン」(SPAC[Shizuoka Performing Arts Center]の子どもたちの意)と名づけられた静岡の中高生が、フランスのコンテンポラリー・ダンスの振付家による作品を踊るというのが本作の趣向。SPAC(現在、宮城聰が芸術総監督を務める静岡県舞台芸術センター)の同様の企画として、飴屋法水演出『転校生』(2009)が記憶に新しい。『転校生』に感じたのは、本物の女子高生が女子高生を演じることの迫力と、女子高生の身体が眼の前で生きて演じることの生々しさであり、そこにしっかりと思い生命の感触をえたのだった。
 本作の場合、テーマとして掲げられているのは、子どもたちが「未来の希望を取り戻す」ことだという。このテーマに沿ってのことか、舞台上のダンスは躍動的であり、生き生きとして明るい。ただし、そこに溢れているのは『転校生』で感じた生命の感触とは似て非なる「ベタ」(キャラ的)な「子どもらしさ」に相違ない。それとともに「躍動的で生き生きとして明るい」と形容した子どもたちの振る舞いからは、カメルーン出身のフランスで活躍する振付家メルラン・ニヤカムによるところも多いのだろう、ややステレオタイプな「アフリカらしさ」も香ってくる。また、舞台演出のさまざまな批評性に富むアイディア(映像と生身のダンサーとが重なり混ざり合う試みや、音についての繊細なアプローチなど)から「現在のフランスのコンテンポラリー・ダンス」の「らしさ」が察知でき、それもベタといえばベタだ。ただし、その「ベタ」と「ベタ」を重ね合わせ、混ぜ合わせようとす試みは「メタ」的に映りもする。子どもたちの躍動性が「日本らしく」というより「アフリカらしく」見えたのは、その一例。とはいえ、そうした反省的な混ぜ合わせは、最終的に混沌と化し、渾然一体となっていった。中心的人物である男の子が舞台冒頭である少年に委ねられ、ずっと預かっていたトランクを開けると、中からドラムスティックが出てくる。ラストシーンは、そのスティックで子どもたちが床を叩き、リズムによって皆がひとつになってゆく。こうして最後に演出家は「ベタ」な「つながり」志向をあらわにした。とくに、カーテンコールの後に沖縄民謡が鳴りだし、観客を客席から舞台に連れ込むと、しばらくのあいだ、観客と出演者と演出家がカチャーシーの状態になって踊ったところで、それは極まった。
 たんにベタでもたんにメタでもない、メタ的な批評の高みに立つのでは満たされず、いわばメタな振る舞いをさらに批評するように、いまここにいる者同士の直接的な「つながり」へと演出家は舞台を開こうとしたわけだ。「ベタ」も「メタ」も「メタのメタとしてのベタ」も提示した本作は、きわめて批評的であり、ハイクオリティな舞台と言うべきかもしれない。けれども最後の「つながり」の熱が、諸々の出会い(重なり合い)によって生じたはずの出来事の細部(その矛盾や軋轢など)をうやむやにしているように見えたのも事実。だからただの「ベタ」にも思えてしまう。そんなところに「つながり」の開放感のみならず、「つながり」の袋小路状態も感じてしまった。

2011/08/11(木)(木村覚)

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