artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

Chim↑Pom「REAL TIMES」

会期:2011/05/20~2011/05/25

無人島プロダクション[東京都]

東日本大震災以後、現地に乗り込んで現地の若者と共作した作品《気合い100連発》。円陣を組んだChim↑Pomと現地の若者たちが一言ずつ叫んでは「オーイ!」と声を合わせる。「がんばるぞ(オーイ!)」「早く水着の美女が見たいぞ(オーイ!)」「東北最高(オーイ!)」などの声が上がるなかで、一番「ぞくっ」としたのが「放射能最高(オーイ!)」の叫びだった。「最高」とは、放射能を賛美しているのでも現実から逃避しているのでもない、むしろ「負けないぞ」という意味で発せられているわけで、例えば「放射能上等」と言い換えてもいい表現だろう。あまた生まれ続けている「震災後のアート」のなかで、「放射能」と拮抗しつつ「生きよう」とする思いが作品化されたものをぼくはこれ以外に知らない。叫び声は前向きで明るいが、彼らの円陣が被災地の景色のなかであまりに小さく見えると、そのコントラストにまた「ぞくっ」としてしまう。Chim↑Pomのカメラは思いのほか冷徹だ。それは、話題になった《Level 7 feat.明日の神話》や《Without SAY GOODBYE》でも同様で、思いつきととられかねない彼らの行動とそれを撮る冷静なカメラアイとの二重性が、作品に複雑さを与えている。

2011/05/21(土)(木村覚)

大駱駝艦・壺中天(演出・振付:向雲太郎)『底抜けマンダラ』

会期:2011/05/06~2011/05/15

大駱駝艦スタジオ壺中天[東京都]

最近DVDで『滝沢歌舞伎』を見た。あの〈タッキー〉が主演するジャニーズ流歌舞伎の世界。技量で匹敵できない分、少年たちが見せるのは、観客(ジャニオタ)の期待する「萌え」のヴァリエーション。見得も、下手な駄洒落も、残酷なシーンも、一生懸命な演技のすべては観客が「萌え」るためにある。そのあからさまな目的が舞台をすっきりさせ、自虐的な部分も含め、舞台を重層的にアイロニカルにする。そんななか思ったのは、これは、壺中天の公演にしばしば感じる「すっきりさ」に似ているということだった。白塗りの裸体=異形で踊る点では異なるものの、壺中天に濃密に現われるのは「萌え」と同様のエロティシズムである。そのポイントを否定しないどころかかなり自覚的に活用しているところに、壺中天が日本のダンス界において特異なポジションを獲得しているおもな要因がある、そう言ってもいいだろう。本作でも、そうした壺中天らしいエロがちりばめられていた。これまた毎度のごとく、中学の部活にあるような、同性集団の醸し出す独特の関係性があちこちで展開され、そうした「男子」に失笑する楽しさを、向雲太郎は十分に演出した。ただし、似ているとはいえ、既存の表現の型に固執する「萌え」とは異なり、そうした型の周りに身を置きつつも同時にそれから自由であるのが、壺中天の手口であるはずだ。エロは観客を誘惑するのみならず、さらにどこかへと誘拐する手段のはずで、さてどこ行くのかと期待したのだが、タイトル通り「底抜け」なまま、終幕してしまった。

2011/05/13(金)(木村覚)

勅使川原三郎『サブロ・フラグメンツ』

会期:2011/04/30~2011/05/08

川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場[神奈川県]

闇に飛び散る火花のよう。激しく、素早く、独特の規則性のもとで躍動する身体。バレエでも、モダンダンスでも、舞踏でもない、その規則性には、永らく探究を続けてきた勅使川原三郎でなければ到達できない地点の高さが感じられ、圧倒された。身体のくねりの内に形や速さのみならず力のダンスが感じられる勅使川原本人も、また素早くしなる腕で幾重にも残像が現われ異形化する佐東利穂子も魅力的だが、若いダンサーたちが踊ったとたん、場が目覚ましく変化したように見えた。肉体の衝動と与えられた振り付け(ダンスのアイディア)とが拮抗しながら突き進んでいる気がした。なにより全体として強く印象に残ったのは、この「火花」のような運動を「人力」で行なっていること。身体を用いるダンスが人力なのは当たり前ではあるけれど、映像の技術が高度化しまた簡便化した時代に、身体を映像によって表現する代わりに「舞台で踊る」ことはあえてその手段を選択した結果である。ならば「あえて人力で行なう」ことの内に、ダンスを踊る今日的意味が問われるべきだろう。陳腐な言い方だけれど「そこに生きて躍動する人が居る」という事実から見る者が得る喜びは、そのひとつに違いない。
生きる身体の躍動の合間に、ぽつんと孤独にしゃがみ込むさまも差し挟まれ、それも印象的だと思っていると、終わりのほうで「浜」のイメージやそこに「ぽつんとしゃがむ人」またそこに「横になる人」のイメージが出てきて「ひやっ」とした。勅使川原は、東日本大震災以後、準備してきた内容を変更したのだという。この未曾有の事態を表現するのはまだ時期尚早ではないか。けれども、踊る身体の内に情報やイメージや思いが満ちて扱わずにはいられない「身につまされる感じ」もわからなくはない。

2011/05/06(金)(木村覚)

プレビュー:小林耕平+core of bells『運送としょうゆとかぐや姫と先生とライオンと吉田くん』、ほうほう堂『ほうほう堂@留守番』

会期:2011/05/07

[東京都]

小林耕平によるcore of bellsとのパフォーマンス『運送としょうゆとかぐや姫と先生とライオンと吉田くん』が、5月7日に「Platform 2011」展開催中の練馬区立美術館で上演される。小林が用意するけっして成し遂げられるはずはない課題に向けてばく進する彼らのパフォーマンス。「けっして成し遂げられるはずはない課題」とは、パフォーマーたちの行為に安易な「オチ」をゆるさないということだ。笑いでも、感動でもないところに、未知の「オチ」を求めてもがく。延々と続けられる試行錯誤のなか、思いがけない瞬間に、ぼくらはあっと驚く奇蹟と出会えるかもしれない。ほかには、昨年好評を博したほうほう堂の『ほうほう堂@留守番』が再演される。155cmの2人組ほうほう堂は、近年、劇場から飛び出して野外のさまざまな場所で踊り、それをYouTubeにアップし続けてきた。ミニマルでデリケートな彼女たちのダンスが、劇場ではなく下北沢の一軒家で見られるというのは、ちょっと、いやかなりわくわくさせられる。おっと、こちらも5月7日の1日限りの上演。うまくすれば両方見られるので「はしご」してはどうだろう。

2011/05/02(月)(木村覚)

サンガツ『Catch and Throw Vol.1』

会期:2011/04/29

sonorium[東京都]

60分ほどの演奏の最後、トーンチャイム(ハンドベル)を鳴らしながら、メンバーたちは舞台をぐるりと何周かめぐった。全体としてきわめてシンプルなパフォーマンス、その締めくくりにわずかに演出された印象的なシーン。見ているうちに、このトーンチャイムという楽器こそ、現在のサンガツを象徴するアイテムではないかと思えてきた。一本だけでは単音が鳴るだけなので、メロディを奏でようとすれば、複数の演奏者が協同しなければならない。鉄琴があれば一人で可能なはずだ。ほかの楽器の用い方についても似たところがあって、ドラマーは三人居るのだけれど、三組のドラムスはどれも似た編成だから一人でも可能なパートをあえて三人で演奏しているというように見える。なぜそうしているのだろう。複数の演奏者が協同して演奏することで、リズムやメロディに微妙な「揺れ」が起きる。スティックの扱い方、力の入れ具合といった各演奏者の身体的個性に端を発する「揺れ」だ。「揺れ」が示唆するのは、メンバーの身体が個性を保ちながらも合体しているという事態だろう。この「サンガツという身体」を演奏空間に出現させるために、こうしたユニークな演奏(作曲)形態がとられているのではないか、というのがぼくの解釈。サッカーのパス回しのように、メンバーたちの「パスワーク」がそのまま演奏の表現になっている。その楽しそうな合奏状態こそ、ぼくの感じるサンガツの最大の魅力で、もちろんモノトーンの美しい音世界も素晴らしいのだけれども、まるで中学生の部活動(とくに体育会系)を彷彿させる、合奏する楽しさに満ちたパフォーマンスをこの晩も堪能したのだった。

2011/04/29(金)(木村覚)