artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

大橋可也(構成・振付・演出)『驚愕と花びら』

会期:2011/01/08~2011/01/09

シアター・バビロンの流れのほとりにて[東京都]

ダンスワークショップ「疾駆する身体」から生まれた作品。舞台に登場した10人ほどのダンサーのほとんどはレギュラー・メンバーではなく、必ずしも大橋の振付に対して感度が高い者ばかりではなかった。しかしその分、大橋の方法論が汎用可能であることを確認できた上演だった。大橋の方法論の根底にあるのは、いうまでもなく舞踏である。舞踏は、能動的というよりも受動的なダンスである。動くというよりも動かされる動き。そこには、自分を動かすなにかが「気配」として舞台に存在していなければならない。そして、そうした存在が一体何者なのか、ひとつの解釈として呈示されていなければならない。例えば土方巽が「風だるまの話」のなかで「悪寒」と呼んだようななにか。大橋はときに、そこに「格差社会の不安」を読み込んだりもしたが、今作も夢遊病者のように舞台をうろつくダンサーたちによって、寄る辺のない若者の姿が立ちあがっていた。暴力的な印象も強い大橋作品だが、じつは繊細で美しい。ところどころで現われるダンサーのユニゾンは、偶然のもつ美しさを描き出していた。

2011/01/09(日)(木村覚)

悪魔のしるし『SAKURmA NO SONOhirushi』

会期:2012/01/06~2012/01/08

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

主宰の危口統之は本作で、チェーホフ『桜の園』の上演というよりも、その上演に向けたリハーサルのプロセスを芝居化した。だからといってたんなるバックステージものではなく、上演の会場がリハーサルの現場であったり、役者はみな本人として舞台に登場していたりと、いわゆるドキュメンタリー演劇の側面もある。しかも、没落貴族が自分たちの土地を奪われていく『桜の園』とパラレルなストーリーを、役者たちの実生活や危口の実家の話を基に描きもする。例えば、危口が腐乱死体になるとあちこちから得た助成金で食いつなぐというフィクションを差し込んで、役者たちをあたかも没落貴族のように見せたり、また、い草で一財を築いた危口家のリアルな困窮話を没落貴族の姿に重ねたりした。こうして重層的で複雑な構造をこしらえつつ展開されるのは、役者たちによるほとんどごみのような、他愛のない対話の数々。「○○に行きたいか!」と場に応じて「○○」を入れ替えつつ何度も似たフレーズを突発的に繰り返し口にする太っちょや「サクセス!」と無意味な(しかし「○○に行きたいか!」同様テレビ的記憶を刺激させられる)言葉をことあるごとに連呼するやせ男などを代表に、役者たちはくだらない、無意味な発言ばかりを繰り返す。こうしたくだらなさ、つまらなさは、精巧に縫製された衣服にダメージ加工の布を用いるみたいなもので、危口演劇の洗練を意識させることに貢献する。そう、とてもよくできた、ごみみたいでクレヴァーな、すなわちくだらなくてサイコーな舞台なのだ。
 ところで、本作に大きな問いがあるとすれば「この身体、どうしょう?」という問いだろう。「ちゃんと『桜の園』を上演したところで他の劇団にはとてもではないが勝てない、なのでこういう芝居にした」と危口本人が上演中に漏らしていたように、本作は正統な演劇から逸脱(没落)した者たちの話。だから死体の危口に象徴されているように、本作を貫いているのは没落しても生きていかなきゃいけない(死んでいるなら死体を片付けなきゃならない)という問題、つまり「この身体、どうしょう?」という問題なわけだ。このテーマは、自分がアルバイトしているダンサーなのかアルバイターが踊っているのかわからないと語った捩子ぴじんの『モチベーション代行』にも通じる。しかし、快快が役者個々の生を主題化し、そこから芝居を立ち上げる発想と比べれば明らかなように、ラストに壁に激突し墜落する危口(のカタルシス)は別として、他の役者たちにとってそれはたんに戯曲のテーマでしかなく、彼ら自身の生の問題はエピソードとしてとりあげられはしても、真にテーマ化されない。それゆえに本作はすぐれた現代演劇作品に見えるともいえるのだが、それゆえにぼくにはほんの少し物足りない。

2011/01/06(金)(木村覚)

プレビュー:チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』/『世界の小劇場 Vol.1 ドイツ編』

チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』(2011年2月2日~15日@神奈川芸術劇場)は、1年ぶりの新作上演。これはまちがいなく見逃せないのだけれど、2月に要注目なのはチェルフィッチュの所属するプロダクションprecogの中村茜らによる『世界の小劇場 Vol.1 ドイツ編』(2011年2月19日~27日@神奈川芸術劇場)。ドイツはベルリンにある劇場HAUとの共同キュレーションでセレクトされた3組は、もちろん、ヨーロッパで展開されている舞台表現のいまを知るきっかけになるのだろうけれど、それのみならず、彼らの作品を日本で見ることによって、日本の舞台表現がどんなベクトルを有しているのか、相対的に考える視点をえることができるだろう。大事なことは、ヨーロッパの香りを味わうことではなく「彼らの世界がわたしたちの生活と地続きであるかもしれないという可能性を探求する」(drifters internatonal)ことにあるのだから。こうした海外の動向を紹介するイベントというのは、案外いま少ないと思うので、彼らには頑張ってもらって、今後、第2弾、第3弾と続けていって欲しいものだ。


She She Pop “TESTAMENT”(シー・シー・ポップ「遺言/誓約」)


Rimini Protokoll “Black Tie” (リミニ・プロトコル「ブラック・タイ」)


andcompany&Co. “MAUSOLEUM BUFFO” (アンドカンパニー&Co.「道化の霊廟」)

2011/01/05(水)(木村覚)

「Neo New Wave Part 2」展

会期:2010/12/03~2010/12/26

island ATRIUM[千葉県]

2010年9月にPart 1が行なわれた同名展覧会のPart 2。Part 1の作家たちの多くが「自分の感覚」を創作の端緒にしているように見えたのに対して、Part 2の6名の作家たちがともに「他者をどう自分の活動に巻き込むか」というテーマに取り組んでいたのは印象的だった。なかでも、小学生が公園で基地をつくるみたいに、加藤翼は仲間たちと一階のギャラリースペースを占拠、ベニヤ製の箱、二つのこたつ、すべり台などで一杯にした。ひとが通れるくらいの大きさの箱には、こぶしで突き破ったような穴が空いていて、入ると、空洞に点在する複数のモニターに映るのは、やんちゃな若者たちが実行した遊びの過程。映像と諸々のオブジェとの関係は、泉太郎のそれに似ている。集まった人びとが「ゲーム」に興じる点も共通している。ただし、女性も多く混じっているプレイヤーが黙々とゲームを遂行する泉作品に対して、加藤の場合は、同性の仲間を巻き込んだことで、わいわいと楽しい雰囲気が詰まっている分、良くも悪くも「内輪」感が目立つ。閉じることで高まるボルテージは疎外感を観客に与えもする。加藤とは対照的に、久恒亜由美は、35才の男が自分を口説く音声や占い師が自分を占う音声を作品にし、他人を作品に巻き込む。予期せぬ仕方で作品という場に他人を引き込む仕掛けは巧み。また他人の評価を通してしか自分が確認できないリアルな若者像として理解もできる。けれど、他人を作品に巻き込む残酷さに心がひりひりする。知り合いの高校生に亡き父への思いを語らせる原田賢幸の作品も同様の「ひりひり」を感じた。社会に介入する際の作家の手つき、その妙(デリカシー)が気になった。

2010/12/23(木)(木村覚)

小谷元彦「幽体の知覚」

会期:2010/11/27~2011/02/27

森美術館[東京都]

写真やヴィデオを用いた作品があるとしても、やはり小谷元彦は彫刻の作家だ。彫刻とはしばしば身体を三次元的にイメージ化する表現形式。「幽体」という言い回しにもあるように、小谷はただひたすら身体のイメージ化に取り憑かれているようだった。「身体のイメージ化」と言ってみたが、見られる対象としての「身体のイメージ化」でもあるだろうが、それだけではなく、対象から刺激を受け続けている見る者の「身体のイメージ化」でもあるだろう。小谷が造形した身体イメージは見る者の知性や感性と言うよりも生命にこそ訴えるのである。ゾッとし、冷や冷やし「やばい」と思わされた瞬間に見る者の体に広がる官能。それは、見ている対象がリアルではなくイメージに過ぎず、現実との距離が確保され、本当に危険なわけではないから成立しているのは確か。と言っても、立体で造形されたイメージは見る者の身体を怯えさせるのに充分で、見る者は自分の身体の存在をこれでもかと確認させられることになる。「映像彫刻」と称される作品では、見る者は登ったり落ちたりする滝のような水の流れに囲まれる。360度スクリーンとなった円筒形の部屋には上下鏡が設えられていて、スクリーンに映された滝に全身が浸たされる錯覚に陥る。小谷の魅力は、そんな最中でも滝のしずくの造形性にうっとりさせられるところで、作品個々のディテールの美しさは圧倒的だ。身体を襲う崇高さとディテールの内にあまねく貫かれている美しさとが共存する作品たち。官能性が強烈に保たれつつもある種の趣味に閉じこもることなく、森美術館の展覧会らしいデートコースへの対応力も備えている。現代美術は観客に理屈ではなく感覚で受けとめさせればよい、と諭されているような気持ちになる。近年あちこちで見かけるそうした戦略の成功例ととらえるべきなのだろう。

2010/12/18(土)(木村覚)

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