artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
小林耕平&core of bells「運送としょうゆとかぐや姫と先生とライオン」
会期:2010/12/18
山本現代[東京都]
映像作品をつくることの多い美術作家・小林耕平がcore of bellsという名のバンドと行なったパフォーマンス。無理難題(「それは閉じています、開いて下さい」など、禅問答に似た、問いの意味自体を問わざるをえない問い)を自ら課し、小林はバンドのメンバーとともにそれを解く。本イベントではバンドの演奏の前に、この会議ともリハーサルともつかない上演が3時間超行なわれた。ビデオカメラは回っているけれども、ことさら意識されることはない。「落としどころ」を求めてしまうのは、パフォーマーの性だろう。けれども、笑いに落とすことはある意味たやすい。「ならば!」と、笑いという落としどころ以外のポイントを探索すれば、迷宮から出られない。そう、そこであらわになるのは、「演じる(遂行する)」ということの内でひとが出会う、多数のありうるコースの存在であり、そこを進む際のパフォーマー個々の性能である。演技の失敗も成功も存在しない、演じることの状態それ自体が賞味される場。そうした場の創造に狙いを定める小林は、広い意味での「演劇」とはなにかをあぶりだそうとしている。後半のバンド演奏では、前半で行なわれた問答の成果が部分的に反映されており、いわゆる「バンド演奏」の範疇を大きく逸脱する、演劇的なパフォーマンスが展開された。ロック、パンク、フォークなどで演奏する身体が示すさまざまな身振りや決めポーズをまるでおもちゃ箱のおもちゃみたいに取り出してはもてあそぶ。ポスト(アンチ)ロックというよりメタロックとでも称すべきcore of bells。実に魅力的なのだが、そもそも演劇的な面のあるロックを参照する分、パッチワークの仕方は奇妙でも個々の落としどころはわかりにくくない。対照的に、謎それ自体に向き合う小林の試みはきわめて特異なものに映った。
2010/12/18(土)(木村覚)
和栗由紀夫+好善社『肉体の迷宮』
会期:2010/12/03~2010/12/04
日暮里サニーホール[東京都]
美学者・谷川渥の著書『肉体の迷宮』からタイトルがとられた本作は、なるほどスクリーンに映写されるさまざまな映像(ベルメール、デジデリオらの絵画作品)などから見ても、また舞台上のシーンを鑑みても、本書に端を発する作品であることは明瞭だ。とはいえ、生真面目に美学書の各章を舞踏譜にみたてたというよりも、そこからえた刺激をもとに振付家の自由な発想からつくられているのも明らかだ。構成はシンプル。基本的に、関典子のソロもまじえた女性たちの群舞と和栗由紀夫のソロが交互に並べられ、男性性と女性性が強く意識されている。女性のダンスには舞踏の要素が希薄。その分、和栗の「舞踏化」されている奇っ怪な身体のありようが際立って見えた。土方巽の最初期の直弟子であった和栗。彼の身体には舞踏の方法論が染みこんでいて、爬虫類かなにかに部分的に変容してしまったかのように、ちょっと動き出せば、彼の肉体の各所から、その異様さがくっきりと滲み出てくる。たとえば「ダンディな素肌に白いサマースーツと麻の帽子」といった衣装で過日(1970年代)の沢田研二のように気取っているシーン。気取った身振りの最中、体の内側では沸騰する水のようになにかが騒がしく蠢いていて、「常態化した痙攣」とでもいうべき運動が断続的に身体の各所で露呈している。変な(キャンピーな)ダンディズムと舞踏らしい動き(キャンピーに見えてしまうのは、世代差によるものか?)。真面目なようでふざけているようで、狙いのようでもあり天然のようでもある。アナクロにも映るが現代的に見えなくもない。延々と裏をかいて異常な存在であり続ける、なんとも舞踏らしい公演だった。
2010/12/03(金)(木村覚)
プレビュー:矢内原美邦『桜の園──いちご新聞から』/HARAJUKU PERFORMANCE+
[東京都]
矢内原美邦がダンス公演と称してチェーホフの『桜の園』を上演(2010年12月10日~12日@池袋あうるすぽっと)。これが今月の大注目公演に間違いなし。最近の矢内原作品は、ひと頃までのコドモな表現からは想像もつかないダークでフェミニンな演出が際立ってきており、そうした独特な魅力がチェーホフの名作に触発されてどう展開するのか、大いに楽しみであります。
あと、今年もHARAJUKU PERFORMANCE+(PLUS)の時期となりました。渋谷慶一郎、Open Reel Ensemble、山川冬樹、Daito Manabeなどおなじみのメンバーとともに、きわめてユニークなチョイスもあって期待したい顔ぶれが揃っています。この二日間は原宿で「音楽漬け」になりそうです。
2010/11/30(火)(木村覚)
神村恵『飛び地』
会期:2010/11/26~2010/11/28
シアターグリーン・BOX IN BOX THEATER[東京都]
美術作家の小林耕平がキャップを被り舞台の脇でスケッチブックを開いては見せる。冒頭。マジックで身体の部位を描いた絵で観客の注意をうながす。「はて?」と思っていると、神村恵ら3人のダンサーが登場し、1人が「二つの乳首に穴が空いていてスースーするので塞ぐ」と言うと残りの2人が動作をはじめた。その動作から察するに、言葉は「指令」で、ダンサーの行為はその「応答」をなしているのだろう。確かに、なんとなく、そうであるらしい動作を確かにしている。だが、どういった応答が狙われているのかあまり判然としない。いかにもな、ストレートな表現は出てこない。指令と応答の関係が緊密に感じられないので、見る者は指令と応答のあいだで宙吊りにさせられる。この宙吊りが冒頭の「はて?」から延々と続く。時折、舞台上の4人が進めている、理解の容易ではない振る舞いが交差してハッとするようなコンポジションが生まれることはあり、そうした瞬間には感動がある。けれども、これを待つには相当の集中力と忍耐力が必要だ。いつも思うのだが、神村作品はソロの場合と出演者が複数の場合とではずいぶんと観客の受ける感触が違う。ソロの場合ならば、神村と観客とで緊密なセッションの関係が容易く生まれるのだが、出演者が複数の場合だと神村と出演者とのあいだで緊密な関係が生じる分、その外で観客はしばしば置いてきぼりをくわされる。今作もそういう印象をもった。残念に思う。
2010/11/27(土)(木村覚)
マームとジプシー『ハロースクール、バイバイ』
会期:2010/11/24~2010/11/28
3年前に旗揚げされたばかりの若い劇団。新作の舞台は高校のバレー部。転校生の入部、先輩と後輩の関係、マネージャーのバレーへの熱い思い、部長の悩みなど、部活をめぐる光景が多面的に微細に、ただし大きな事件なしに描かれる。熱気ある女子たち。それぞれキャラ立ちしている「けいおん!」みたいな同性集団。わいわいしている景色は、ありふれているが微笑ましい。けれども「けいおん!」とは違って共学の学園では、男子2人(新聞部とサッカー部)が登場し、彼女たちの外部を構成する。それに、終幕あたりで「ネバーランド(=高校生活)から外に出るんだね」といったセリフが口にされるように、仲間たちとの「あうんの呼吸」はエンドレスではないという諦念を、登場人物たちは意識してもいる。終わってしまう切なさと空しさ。それが本作のゴール?
対照的に、同じく青春の日々を語る若い劇団ロロは、虚無主義に直面してなお冷めない愛という神秘を何度も懲りもせず描き続ける。両者の最大の違いは、愛する者と愛される者の2者間で展開しうるのが愛であるのに対し、「あうんの呼吸」は集団固有のもので、バレーならば6人が揃わないと成立しないというところにあるのかもしれない。とはいえ、そこにあった幸福な時を追憶するだけではもったいない。何度も同じ光景をリプレイする語りの方法にうながされて、観客は「それはいまはない」というよりも「それはとても貴重な瞬間だった」という思いにかられただろう。平凡な部活の光景に、希有なコミュニケーションの瞬間があった。その経験を彼女たちが卒業後にどう活かすのか、この点がもっとも気になるのだけれど、ともかくもそれを収めようとカメラを抱える写真部のさえない男子がいることは重要で、彼こそこの物語の中心軸だったに違いない。
2010/11/27(土)(木村覚)