2019年09月15日号
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artscapeレビュー

手塚夏子『民俗芸能と3.11以降』(2日目「実験地獄──生きたいから反応する」)

2011年06月01日号

会期:2011/05/21~2011/05/22

小金井アートスポット シャトー2F[東京都]

1年以上前から国内外の祭りや芸能上演の場に行き、調査を繰り返している手塚夏子。これまでに獅子舞を試演したこともあるという。彼女のこうした方面へのアプローチを今回初めて体感した。大いに期待してしまうのは、昨年の公演『私的解剖実験5 関わりの捏造』に祭りの要素があったからで、そのときぼくのなかに「都市においてダンスの上演は今日的な祭儀の場となりうるのか?」という問いが浮かんだのだった。「都市に祝祭はいらない」と平田オリザが口にしてから十数年経つ。ぼくらの祝祭の要/不要あるいは可能性/不可能性をめぐる問いに、手塚はどう迫ろうとしているのだろう。
「実験地獄」と称された本上演は、休憩含め4時間。公演というより、あらかじめ用意した10個の課題を観客にも参加をうながしながら実演してゆくといった体裁。床に散らばる日常の小物たちを拾い、小物から喚起されたイメージを隣のパフォーマーに実演させたり、繰り返すシンプルな動作を「問い」とみなして「問い」を発した者以外の参加者が言葉でそれに「答え」たりと、焦点は各人のイメージの交換にあるようだ。課題の合間のトークで、手塚はそこに「見立て」というキーワードを置いた。「しめ縄」がときに「蛇」ときに「川」に見立てられるように、民俗芸能にしばしば見られる「見立て」、これに注目してみようというのだ。パフォーマーと観客が取り組む作業はしかし、民俗芸能の内に潜む、なにかをなにかに見立てたい「欲望」には直接触れない。この欲望に共同体の結集する力が潜んでいるのだろうし、祭りに集う者たちの共有する熱を煽って、それは祭りのテンションを高めることだろう。しかし、「実験地獄」はその点を括弧にいれたまま進む。モダニスティックな手つきが、なにか大事なものを無視しているように見えてイライラさせられもする。けれども、わかりやすく人を結集させるなにかを安易に置かないことによって、「見立て」の作業は、参加する個々人の抱える欲望の深みへ向かおうとしているかに見えた。
ぼくたち(いや内実をもった「共同体」というものが成立し難いいま「ぼくたち」などと言って集団を括ることはできない、とすれば「ぼくたちの各々」とでも言い直すべきだろう)が今日なにを真に欲しているのか、その問いを無視するならば、どんな祭りも形骸化するだけだろう。その問いは間違ってはいない。そのうえで思うのは、人を巻き込み、祭りの熱狂へと人を誘う、その手管に関しての地獄のような実験も見てみたいということだ。

2011/05/22(日)(木村覚)

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