artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
ヘブンズ・ストーリー
会期:2010/10/02~2010/11/05
ユーロスペース[東京都]
映画で重要なのは、そのはじまりと終わりにあると思う。双方がよければ、あいだが多少拙くても、なんとか容認できる。けれども、逆の場合はやっかいだ。せっかく美味い料理を味わったのに、感じの悪い給仕に台無しにされてしまうようなものだ。瀬々敬久監督による本作は4時間半を超える渾身の作品。家族を殺された遺族による犯人への復讐をめぐって綴られる叙事詩のような物語は、全9章からなる長大な構成にもかかわらず、緊張感を失わない映像美も手伝って、いっときも眼を離すことができない。映画とはかくあるべしと想いを新たにするほど、見応えがあるといってもいい。ただし、正直にいって、主人公の少女が犯人に殺害された家族の霊と対面する終盤のシーンには、たいへん興醒めさせられた。休閑期のゲレンデのような山の斜面で遊ぶ子どもたちを映した冒頭の美しいシーンと対応していることはよくわかるのだが、それまで現実的な水準で物語を冷徹に描いていたのに、最後の最後で陳腐な夢物語に回収してしまったからだ。予兆がないわけではなかった。数回にわたって被弾しているのに、なかなかくたばらない銃撃シーンはあまりにも通俗的だし、その銃撃戦で死ぬ間際に男が青空にそびえ立つ鉄塔を見上げるシーンも、霧の中を突き進むバスの中で死者と出会うシーンも、等しく凡庸である。どこでも見たことがなかった映像が、急にどこかで見たような映像に切り替わってしまったわけだ。この落差と落胆は大きい。物語にたびたび頻出する団地を見ていると、「ここはいったいどこなのか?」と思わずにはいられないが、だからこそ団地という記号は、どこでもないがゆえにどこでもありうる物語の汎用性を映画の裏側から保証していた。けれども、どこかで見たような映像はそうした物語の拡がりを逆に狭めてしまう。肝心の味がよいだけに、後味の悪さが際立ってしまって、なんとももったいない。
2010/11/05(金)(福住廉)
クロッシング
会期:2010/10/30
新宿武蔵野館[東京都]
「メリケンに生まれなくて、ほんとうによかった……!」と心の底から思うことが、アメリカの映画を見ているとよくある。貧困のスパイラルから抜け出そうにも抜け出せず、麻薬とギャンブル、酒、売春、ギャング、不味そうな飯、何よりも銃弾による暴力の応酬。アントワン・フークア監督によるこの映画も、アメリカのどん底を舞台にしながら、それぞれのやり方でなんとかして人生を取り戻そうとしてもがき苦しむ三者三様の人間模様を描いた傑作だ。リチャード・ギアとイーサン・ホーク、ドン・チードルが演じる3人の警官が歪なかたちで交差するクライム・サスペンスの体裁をとりながらも、物語の背後で一貫しているのは幸福を追究する人間の欲望のありよう。定年を機に人生の針路を切り換えるため、愛する家族を守るため、裏切者を許さないため。それぞれの欲望にはそれぞれの正義があり、その先に幸福が待ち受けているはずだったが、その傍らには死と諦念が暗い口を開けて待っている。その穴に落ちないように、それでもなお危うく脆い路を歩んでいくことが人生であることを、この映画は教えている。くたびれた警官にしか見えないリチャード・ギアと、憎たらしい女ボスになりきったエレン・バーキンの演技もすばらしい。
2010/11/01(月)(福住廉)
天狗推参!
会期:2010/09/25~2010/10/31
神奈川県立歴史博物館[神奈川県]
「天狗」のイメージを歴史的に振り返る企画展。国宝や重要文化財を含む約200点の文化財を5つの章に分けて展示した。絵巻や舞楽面、浮世絵、絵馬、活字本などに表わされた天狗のイメージの変遷を時系列に沿って見ていくと、半人半鳥の烏天狗から赤ら顔の鼻高天狗へという形象上の変化はもちろん、天狗の意味するものが推移していく様子もわかって、じつにおもしろい。それは、修行を邪魔する仏敵として現われ、魔界転生をはたして現世利益をもたらす信仰の対象となり、その後神事や芸能の現場に登場し、さらには崇高でありながら滑稽でもあるという二重性を帯びながら民衆に愛されるキャラクターとなった。居酒屋チェーン店の宣伝として活用されているように、かつて森の大空を闊歩していた天狗は、いまや完全に地上に引きずり降ろされてしまったわけだ。ただ、天狗だけでなく、河童や鬼など他の想像上の異人たちも同じような路を歩んでいることを思えば、本展が暗示していたのは、輸入した外来文化を内側で熟成させながら神々しい記号を民衆の底辺へと徐々に降ろしてゆく、日本文化の構造的な働きだといえる。いま美しく崇高であっても、いずれ世俗化され、笑いの対象とならざるをえない。豊かな想像力によって空想の世界を創り出す現代アートにしても、その構造からやすやすと抜け出すことはできないだろう。ただ、逆に民衆に愛されてやまない滑稽なアートが、やがて崇高な美しさに高まってゆくことがないともかぎらない。そこに、アートの例外的な価値がひそんでいるのかもしれない。
2010/10/26(火)(福住廉)
石子順造と丸石神
会期:2010/10/16~2010/10/30
丸石神とは球体状の天然石に神が宿ると考える民間信仰。山梨県を中心とした地域に根づいており、美術評論家の故・石子順造が晩年にフィールドワークを行なったことで知られている。多摩美術大学芸術人類学研究所が企画した本展は、石子順造を理論的な糸口にしながら、遠山孝之による写真と小池一誠による石の作品を展示したもの。長い年月をかけて風雨や流水によって丸く削り取られた石を見ていくと、たしかに自然と芸術の境界が怪しく思えてくるし、真円とは程遠い歪な球体の造形に石子が近代の限界を乗り越える可能性を見出していたことにも頷ける。しかし、石子によって近代批判のための突破口として意味づけられた丸石神を、展覧会という近代的な文化装置のなかで見る経験には、やはり少なからず違和感を覚えざるをえない。写真であろうとオブジェであろうと、土地から切り離されたうえ、展示会場に移動させられた丸石神の数々は、展覧会という「見る制度」によって、造形的な美しさを際立たせる物体として否応なく見せられているからだ。けれども、丸石神には、造形的な側面と同時に、民俗学的・宗教的な側面があり、そこに民衆による声なき声が仮託されていることはいうまでもない。はたして、その多面性をとらえることができる文化装置はありうるのか。石子が近代的な表現概念の呪縛を問題視しながらも、ついに解放することができなかったという限界を思えば、わざわざ同じ轍を踏むことはあるまい。たんに石子の業績を再評価するだけでなく、石子がなしえなかった不可能性を受け止めながら、別のアプローチを切り開くことこそ、危急の課題である。
2010/10/22(金)(福住廉)
kao個展「from the Labyrinth」
会期:2010/10/09~2010/11/03
湘南くじら館「スペースkujira」[神奈川県]
驚異のアーティストだ。枯木や枯葉を組み合わせた小さな人形をはじめ、少女などを鉛筆で緻密に描き込んだ具象画、そして陶器でつくり上げた怪物の数々。RPGのような幻想的な世界観にもとづいているらしいが、その世界に疎い者を辟易させないのは、おそらく一つひとつの造形をひじょうに細やかに仕上げているからだろう。か細い木々や葉脈をつなぎ合わせる繊細さと、陶器による物体の圧倒的なボリューム。超絶技巧とスケール感を同時に味わえるのが、この上なくおもしろい。しかも、それらの造形物を台座や額縁に納めるだけでなく、小石を敷き詰めた床一面に立ち並ばせ、パノラマティックな光景を演出しているところに、せせこましい「アート」には到底望めない野望が垣間見えた。それは、世界を自分の手で創り出すという、無謀な、しかしだからこそ魅力的な野心だ。
2010/10/18(月)(福住廉)