artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

NEO NEW WAVE part1

会期:2010/09/03~2010/09/26

Island[千葉県]

穴村崇、有賀慎吾、太田祐司、小左誠一郎、齋藤祐平、高田冬彦によるグループ展。昨今の活躍が目覚しい若手アーティストを集めた注目の展覧会だ。けれども、展示の実際は全体的に力不足で、どうにもこうにも消化不良の感が否めない。例えば有賀慎吾は大きな会場の空間を横切るように巨大なパッチワークのような作品を展示していたが、これまでの有賀の作品からすると、空間の容量に対して作品の密度があまりにも薄く、これまで凝縮していた力がどこかに拡散してしまっていたようだ。自分の顔をコンピューターで合成しながら奇妙なアニメーションをつくる穴村崇は、これまでの作品を確実に展開させた映像インスタレーションを発表していたが、テレビモニターの大きさや設置の仕方が単調で、せっかくの贅沢な空間を生かしてきれていなかったように思う。結果的に、フライングヒューマノイドを写真で撮影してしまったことで、スポーツ新聞や専門誌、テレビ番組で瞬間的に取り上げられる事態を招いた太田祐司が際立っていたが、このミラクルの大きさに作品が追いついていないところがもどかしい。平均点はクリアするが、決して飛びぬけるわけではないというところに、現在の若手アーティスト全体にとっての問題点が集約されている気がした。

2010/09/12(日)(福住廉)

白川昌生 展 まえばし妄想2010年

会期:2010/09/10~2010/09/16

ノイエス朝日[群馬県]

美術家・白川昌生の個展。白川が活動の拠点としている前橋の街をモチーフとした平面作品を発表した。大きな布に描かれたのは、白川の想像力によって彩られた前橋の都市風景。他の地方都市と同じように、前橋もまた、巨大なショッピングモールの出現によってシャッター通りと化した商店街、駅前の商業施設ですら撤退を余儀なくされる厳しい経済状況にさらされている。白川の妄想は、そうした過酷な現実に対する批判的な提案である。もちろん、それが前橋に詳しくない者には通じにくいという難点は否めない。けれども、白川自身が語っているように、あらゆるアート作品は、その初発においてローカルなものだったはずであり、それはセザンヌであろうと写楽であろうと変わりはない。作品の普遍性はあくまでも事後的に付け加えられるのであって、それは作品の本質というよりその制度的・言説的な一面にすぎない。白川の批判的な提案は、つねに私たちの視界の根底を深くえぐり出すが、ローカリズムこそアートの出発点だという知見は、新しい芸術の提案というより、むしろ原点回帰の提唱であり、地方のアーティストばかりか、東京のアーティストにとっても大きな刺激となるにちがいない。アートとは現実をちがった角度から見せる技術である。

2010/09/11(土)(福住廉)

群馬青年ビエンナーレ2010

会期:2010/07/31~2010/10/11

群馬県立近代美術館[群馬県]

今回で10回目の群馬青年ビエンナーレ。16歳から29歳までを対象とした公募展で、若いアーティストの登竜門として定着して久しい。今回は審査員を美術家の伊藤存、東京都写真美術館事業企画課長の笠原美智子、インディペンデント・キュレイターの加藤義夫、同じく窪田研二、美術家の鴻池朋子の5名が務め、792人(組)から応募された1119点の作品から52人(組)による53点の作品が入選して、展示された。実際に展観を見てすぐに気づくのは、突出した作品が皆無であること、そして小粒の作品が均等に選ばれているように見えるということだ。例えば絵画の場合、細かく描きこんだ細密画や筆跡を残した厚塗りの絵画、傷つきやすく繊細な内面を吐露したナイーブな絵画など、昨今の多様な絵画の動向を確実におさえた出品構成となっている。それが審査員の総意による結果なのか、あるいは応募作に見られる一般的な傾向なのかはわからない。けれども、見る側の立場からいえば、公募展といえども、現在の動向を反映したカタログ的な展覧会を見ることは端から期待していないし、どうせ見るのであれば、ほかでは見られない非凡な作品と出会いたいものだ。凡庸な公募展が必要でないとは思わないが、地方都市という条件を考えると、もう少し特徴を際立たせるための工夫を凝らすことがあってもいいように思う。(その是非はともかく)VOCA展のように審査基準をあえて極端に偏らせたり、山口県展のように審査そのものを公開したり、できることはまだあるはずだ。

2010/09/11(土)(福住廉)

Chim↑Pom個展 Imagine

会期:2010/08/07~2010/09/11

無人島プロダクション[東京都]

Chim↑Pomが返ってきた。先ごろの「六本木クロッシング2010」では、まるで飼い慣らされてしまった狼のように大人しく、見失った野性の回復が待望されていたが、今回の個展で名誉挽回、本領を発揮した。今回のテーマは現代アートにとっての根幹である視覚。眼の見えない視覚障害者とともにいくつかの作品を制作したが、Chim↑Pomのアプローチは一般社会が遵守しているよそよそしい礼節を一切踏むことなく、むしろ当事者の心中に土足で踏みあがり、平たくいえば「ふつうに仲良くなる」というものだ。眼の見えない者同士に「にらめっこ」をさせる映像作品や、映画館のチケット売り場で眼が見えないのに3D料金を請求される様子を収めた映像作品には、その奇怪な顔面造作やナンセンスなやりとりが見る者の笑いを自然と誘う。けれども、私たちは「見える」けれども、彼らには「見えない」という厳然たる事実に思いを馳せると、思わず笑いながらも、その笑いがどこかで暗い影をひきずっていることに気づかされる。形式的な交流によっては、その圧倒的な断絶を乗り越えることなど到底不可能であり、だからこそ土足のまま踏み入ることが必要だった。「見える」者と「見えない」者は、どうすればわかりあえるのか。その問いに対してChim↑Pomが出した簡潔明瞭な答えは、imagine、想像せよ。ただ、ここで重要なのは、だからといって想像力が無条件に肯定されているわけではないということだ。なぜなら、想像力こそ視覚に大きく依存した精神活動であり、そうである以上、「見える」者と「見えない」者の溝が完全に埋められるわけではないからだ。つまり、Chim↑Pomのいう「想像力」とは、双方を架橋するための決定的な解決策としてではなく、むしろ逆に、想像力をもってしてでも縫合することが難しい、その不可能性を思い知り、しかし、それでもなお、両者に通底する交通の次元を探り出そうとしてまさぐり続ける意思を表わしているのではないだろうか。土足で他人の家に入り込めば、間違いなく叱られるだろうが、叱られながらも当人と仲良くなる可能性がないわけではない。そこに、Chim↑Pomは賭けている。

2010/09/04(土)(福住廉)

奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編

会期:2010/08/22~2010/09/19

MISAKO & ROSEN[東京都]

美術家・奥村雄樹の個展。会場でプロの落語家による高座を開き、その様子を記録した映像と高座に使用した木製の高台、落語家の手をクローズアップで撮影した写真などを発表した。身体から離れた目玉の動きとその視界をモチーフにした噺を選んでいたように、落語の基本的な魅力である、現実的にはありえないけれども、落語においては可能になる独特の空想物語をテーマにしていたようだ。最低限のモノしか見せないミニマルな展示風景は、現場で催された高座を聞かなかった多くの来場者にとっては、たしかに「祭りの後」のような侘しさを禁じえない。けれども、むしろ気になったのは、奥村の関心があくまでも手と眼に集中しているように見えたことだ。私たちの眼には見えない目玉を落語家が手中に収めているところを写し出した写真は、まさしくその例証である。しかし、すぐれた落語とは視覚や触覚のみならず、文字どおり全感覚的な体験に私たちを誘うものである。眼は見てはいないけれども、私たちはその世界を見ているのであり、感じているのであり、つまりはそこに「いる」のだ。このような落語ならではの芸術的な特性を省みると、奥村の作品はその旨味を凝縮するというより、むしろ削ぎ落としてしまっているように思えた。「目玉の親父」がひとつの人格をもった身体として考えられているように、眼ひとつとってみても、そこには全身的な感覚が宿っているのである。

2010/09/03(金)(福住廉)