2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

Chim↑Pom「SURVIVAL DANCE」

会期:2011/09/24~2011/10/15

無人島プロダクション[東京都]

Chim↑Pomが凄まじい力を発揮するときというのがある。社会に自分から介入しておきながら、自分たちでは制御しえない出来事を招いてしまうときだ。だからと言って、諸々の事件やお騒がせな若者というイメージが生むセンセーションのことは本質的ではないので無視しておこう。大事なのは、「巻き込みつつ巻き込まれる」出来事を計画し実行するということを彼らが自らの方法にしてきたということだ。さて、今回の展示である。ぼくが彼らに期待する「凄まじい力」が十分に発揮されたか、といえば「さほどではなかった」というのが正直な感想だ。はっきりしていたのは「Chim↑Pomのなかの絵画/彫刻的傾向」が、前述した「出来事を招いてしまう傾向」に勝っていたこと。スーパーマーケットで目にするイメージを、「平和の火」(福岡県星野村)で板をあぶる手法で描いた作品。同じく平和の火に関連しているのだろう、火で地面に同名作のタイトルロゴなどを描く作品《BACK TO THE FUTURE》。エリイがカンボジアの射撃場で投影されたハリウッド映画の銃撃戦に向かってライフルを打ち続ける作品《Ellie VS Hollywood》(無数の弾丸が打ち込まれたボード/スクリーンは、ニキ・ド・サンファル「射撃絵画」を連想させる)。福島で制作された《Destiny Child》は砂でできた子どもの彫刻を写真に収めたものといえるが、以上のどれからも「不測の事態」は発生していない。なかでも気になったのは、彼らのデビュー作にして代表作であり、あらためて制作された黄色いネズミたち《スーパーラット showcase》で、以前は剥製のほかに捕獲の映像シーンが作品の一部として上映されていたのだが、今回はその捕獲映像がなかった。ギャラリーの天井にミラーボールとともに10台近くのモニターが置かれ、そこには都会のネズミたちのたくましい生態が映し出されているのだけれども、そこにChim↑Pomたちが映り込むことはない。あの、キャーキャー言いながらネズミと格闘する映像こそ、この作品の核だと思っていたので残念だ。そうした例もあげられるように、展示タイトルの「SURVIVAL」「DANCE」のワードはともに、彼らの過去作品のほうにより濃厚に結晶化されている気がしてしまうのだった。

参考:Chim↑Pom展「SURVIVAL DANCE」再レビュー(2011年11月1日号)

http://artscape.jp/report/review/10014180_1735.html

2011/09/25(日)(木村覚)

山下残『庭みたいなもの』

会期:2011/09/22~2011/09/25

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

日常のもの(廃物)が言葉を発話させ、発話が動きを引き出す。90分ちかい上演中、7人のパフォーマーは、代わる代わる、互いにかかわり合いもしながら、ほぼ一貫して「もの」→「発話」→「動き」の連鎖を繰り返した。一貫しているぶん、大きな展開はなく、単調で、退屈と言わざるをえないところもあった。けれども退屈なぶん、一貫した方法それ自体がクリアに舞台上で示されることとなった。例えば冒頭、男女2人が向かい合い、男の掲げたTシャツを見て女は「てぃーしゃつ」と言い、男は「てぃんしゃつ」と口にする。訂正するかのように、女は「てぃーしゃつ」と語気を強めながら「てぃー」のとき腕を横にすーっと伸ばし、次に「てぃん(しゃつ)」と言うときは腕を「ん」のところで急降下させる。この腕の動きを「発話に誘発されたダンス」と呼んでみたくもなるのだけれど、これが「ダンスか否か」はさほど重要ではないだろう。ものや言葉からこぼれでてくる動きをともなったかたちはドローイングになぞらえてみたくなる感触もある。ただし、ならばひとつ気になるのは、この「ドローイング」に強い個性あるいは妄想とでも呼ぶべき要素が希薄なことだ。一つひとつの出来事の発端に置かれた「もの」の選択理由が曖昧なところに、その希薄さの一因がありそうだ。舞台は仮設された木製の床で、その下に地下倉庫のような空間があり(観客は着席する前にその空間に通される)、ものはその地下空間から各パフォーマーによって舞台に持ち上げられるわけだが、なぜいまこのものがこのパフォーマーの手で選択されたのかが、観客にはよくわからない。わからないまま、大量のものたちが現われ、また引っ込められる。そのわからなさ、その抽象性が、作品鑑賞を方法論へ集中させるわけだけれど、同時に、パフォーマーの発話のあり方や動きのあり方そのものに観客(少なくともぼく)が興味をもつ意欲を削いでしまったのではないかと思うのだ。

2011/09/23(金)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『OUTFLOWS』

会期:2011/09/17~2011/09/19

こまばアゴラ劇場[東京都]

冒頭の数十分が印象的だった。コンクリートの床の一部。そこにすぐ脇にいる、後ろから抱きしめられる女が映された。もまれる胸が床に拡大される。映像の身体と生身の身体が並べられた。目の前の生身の二人よりも映像に、ぼくの目は向かってしまう。映像の近さと生身の遠さ、そんなことを感じさせられる。大橋の企みはさらに続く。斎藤洋平による映像の上に、10人ほどのダンサーたちが倒れる。さらに1人の男が現われ、手の映る小さなプロジェクターを使い、ダンサーの体をなでてゆく。映像の身体(手)が生身の身体に重なる。官能的で、陵辱的にさえ見える。大橋はまず、映像の身体と対比させつつ生身の身体をもてあそび、それによって、ヒエラルキーの下位に生身の身体を位置づけた。丁寧なイントロダクションがこうして置かれた故だろう、その後は、目覚ましい新展開は見られないものの、十分に見応えのある舞台となった。人間存在のどうしようもなさが現われている。それがいい。「OUTFLOWS=流出」というタイトルが「震災」を意識しているのは間違いないだろう。いま、日本の舞台表現には、そうした「震災」に関連した表現が溢れ、その溢れ具合は「ブーム?」と揶揄したくなるほど甚だしい。そのなかで、舞踏をルーツにもつ大橋の身体へ向けたアプローチはすがすがしい。がれきのような、見捨てられた家畜のようなダンサーたち。土方巽は、舞踏は「立てない」ところからはじまる、と言った。この「立てない」を十分に噛み締めることからしか、「震災」以後(常ならぬ世)を生きる勇気は生まれないような気がする。

OUTFLOWS [Excerpt]

2011/09/19(月)(木村覚)

「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』+飴屋法水『じ め ん』)

会期:2011/09/16~2011/09/17

都立夢の島公園内多目的コロシアム[東京都]

500人くらいいただろうか、観客は受付で渡された白い旗を手に、夢の島公園内・多目的コロシアムのすり鉢状の縁を行進し、半円形をつくった。旗を渡された時点で嫌な予感がしていた。観客を傍観者ではなく参加者にする仕掛けだなと気づくが、受付で拒むかどうかを判断する余裕はなかった。旗はビニール製で、飴屋法水が登場し、観客に座るよううながすと、レジャー・シートに変化する。都心にいるのにまるで野外フェスのようだ。ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』のはじまりを待つ。草の匂いを嗅ぎ、息をひそめる。すると、目の前の円形の空間に並べられた数百個の椅子が、一つひとつと倒れ、次第に巨大な磁石に引っ張られるように、一方向に引きずられていった。「津波」を読み込みたくないなあと思いつつ、不思議な動きに圧倒された。けれども、その後、白い衣装の集団が現われて、倒れたり、観客の近くで旗を振ったりするあたりでは興ざめしてしまった。空っぽのかたちだけのスペクタクル。おそらく、芸術の名のもとで、スペクタクルとはなにかを反省する機会として上演されている(のだろう)光景は、しかし、スペクタクルに必要な巻き込みの力があまりに希薄だ。それでも、白い集団が旗を振れば、観客のなかに同じ旗を振ってしまう者も出てくる。空っぽの形式だけのスペクタクルに揺り動かされる観客というのは、夢やら愛やら浮ついたイメージを並べた商魂逞しいスペクタクルに熱狂する観客と比べて愚かでないといえるのか。旗と言えば、この数日前、ジャニーズの新人グループ(Kis-My-Ft2)の東京ドーム公演を見る機会があった。そこでも旗が配られたのだが、グループへの愛を表現すべく一斉に振られる旗は、感動的とも言いたくなる、強烈なスペクタクルを見せた。そうした力が発揮されることなく、ゆるいスペクタクルでなにかを感じよと観客をうながす「芸術鑑賞」というものの虚しさよ。後半の飴屋作品『じ め ん』は、日本国が消滅し、ひとがマレーシアに移住するという話。「消滅」というセンチメンタルなイメージは魅力的だが、消滅しないという事態こそ「震災」がひらいた現実ではなかったか。

2011/09/16(金)(木村覚)

岩渕貞太『雑木林』

会期:2011/09/09~2011/09/10

アサヒ・アートスクエア[東京都]

1時間ほどのソロ作品。岩渕貞太は、中間状態を保ちながら舞台に居続けた。つねに肘や膝が曲げられ、手前にあった動作と次の動作の間に一貫して「待ち」の状態がキープされていた。なにかが起こりそうという「スリル」への期待が温存され、時が進む。動きの強弱大小の点でも中間状態は保たれた。微動でもなくダイナミックな旋回や跳躍でもなく、するするとかたちが変化しながら、ときに見る者をはっとさせるポーズや動きの流れに結晶する。ソロだからと言って一本の「木」ではなく、かといって壮大な「森」へ向かうのでもなく「雑木林」を目指す岩渕の意図は、掴めた気がした。とはいえこの「雑木林」の見所がどこかがわからなかった。今月とりあげている山下残の『庭みたいなもの』もそうであるように、ダンスのタイトルに「環境」を意識させる言葉を当てるひとつの傾向があるように思う。しかし、なんらかの環境が呈示できたとしても、それを生みだすのが作為である限り、自然そのものの豊かさ・強烈さには遠く及ばない、なんてことのほうが多いはず。中間状態にとどまるという作為が、思いがけない間だとか動きだとかが豊かに生じる可能性を削いでいるように見えるのは、そういう意味で気になるのだ。もっと岩渕の自然というか、脳の働きというか、妄想の質というか、岩渕の作為から漏れ出る部分が見てみたい。それには、漏れの余地をつくる作為の妙が必要だ。異様な色の花が小さくてもひとつ咲いてはじめて雑木林はただの雑木林ではなくなる。

2011/09/10(土)(木村覚)

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