artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:上杉満代+黒沢美香+堀江進司『東京ロケット』/黒沢美香&ダンサーズ『「虫道」work in progress』/『ファッションと身体と振付家』

[東京都]

今回で10回目となる「吾妻箸ダンスクロッシング2011」(8月19日~8月21日@アサヒ・アートスクエア)が必見なのは間違いないのですが、先日の山賀ざくろとのデュオでも圧倒的な存在感を示していた黒沢美香の公演にぜひ注目していきましょう。
 まずは8月9日~10日に日暮里d-倉庫にて上杉満代、堀江進司と共演する『東京ロケット』。本作のためのインタビューのなかで「私にとってのロケットは、正直、憧れ、やる気が空回りする明るさです」と言う黒沢。「空回り」なんて表現、いかにも彼女らしいという気がするのだけれど、けっしてネガティヴなニュアンスを受けとる必要はなくて、むしろスリリングな場になることを期待したくなる発言です。ぼくは、即興のダンスにはどんなことができるのか、なんて問いを抱きながら見てみようと思います。8月14日には同じ日暮里d-倉庫で黒沢美香&ダンサーズ『「虫道」work in progress』が上演予定。こちらのほうは19人の大群舞。11月に行なわれる本公演『ミニマルダンス計画2:「虫道」──起きたことはもとにもどせない』の凝縮版らしいです。あと8月10日にはダンサー川野眞子に3人の振付家(黒沢のほかに森下真樹、山田せつ子)が振り付ける『ファッションと身体と振付家』(@アサヒ・アートスクエア)というイベントでも作品を発表するそうで、なんだか8月の東京はちょっとした「黒沢美香祭り」です。
 ぼくは初めて黒沢の舞台を見てからというもの、ほぼ毎回、黒沢が舞台に立っているだけで「ただごとではないなにかが起きている」と思わされてきました。そしてある日から、その「ただごとでないなにか」が舞台に起こることを「ダンス」と呼んでみることにしょうと決めました。そうすると「ダンス」なるものもまたこの世のあらゆる運動(パフォーマンス)もなんだか違った風に見えるようになってきました。黒沢のダンスをひとつの尺度にして世界のあらゆる運動(パフォーマンス)を見る、そんな遊びをこの8月は皆さんに提案してみたいと思います。

2011/07/30(土)(木村覚)

山賀ざくろ企画ダンス公演『沙羅等──黒沢美香さんと供に』

会期:2011/07/14~2011/07/16

アサヒ・アートスクエア[東京都]

ダンサー・山賀ざくろは(本人の人格かどうかとは別に)「嘘つき」で「ずるく」て「自分勝手」だ。身振り、手振り、音楽が鳴ったときの腰つきから、そうした彼の「人格」に接し、ニヤッとしたり、感心したり、「ちょっとずるいぞ」なんてツッコミを観客は心で呟く。ときに唯一無二の面白さと感じさせるときがあるのは、ものやひと(観客を含む)に対して山賀のとる距離のあり方が繊細だから。その繊細さに魅了されつつ「そうそう」と思い出すのは、そうしたものやひととの接触(コンタクト)の妙を楽しむというところにこそ、他のダンスと比べて異質な、コンテンポラリー・ダンス独特の部分があるはず、ということ。そう、その「はず」なのだが、近年、こうしたポイントに対して繊細なアプローチを見せる作品にあまり出会わず、残念だった。
 ところでダンスで「コンタクト」と言えば、そもそもはダンサー同士が身体を接触させる即興ダンス、コンタクト・インプロヴィゼーションを指す。1970年代に、この新しい即興の方法が登場して以来「コンタクト」は広く流行し、コンテンポラリー・ダンスの主たる要素になってきた。contact Gonzoのような、接触というより「衝突」とでも称すべきダンスも現われ、現在では「コンタクト」という状態のレンジが広がってきてもいる。
 そのうえで、「コンタクト」という枠を通して、今回の山賀と黒沢美香とによる本上演を振り返ってみると、ずいぶんとデリケートで豊かな「かかわり合い」であったと思えてくる。畳の敷かれた舞台が三カ所に分かれ、右から左へ移動しながら1時間強の上演は続いた。冒頭、観客の前を通り過ぎる浴衣姿の2人、山賀の後ろをちょっとさがってついてゆく黒沢、「夫婦」の設定かと微かににおわす。まず、右の舞台に上った2人は、しかし、同じ空間にいるように思わせないほど、互いを無視する。互いが留守のときの様子を同時に上演しているかのよう。中央の舞台に移ってしばらくしたところだったろうか、ひょうひょうと踊る山賀の後ろで、いつものように「純粋乙女」の風情で黒沢が踊る、その黒沢に客の関心が移ったときだった。山賀がじろじろと踊る黒沢を眺め始めたのだ。イヴォンヌ・レイナーは近年『トリオA』の改訂版で、踊るダンサーを見つめ続けるパートナーを舞台に置いたというが、この光景はそのエピソードを思い起こさせた。黒沢の「純粋乙女」風情は、「心に抱くファンタジーに乙女が没頭している」と思わせるところに生まれる。この没頭に山賀は水を差した。微妙な変化だが、明らかに黒沢はやりづらそうな顔を見せ、動作が若干だが揺らぐ。左の舞台に移動しても、山賀はこの振る舞いをしてみせた。ここまで黒沢に接触(コンタクト)したダンサーがいただろうか。肉体の強烈なぶつかり合いとは異なる、しかし、強烈な接触が、関わり合いがそこにはあった。一人の人間と人間とが出会い踊っているというその出来事それ自体が、作品になっていた。ダンスの上演とはそのようなものだ、なんてことをあらためて確認させてもらった好演だった。

2011/07/16(土)(木村覚)

壺中天(振鋳・演出・美術:高桑晶子+鉾久奈緒美)『日月花』

会期:2011/06/27~2011/07/03

大駱駝艦・壺中天[東京都]

壺中天の男子(「男性ダンサー」なんて書くよりもふさわしい気がするので、あえて)たちに比べると、女子たちの作品はぼくには掴みがたかった(ちなみに、近年の壺中天の公演では、男子中心か女子中心かに分かれることが多く、均等に男女が混合される公演は少ない)。とくに男子たちが「路上に並んで立ち小便する」みたいに幼児的な情動を勢いよく放出しているのに対して、女子たちはやや「ふっきれて」いないと感じさせられてきた。「晴れの舞台で憧れの妖精になりたい!」というなどといった「乙女心」が見え隠れすることもある。バレエの舞台ならいざ知らず、舞踏においては無用の長物ではないか、あるいは一般の女性たちを見ていると「乙女心」に窮屈さを感じ、そこから解放されたいと願うなんてことが起きているのでは、などと思ってしまう。例えば、変顔でプリクラ撮るなんて遊びは、そうした窮屈さからの解放感をえたいがための振る舞いではなかろうか。
 そんなこと思って見ていたぼくにとって、本作の白眉は中盤の女三人組の登場シーンだった。見事な変顔だった。正直言って「ぶさいく」だった(そう呼ぶ失礼を詫びるべきか迷う、ただ、あれが意図ある表現だったら詫びてはならないはずだ)。見ながら「ぶさいくだなー」と漏らしたくなるくらい、見事に突き抜けていた。toto BIGのCMで踊り歌う森三中を連想させる、不格好であるが故に生じる解放感に酔った。白塗りの全裸に近い姿故に女子たちを愛する男性客もいるだろう。けれども、変顔もできる壺中天女子たちのダンスは女性客にこそアピールするのではないだろうか。これで壺中天の女子が男子の「バカ」(もちろん賛辞として用いています)に拮抗してきた気がする。ぜひ近い将来、この「バカ」を競う「壺中天・紅白踊り合戦」をやってもらいたいと強く希望する。

2011/07/01(金)(木村覚)

プレビュー:「Whenever Wherever Festival 2011」、「ダンスがみたい!13」ほか

7月の公演は、単独公演よりもシリーズ企画やイベントが多い。森下スタジオで行なわれる「Whenever Wherever Festival 2011」(7月7日~28日@森下スタジオ Sスタジオ)は、ワークショップが満載で観客というよりダンサー、振付家にお勧めのイベント。ダンスの講師が中心だけれど、柴幸男ら演劇系のワークショップもあるので、ダンスや演劇をつくりたい方、要チェック。
die pratzeとd-倉庫で行われるのは「ダンスがみたい!13」(7月19日~2011年8月3日@神楽坂die pratze、8月5日~30日@日暮里d-倉庫)。8月の上演予定のほうが面白そうではあるけれど(大橋可也&ダンサーズ+空間現代や黒沢美香&ダンサーズ、川口隆夫など)、7月ならば岩下徹と桜井圭介の「即興セッション」(7月24日@die pratze)が気になる。
それとアサヒ・アートスクエアのすみだ川アートプロジェクト2011「江戸を遊ぶ:Nanpo×連」(6月19日~7月31日@アサヒ・アートスクエアほか)もある。快快による『快快-faifai-のOBAKE!!!!!!』(7月15日)や蓮沼執太の「MUSIC TODAY ASAHI」(7月18日)も必見だが、個人的には山賀ざくろが黒沢美香と踊る「沙羅等」(7月14日、16日)に期待している。

2011/06/30(木)(木村覚)

ダーレン・アロノフスキー『ブラック・スワン』、周防正行『ダンシング・チャップリン』

会期:2011/05/11、2011/04/16~

たまたま日本では同時期の公開となった二作、「バレエを扱った映画」という以外にも両者には共通点があった。どちらも、前半に本番にいたるまでの出来事、後半に本番が上演されるのである。もちろん違いもある。『ダンシング・チャップリン』は、実在のダンサーたちが実名で登場するドキュメンタリー、故に本番はそのままバレエ作品の映画化であるのに対して、『ブラック・スワン』は純粋なフィクションである。ただし、極端に近い位置から主人公をとらえる『ブラック・スワン』のカメラは、主人公の本番初日までの葛藤に恐ろしいほどリアルに迫っており、対して『ダンシング・チャップリン』では、本番ぎりぎりでダンサーが入れ替わるなど、予想を超えた出来事が起きる。フィクションはバレエリーナの心理を濃密に描き切り、ドキュメンタリーは嘘のような本当の話で観客をバレエが生まれる現場に引き込む。どちらにしても面白いのは、前半の部分が後半の本番を見るための必要不可欠な要素になっているところだ。リハーサルや舞台の外の出来事込みで見せることで舞台作品は舞台単独では出ない力を出すことが可能になる。ただし、その力を有しているのは、舞台芸術というよりは映画というべきだろう。その多くが本番の上演のみならず上演までの顛末を描いた「バックステージもの」であるミュージカル映画はその好例に違いない。どちらの作品もまるでそうした「バックステージ」もののように、バレエの魅力を映画固有の力によって引き出していた。

映画『ブラック・スワン』予告編

映画『ダンシング・チャップリン』予告編

2011/06/25(土)(木村覚)