artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

大駱駝艦『灰の人』

会期:2011/03/17~2011/03/21

世田谷パブリックシアター[東京都]

3.11に未曾有の大地震と大津波が起き、その間、ぼくはほとんど外出せず、家族とシェルターに暮らすかのごとくひっそり生きていた。「計画停電」という名の短時間の停電が関東でもあり、ときには大停電の危険もアナウンスされた。そんな10日が過ぎた。「観劇どころではない」という気分は拭えぬまま、暖房もなく照明も減らされた、寒く暗い電車に乗って三軒茶屋へ。街中で荷物運びをしている人を見るだけで、被災地の映像を連想してしまうメンタリティからすると、震災のメタファーだと思わずにはいられないタイトルの『灰の人』(このタイトルはいうまでもなく震災以前につけられていたものではある)。以上の文章から察してもらえるように、正直ぼくの精神状態は観劇にふさわしいものではなかった。その事実は無視できないとはいえ、ぼくがこれまで見た彼らの公演のなかで、本作は最良の作品に思われた。
なびく髪に赤い火の粉のついた女がマッチを擦り、火を灰の円に落とす。やがて二人の男たちが火箸らしき棒をくわえ、不敵な笑みを見せたかと思うと、2本の箸の先を合わせ、器用に歩いたりする。この者たちは、麿赤兒が演じる男(ときに「翁」に見える)にこの箸を突き刺し、エンディングを引き寄せることになる。この一種の「父殺し」が本作のベースになっていることは、大駱駝艦の師弟関係が背景に透けて見えることも手伝って、説得力がある。と同時に、そうした世代交替劇(?)も含め「自然の摂理」が本作の大きなテーマになっていたことは、彼らの取り組みがスケールの大きいものであることを示していた。「津波」のように巨大な黒い布が人々を覆い尽くすシーンなどは、その一例。自然の過酷さとのコントラストによって、人の身体の美しさが際立つ。とくにキャスターの付いた大きな円卓状のオブジェの内側に、12人ほどのダンサーたちがほぼ全裸の白塗り状態で入り、うごめきながら舞台の上を右に左に進んだシーンは、その美しさと官能性において圧巻だった。大駱駝艦の追求してきた群舞の魅力が、たんに自由に踊るのではなく、オブジェの導入によって、ダンサーの動きに枷がはめられ、それによって、独特のエロティシズムが引き出されていた。さらに人と自然とを、シュルレアリスティックなイメージでつないだのが、火鉢だった。真ん中におかれた火鉢は、ちっぽけな地球に見え、また奇想天外なものたちの詰まった壺のようでもあって、そうしたイメージのダイナミズムもきわめて効果的だった。

2011/03/21(月)(木村覚)

プレビュー:大駱駝艦『灰の人』/「Action Sound Conflict」

二月は横浜でTPAMやWe Danceがあるなど公演が盛りだくさんで、あれもこれもと見られなかったものが続出しましたが、台風一過、三月は公演数で言えば穏やかです。一番の注目株は、大駱駝艦『灰の人』(2011年3月17日~21日@世田谷パブリックシアター)でしょう。本レビューで何度も取り上げてきたように、大駱駝艦の若手(と言ってもリーダー格のメンバーたちは中堅の貫禄と実績を有しています)による壺中天公演はいま見られる舞踏公演のなかでもっともキャッチーかつ今日的リアリティをおびたものだと言っても過言ではないでしょう。彼らのボスである麿赤児が中心となって上演される本作は、きっと麿と若手(中堅)のあいだでの緊張感みなぎる舞台を生み出してくれることでしょう、ぼくはそこに期待をかけています。ほかにはイベントですが「Action, Sound, Conflict」(2011年3月21日@六本木Super Deluxe)も要注目。大橋可也&ダンサーズがアグレッシヴなバンド・空間現代と組んで新たな一面を見せてくれることでしょう。それにゲストがすごい。ECD、OFFSEASON(伊東篤宏+HIKO+黒パイプスターダスト)はもちろんのこと、若手劇団注目株のロロ、小林耕平とのセッションでも話題のバンドcore of bellsが出演となれば、見過ごすわけにはいきません。

2011/02/28(月)(木村覚)

岡崎藝術座『街などない』

会期:2011/02/13~2011/02/20

のげシャーレ[神奈川県]

神里雄大の芝居は乱暴な印象を与える。緻密に、丁寧にしつらえられた、美しいとさえ思わせる、“乱暴さ”。それは、例えば、四人の女の子(20代半ばに見える)が横に並んで延々とおしゃべりするのだけれど、その内容がセックスであるといったところに示される。役者たちのルックスはみな普通というよりも地味めで、なのに彼女たちが連呼する言葉は「セックス」。男と同棲する二人に対し、一人が執拗に回数とか快楽のありようについて問いかける。「セックス」の言葉が空間に響くたび、その発話行為が異物のように空間に漂う。観客の心情がかすかに揺れる(具体的には失笑があちこちで漏れる)。役者に言わせている演出家の悪意さえ感じ、あらためて役者に注目すると、カラフルなサテン地の衣装は異国の女性たちのコスプレのようで、シンプルな舞台(というよりもスタジオ)の空間にそぐわない。乱暴さはちぐはぐさである。黙って三人の会話を聞いていた一人が突然処女であると告白すると、場面は急にその一人のセックスシーンへころがった。突然ペーストされた処女喪失の場面、処女が王に変身すると、さらにその上に、娘たち三人に領土を譲り渡す『リア王』の物語がこれまた突然ペーストされた。こうしたあたりも乱暴だ。乱暴さは突然でもある。登場人物たちの振る舞いには、傲慢さ、ひとりよがり、他人の蔑視が見え隠れしていて、この芝居において乱暴さは他人への態度の核をかたちづくっている。いや、真に核となっているのは領土の問題であり、アイデンティティの問題だ。四人の名前「横子」「浜子」「川子」「崎子」は、劇場のある横浜を意識した名称であると同時に、その隣接地域との関係を示唆し、それぞれの街の内部にある小単位も暗示している。ときおり会話に出てくるエジプトのニュースの話題も、領土を区切る国という単位に対する疑問へ向けられている。“乱暴さ”はだから、自分の境遇に対するいらだち、自分への他人の不理解に対する、他人への自分の不理解に対するいらだちの表明でもある。その“乱暴さ”が美しく見えたのは一貫していたから。移動するときにかならず役者が横歩きなのはその一例で、それも「横浜」にちなんでのだじゃれらしい(一貫していると言えばこうしただじゃれが頻出することもそうだ)。露悪的にも見える振る舞いに頑固な姿勢が貫かれている。頑固さも“乱暴さ”のひとつだろう。それが徹底されていて、美しく見えたのだ。

2011/02/20(日)(木村覚)

シー・シー・ポップ『TESTAMENT(遺言/誓約)』

会期:2011/02/19~2011/02/20

神奈川芸術劇場[神奈川県]

題材はシェイクスピアの『リア王』。ただし、戯曲をそのまま上演するのではなく、リハーサルの光景が再現されなどしながら「演劇をめぐる演劇」が舞台で展開される。しかもたんにメタ演劇というだけではない。本上演の肝は、三人の娘たちに領土を譲り渡す王の物語を演じるのが、戯曲の役柄と似た境遇にある本物の親子だということで、まず思ったのは、役者と役柄の反省的な関係が仕掛けとしてうまいな、ということだった。リタイア族の父親三人は舞台脇のソファーに鎮座し、ムービーカメラが彼らをとらえると肖像画のようなイメージを舞台奥に映す。その前で、若者たち(といっても外見からして30代)四人はスタンドマイク越しに父親への積年の不満を噴出させ、戯曲と絡めながら相続と介護をめぐる不安と恐れを代わる代わる口にしてゆく。元の戯曲にあるはずの劇的カタルシスは消失し、演劇(ドラマ)は生々しい現実の生活(リアル・ストーリー)へ引きずり込まれてゆく。ドイツの劇団シー・シー・ポップは、こうして今日の日本でも盛んに論じられている世代間格差の問題を照らし出す。ドイツも日本と同様に世代間の(とくに経済的)格差ははなはだしいようだ。ジェンダーに関する見識の違いにもしばしば話題がおよぶ。本物の親子はもちろん世代の異なる役者たちが舞台をつくるなんて、日本ではなかなか見られない光景である(チェルフィッチュの役者山縣太一が家族と組む山縣家は希有な例だろう)。さいたまゴールド・シアターとチェルフィッチュが共作するのを想像してみても異様だが、さらにその二組が肉親なのだ。相続と介護の現実に向き合う親子の思いはずれ、そのこっけいさは笑いを誘うが、状況はシビア。やがて父親たちは衣服を脱がされ(それにしても、なぜヨーロッパの舞台表現では「裸になること」がかくも重要な表現行為になっているのだろう)、老いたからだを観客にさらし、しまいには棺桶に入れられる。「きついな」と思わされるが、深刻な決裂へ至ることなく、最終的に親子は互いに許しの言葉を交わすことになる。この流れに寄与した最大の調停役は歌で、一緒に歌うことを通して親子はかりそめの和解に達する。そうして現実の生活はミュージカルの様相を呈し、舞台はハッピーエンドを迎えるのだが、それが可能なのは、裕福なヨーロッパの国の家族だからであろうし、なかでも中流以上の家庭の話だからだろう。この舞台が他の国の家族によって上演されたらこうはいかないはずだと思うと、それが可能なドイツという国がひとつのローカルとして浮かび上がってもくる。ちなみに本作は、世界の演劇シーンを紹介するイベント「世界の小劇場 Vol. 1 ドイツ編」の一本である。

2011/02/20(日)(木村覚)

マームとジプシー『コドモもももも、森んなか』

会期:2011/02/01~2011/02/07

STスポット[神奈川県]

アングルを変えながら同じ場面を執拗に繰り返す独特の方法は、すでに前作『ハロースクール、バイバイ』でもその機能や魅力を感じてはいたものであり、一年振りに同名作を再演した今作でもおおいに堪能できた。妊婦の女性以外は、十人ほどの小学生たちが織りなす心模様。母も父もいない三人姉妹を中心に一週間の出来事のいくつかが、何度も繰り返される。思わず漏れた一言で絶交状態になってしまう場面や、三女の幼稚園児がいなくなる直前の友達とプールの準備をしている場面など、どの瞬間にも、小さな後悔ややるせない思いが詰まっている。「リプレイ」と称したくなるほどそっくりそのまま繰り返す方法は、映像的だと言えなくもない。全員が猛烈に早口なのも、「早送り」のようではある。けれども、だからと言って、この舞台を映像化することは無意味ではないかとも思わされる。登場人物が目の前に実際に存在している演劇だからこそ、反復された場面に、観客は登場人物と一緒に経験した一回目を“思い出”として想起しながら見てしまう、そこがなにより重要だと思わされたからだ。この“思い出”は、ある場面を通して観客が自分の個人的な思い出を想起しているという意味ではないし、たんに隠喩として一回目を“思い出”と便宜的に呼んでいるということでもない。本当に“思い出”という他に形容のできない感覚を、場面の反復を通して、観客は手にしてしまう。演劇内でのみ成立している“思い出”が観客の内に育まれ、それは「懐かしさ」さえ抱かせる力を有している。観客はここで「登場人物たちの友達」に類する役割を担ってしまうのかもしれない。マームとジプシーは「人間の記憶の機能」を演劇化したという以上に「演劇内にしか成立しえない思い出」を発明した、そう言うほうがより正確だろう。それが可能なのは、先述したように、恐ろしいほどに正確な「リプレイ」の演技にほかならない。ほとんど「フォーム」と化している個々の演技の自然さは、各登場人物があたかも目前に実在しているかのような錯覚を与えることに成功している。とりわけすばらしかったのは三女「もも」の演技で、こんな(やはり身長などから大人の俳優であることは自明なのだから)幼稚園児がいないのは理性ではわかってはいるのだが、催眠術にかかったように上演中「もも」の実在を疑わなくなってしまうほどだった。

2011/02/07(月)(木村覚)