artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

日展

会期:2010/10/29~2010/12/05

国立新美術館[東京都]

毎年恒例の日展。今回新たに2点の発見があった。ひとつは、彫刻の会場の並々ならぬ迫力。数百点を超える彫像が広大な会場に立ち並ぶ光景は、圧巻だ。これはそんじょそこらの展覧会では到底なしえない、まさしく日展という日本随一の団体展ならではの展観である。もうひとつは、絵のサイズについて。前々から指摘されているにせよ、油絵と日本画はそれぞれ無闇にサイズが大きい反面、書はあまりにも小さすぎる。一般的にはほとんど解読できない象形文字のような文字を小さく書かれても、視覚的な好奇心を刺激されることはほとんどなく、素通りしてしまいがちだ。書の専門家にとっては定型的な漢字なのかもしれないが、そうでない者にとって書はいまや抽象画に近い。文字の意味内容より、形式が眼に飛び込んでくるからだ。であれば、そのフォルムの力強さ、迫力、圧倒的な存在感こそ、見る者に訴えかけるべきであり、だからこそ書は巨大なサイズで描かれるべきなのだ。

2010/11/12(金)(福住廉)

山口晃 展 いのち丸

会期:2010/10/27~2010/11/27

ミヅマアートギャラリー[東京都]

もうそろそろ山口晃にマンガを描かせてあげたらどうだろうか? 余計なお世話を承知で言えば、思わずそんな独り言をつぶやきたくなるような展観だ。本展では「いのち丸」というキャラクターにもとづいた絵画や映像などが発表されたが、そのように考えたのは、具象的な絵はもちろんのこと、その形式にもマンガへの強い執着心を感じざるをえなかったからだ。冒頭に展示された絵画作品は、その下の壁に墨を垂らしかけたことによって、引き裂いた顔面を描いた絵のなかの流血が絵をはみ出して滴り落ちるように見せていたが、これはいうまでもなくかつて井上雄彦が「最後のマンガ」展で試みた手法である。井上の場合はマンガに依拠しながらもマンガという小さな枠をなんとかして打ち破ろうとする貪欲な意思を感じさせていたが、山口の場合はむしろ美術という高尚な枠からなかなか抜け出せないもどかしさの現われのように見えた。それが証拠に、絵の中身を取り外して木枠だけを展示した作品や、真っ黒に塗りつぶしただけの絵は、「欠如」や「不在」、「痕跡」などのネガティヴな要素によって表現する現代美術特有の禁欲的な(お)作法をあえて踏襲してみせるアイロニカルな構えのようにしか見えなかった。かつて社会を風刺した山口のシニカルな視線は、いまや現代美術という狭い世界で生きる自らに向けられているかのようだ。であればいっそのこと、全力を尽くしてストーリーマンガを描いてもらいたい。へんにアートを意識するのではなく、絵画をコマとして構成し、テキストを遠慮なく盛り込むことに挑戦することが、山口晃にとっての今後の課題となるのではないか。それで大成功を収めるのか、大失敗に終わるのか、それを見極めるのが、ファンの務めだろう。

2010/11/12(金)(福住廉)

岩崎貴宏「Phenotypic Remodeling(フェノタイピック・リモデリング)」

会期:2010/10/22~2010/12/04

ARATANIURANO[東京都]

「六本木クロッシング2007」(森美術館)や「日常の喜び」(水戸芸術館)に参加した岩崎貴宏の個展。会場の床に紙袋や洋服などの日用品を配置したインスタレーションなどを発表した。一つひとつの日用品は部分的に解きほぐされ、その部分の繊維や素材をもとに鉄塔やクレーンなどの造形を細かく編み上げ、屹立させるところが見所だ。一見すると、工芸的な手わざを披露する類の作品に見られがちだが、それは現実的な文脈とはっきりと結ばれた、じつに社会的な作品である。日用品を再構成して形成したランドスケープは、現実の都市風景のミニチュアであると同時に、それがさまざまな商品記号の集積によって成り立っていることを示しているからだ。垂直方向に立ち上がる造形は、おそらく水平方向に無限に広がる記号経済の荒波の中から這い上がるための梯子なのかもしれない。

2010/11/11(木)(福住廉)

田中真吾 展─踪跡─

会期:2010/11/01~2010/11/24

INAXギャラリー2[東京都]

大量のDMやプレスリリースを一枚一枚シュレッダーにかけるのが面倒なので、いっそ火をつけて一気に燃やしてしまいたいという欲望にかられることがよくある。逆にいえば、そういう欲望が抑圧されるほど、現状の都市生活では火の使用が禁じられているわけだ。田中真吾の作品を見ていると、燃焼のカタルシスとともに火を使いこなしてきた人類の知恵を思い出す。それは、幾重にも重ねた画用紙を平面ないしは正立方体やピラミッド状に整え、燃焼によってめくれ上がった焦げ目の造形を見せる作品だ。黒松の樹皮のような凹凸のあるマチエールと白い紙の対比がひときわ美しいが、硬質の印象とは裏腹に、じっさいは少し触れただけで崩れ落ちてしまうほど脆い。その微妙な均衡関係が、火が内側に抱える破壊的な性格と通底していることは明らかだ。火はすべてを焼き尽くすことができるが、その寸前で踏みとどまることで人類の歴史は築かれてきた。だとすれば、火から遠ざけられている現代人は、もしかしたらもはや「人間」ではないのかもしれない。

2010/11/11(木)(福住廉)

ANPO

会期:2010/09/18

アップリンク[東京都]

期待が高かっただけに、肩透かしを食らった。リンダ・ホーグランド監督による本作は、60年安保をテーマとしたドキュメンタリー映画。当時を知るアーティストなどへのインタビューと関連する美術作品を織り交ぜた構成は、全体的に単調で、同じ地点でぐるぐると何度も自転しているような印象を覚えてしまう。おそらく、それは対話の水準が肉体から離れていることに由来しているのではないだろうか。回顧的な言葉にしろ、心情的な言葉にしろ、いずれにせよそこで交わされる言葉には肉体の次元が大きく欠落しているため、正直にいえば、どこか空々しい。とはいえ、それが安保を知る世代にとってはある種のノスタルジーを、知らない世代にとってはある種の啓蒙の機会を、それぞれ与えることは想像に難くない。けれども、ほんとうに重要なのは、安保の問題がかたちを変えながら今現在まで継続していること、私たちの暮らしの根底を規定するアクチュアルな政治的課題であること、だからこそノスタルジーや啓蒙が不必要であるわけではないにせよ、その段階で満足しているようではまったく問題にならないことである。必要なのは、肉体で安保を受け止めることができる映像だ。たとえば沖縄在住の彫刻家・金城実と読谷村村議の知花昌一らによる反米軍基地闘争を追った西山正啓監督のドキュメンタリー映画「チビチリガマから日本国を問う!」は、被写体の肉体が安保と格闘しているばかりか、それらを伝える映像が鑑賞者の肉体に安保を強く働きかけてくる。これと比較すると、本作には映像の面でも言葉の面でも肉体を撃つほどの強さは感じられなかったといわざるをえない。

2010/11/05(金)(福住廉)