artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

金魚(鈴木ユキオ)『HEAR』

会期:2011/02/04~2011/02/06

青山円形劇場[東京都]

アンビヴァレンスの内にダンスは存在する。「特定のなにか」として同定する固定観念をすり抜け、同定したい/同定されたい欲求をかすめ通りつつ、その欲求を不断にはぐらかす。そこにダンスは棲んでいる。空間化にも、時間化にも、言語化にも抵抗して、それでいて空間と時間のなかに存在し、言葉に結晶化したい欲求をかきたてる。これは、ぼくがダンスへ差し向けるひとつの思想(あるいは偏見)である。アンビヴァレンスの躍動を期待せずにはいられない日本の若手振付家・ダンサーの一人に鈴木ユキオがいる。足を運んだのはそれを期待したから。帰り道、思いがけず、共作という形式の難しさに心が囚われてしまった。アニメーションに辻直之、音楽に内橋和久を招いた今作は、共作という点にかなりの比重があったようだ。普段は別々に活動する作家たちが集まり、重なりうるところを模索し合ったに違いない。しかし、観客の欲望はかならずしも「重なること」にはない。そうした意識のずれに遭遇するたび、ぼくは戸惑ってしまう。上演で印象的だったのは「分身」「影」といった要素。衣装もそうだが身長も髪型もそっくりな安次嶺菜緒と福留麻里は、互いが互いの分身のようだ。白いシャツに黒いパンツの姿の鈴木に対して、似たような衣装の若い男性ダンサー二人も分身的な存在。鈴木ユキオの身体が圧倒的に魅力的である分、二人の若い男性ダンサーたちは鈴木をなぞる存在に見えてしまい、もどかしい。安次嶺のダンスはやや演劇的な記号化を身体に許して、ダンスの危うさを身体に引き寄せない。終幕の手前で、鈴木の胸の上に辻のアニメーションが映される。機械のごとき臓器が運動する映像は、身体の内側がむき出しにされているようではっとなる。踊る身体はスクリーンとなって映像の臓器に重なろうとする。アニメーションとダンスの関係が互いに対してとても誠実で真摯だ。そうした姿勢がまとまりある舞台を成就させているのは間違いない。その分、ぼくが見たかったアンビヴァレンスはぼやけてゆく。舞台奥のスクリーンに映る文章がスクロールしている。その一部(単語)をぱっと捕まえるみたいに、もうひとつのスクリーンとなる白い風船を女性ダンサー二人が何度も掲げた。そのたびに風船に文字が浮かぶ。文字とともににじみ出てくるのは重ねようと努める誠実さ。そうした姿勢を素直に評価できないぼくはひねくれ者なのかもしれない。けれども、そうだとしても、ぼくは躍動的なアンビヴァレンスの味方でいたいと思ってしまった。

2011/02/04(金)(木村覚)

プレビュー:ロロ『グレート、ワンダフル、ファンタスティック』/『A Woman is a Woman is a Woman.』ほか

2月は、前回のプレビューでとりあげたもの以外にも、注目の公演がたくさんあります。とくに忘れてはならないのが、こまばアゴラ劇場でのロロ(脚本・演出:三浦直之)『グレート、ワンダフル、ファンタスティック』(2011年2月9日〜13日)。2010年8月、おおいに話題となった『ボーイ・ミーツ・ガール』のような、今日の日本演劇の方法的試みを易々とかつ自由に吸収しながら、一直線(いや、永劫回帰の運動がそう見えるだけなのかも)の愛に満ちあふれた独特の舞台が生まれることを期待します。
コドモもももも、森んなか』(2011年2月1日〜7日@STスポット)のマームとジプシーも忘れてはならないけれど、横浜での公演といえば、国際舞台芸術ミーティング in 横浜2011参加作品の「A Woman is a Woman is a Woman.」(2011年2月17日〜20日@BankART Studio NYK)が面白そうだ。女性作家ばかりの4組が30分ずつパフォーマンスを披露する。まえだまなみ他の「おやつテーブル」はもちろんのこと、羊屋白玉(指輪ホテル、本作キュレイター)、真珠子小林エリカらの表現から、女性によるパフォーマンスの可能性を感じてみたい。

2011/01/31(月)(木村覚)

シベリア少女鉄道スピリッツ『もう一度、この手に』

会期:2011/01/06~2011/01/16

王子小劇場[東京都]

伏線の名手・土屋亮一の脚本が冴え渡った一作。過去作品の抜粋を含めた8本のショートが暗転を挟んでつながる。例えば、冒頭。義母兄妹たちが父の死後、思い出の別荘に集う。妹への嫌悪が父の遺骨箱に向けられると、箱は恐ろしいほどあっけなく床に放り投げられた。突拍子のない振る舞いが繰りかえされる度に、なぜか兄たちはトークを強要される。あ、これは「ごきげんよう」だ!と気づく。遺骨箱はサイコロへ、悲劇は喜劇へ転がった。さて、こうしたコントが淡々と続くかと思いきや、8本のショートはひとつの大きな物語へ収斂してゆくことになる。それは「役」たちの物語というより「役者」たちが各人の抱える状況を克服してこの上演を成功させる物語。例えば、ある役者は「今回初舞台(故に、緊張している)」。ある役者は「劇団ヨーロッパ企画からの客演で京都出身(故に、関東の笑いに戸惑う)」。ある役者は「整形手術をした元男性(故に、女優として自信がない)」。ある役者は「アンドロイド(故に、ぎこちなく8種類の所作しかできない)」。設定は半分リアル、半分架空で、個々の役者は「ショートの役」のみならずこの「設定された役者像」も演じていたわけだ。状況をたくみに伝える町田マリーのナレーションも相まって、目の前の「ショート芝居」がじつは「役者のリアルストーリー」を語る手段でしかなかったことに観客は気づかされる。いや、もっと大事なのは、ショート芝居が伏線を語る手段であったことだ。前半に散りばめられていたぎこちない演技。それは「アンドロイド」故、「初舞台」故、「女優として自信がない」故のこと。忘れそうなほど些細な「変な事態」を思い出させ、見る者にダイナミックな時間の往還をうながす、そこが伏線の魅力。いや、伏線という武器の力は、おかしな所作や状況を「手段」という名目のもとに舞台上で生き生きと展開しうる点にこそありはしないか。前半のあるショート、篠塚茜が話すときのもじもじとした不思議な動きは、「自信がない女優」という伏線を知らなくても充分に魅力的で、ほとんどダンスといってもよいものだった。

2011/01/24(月)(木村覚)

大遠藤一郎展『未来へ』・ライブペインティング

会期:2011/01/21

island MEDIUM[東京都]

大遠藤一郎展『未来へ』と称する展示が、都内と千葉・柏の六カ所で催されている最中、遠藤一郎がライブペインティングを行なった。約50分。ギャラリーの壁一面に貼った板を柔らかくなでた後、突然会場を抜けると戻ってきた遠藤は、手にしたキャンバスを壁の中央に固定していった。はしごを登ってまず書いたのは「We are alive on the earth.」「We are family in the world.」「Let's make the big ring for our future.」。次に、カラフルな絵の具の缶に手を突っ込んで、板を叩き、さらに、的のような何重かの円を描いていった。けっして否定的な意味ではなく、遠藤のパフォーマンスにはオリジナルな要素はない。むしろ、篠原有司男?ジャスパー・ジョーンズ?ボイス?などと、美術史の意匠が想起させられる。あるいは、最後に黄色の文字で書いた「自由」は、あまりに手垢のついた言葉に思われる。「未来」というフレーズとは対照的に、遠藤の行為からは、さまざまな「過去」の記憶が呼びさまされる。きわめつけは、壁との格闘が一段落すると、観客に手拍子を求めたかと思ったら不意に歌い出した「ひょっこりひょうたん島」。遠藤は、過去の遺物(「レディ・メイド」と言い換えてもいいだろう)を取り出しながら、それらをあらためて活性化させようとする、それも〈ノーテク〉で。芸術を芸術らしく見せるアイロニーでもジョークでもなく、とはいえそれらをちゃんとかすめ通りながら、遠藤が現出させようとするのは、すべてをご破算にした後に残る本当に大事ななにかだろう。それがなになのかを明示することは遠藤の役目ではない。ただ遠藤の身体が発する熱気によって、その本当に大事ななにかを目にしたいという気持ちが刺激される、まるで魔法の起こる瞬間を期待するように。「自由」の一文字はそうした(蛇行を経た末の)真っ直ぐな思いへ向けられているに違いない。

2011/01/21(金)(木村覚)

大橋可也『驚愕と花びら #02』

会期:2012/01/14~2012/01/15

シアター・バビロンの流れのほとりにて[東京都]

一年ぶりとなる『驚愕と花びら』の上演。大橋可也&ダンサーズ名義ではない本作の特徴は、ダンサーの多くが若手のメンバーであることだろう。そしてもうひとつの特徴は、その結果として大橋の「群れ」の振り付けが堪能できるところにある。大橋のダンスのルーツには舞踏がある。舞踏において群舞をどう振り付けるかというのは、なかなか難しい問題だ。主宰者(振付家)のソロが踊りとして充実しているのに、彼の振り付ける群舞がソロ並の質を獲得しえないという事例を多く目にする。それを、主宰者(振付家)が自分のダンスをどのようにメンバーに伝えるかという伝達の問題としてとらえることもできるし、そもそも動かす者と動かされる者との関係をどうしつらえるかという問題として考えることもできるだろう。本作において大橋の「群れ」は野生動物のようだった。各自バラバラに生きていて野放図に見えた。けれども、晴れの景色がふと気づけば曇り空に変わるように、合図したわけでもないのに、いつの間にか全体のトーンが変化する。そのなだらかな変化は、思いのほか美しかった。それに対して、例えば、壺中天であれば「スッ」と小さく音の漏れる息を合図に、横並びになったダンサーたちは動作を次々と切り替えるだろう。大橋の群れが気づく間もなく変化するのとは対照的に、壺中天の群舞にはつねに覚醒がともなっている。どちらが正しいという話ではない。動かす者と動かされる者の関係を、暗示する場合と明示する場合とがあるということだ(「暗示する」といっても隠蔽するのではないから、大橋作品でも動かす者の力を観客は意識している)。大橋の「群れ」はいつの間にか流される。壺中天の「群れ」は、動かされる者の運命がコミカルに、またホラー的に示される。いずれにしても、舞踏系のダンスの面白さは、美の体現者というよりは、動かされる存在として舞台上のダンサーが立っているところにあるのだ。観客はそこで、動かす者の存在を察知しつつ、群れの運命に思いを馳せることになる。

2011/01/15(日)(木村覚)