artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

マチェーテ

会期:2010/11/06

バルト9[東京都]

B級映画の醍醐味は、A級映画の後塵を拝しながらも、時としてその地位を換骨奪胎する怪しい魅力が溢れているところにある。チョイ役として顔は知られている反面、名前までは十分に浸透していなかったダニー・トレホを主人公にした本作は、まさしくB級映画の正統派。「これぞB級映画!」と拍手喝采を送りたくなるほど、すばらしい。なるほど、大きな鉈(マチェーテ)を振り回して、敵の身体を次々と切り刻む主人公マチェーテは、恐ろしいほど強い。けれども、マチェーテはスーパーマンやバットマンのようにスマートではないし、格好良くもない。ヒーローにしてはガタイがでかすぎるし、その顔といったらまるで厚揚げのように肉厚で、おまけにつねに仏頂面だからだ。とはいえ、映画を見ているうちに、この武骨なおっさんがこの上なく格好良く見えてくるから不思議だ。ブッシュマンを連想させる小笑いや、大衆に迎合したエロティシズム、メキシコからの不法移民をめぐる政治的問題などが、マチェーテの男気を効果的に際立てている。そして、なによりマチェーテの魅力を引き出しているのが、脇を固めている豪華な役者陣だ。ロバート・デ・ニーロ、スティーヴン・セガール、リンジー・ローハン、そしてドン・ジョンソン。とりわけ、ドン・ジョンソンは『マイアミ・バイス』の面影はどこへやら、徹底的に悪人を演じきっていて見事だったし、リンジー・ローハンも破廉恥で蓮っ葉な小娘を楽しんでいた。唯一、ダメだったのが、麻薬王を演じたセガール。残忍極まる冒頭のシーンでいつもとは別の顔を見せて期待を高めたにもかかわらず、終盤のマチェーテとの決闘シーンではどういうわけか途中でみずから切腹するという不可解な死に方で終わっていた。武士ではあるまいし、麻薬王が潔く腹を切るなんてあるものか。このシーンだけ主人公がセガールに代わってしまったと錯覚するほど、不自然な演出である。これを突っ込みどころ満載のB級映画ならではの魅力ととらえるのか、あるいは主役の座を死守したいセガールの陰謀ととらえるのか。いずれにせよ、同じ主役級でも、国境線に張り巡らされた有刺鉄線に絡めとられたまま銃弾を浴びて情けなく息途絶えたデ・ニーロは、やはりすばらしい。

2010/12/01(水)(福住廉)

日比野克彦 個展「ひとはなぜ絵を描くのか」

会期:2010/10/30~2010/12/13

3331 Arts Chiyoda[東京都]

日比野克彦こそ、じつは純粋芸術を限界芸術の地平に解き放とうとしているのではないか。東京では約8年ぶりという本展を見て、真っ先に思い至ったのはこの点である。というのも、80年代のデビュー当時のダンボール絵画から近年盛んに取り組んでいる世界の辺境で描くスケッチの数々までを見てみると、そこにあるのは専門的で高度な技術というより、非専門的で日常的な手わざだからだ。日比野が用いているクレヨンやパステル、水彩絵具、ダンボール、刺繍の糸などは、文字どおり誰もが子どもの頃に親しんだことのある画材であり、ダンボールを組み合わせて厚みをもたせたマチエールは、絵画というより、むしろ工作といった方がふさわしい。たしかに、イラストレーションにおける「ヘタウマ」に相当するような稚拙さが、日比野を絵画の歴史に位置づけることを困難にしてきたことは否定できない。けれども、従来の「現代美術」に代わって「現代アート」という言葉とともに台頭した80年代のニューウェイブが、それまで積み上げられてきた戦後美術の歴史を切断したパラダイム・チェンジだったとすれば、その嚆矢とされる日比野は限界芸術によって純粋芸術の歴史を切り離したと考えることができないだろうか。言い換えれば、限界芸術によって純粋芸術を内側から撹乱することで、それまで離れていた双方の境界線を接近させ、溶け合わそうとしたのではないだろうか。現在のアートシーンで活躍するアーティストたちによる作品に、非専門性、作者と鑑賞者の交換可能性、純粋芸術にも大衆芸術にもなりうる両生類的な原始性といった限界芸術の要素が顕著に見出せるとすれば、それはもしかしたら日比野克彦が切り開いた系譜に由来しているのかもしれない。

2010/11/29(月)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00010976.json s 1227620

泉太郎 展 こねる

会期:2010/11/02~2010/11/27

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

泉太郎がまたやった。というのも、一昨年の「日常/場違い」(神奈川県民ホールギャラリー)に続き、「クジラのはらわた袋に隠れろ、ネズミ」(アサヒアートスクエア)、「捜査とあいびき」(ヒロミヨシイ)、「入り口はこちら──何が見える?」(東京都現代美術館)と国内で立て続けに発表した勢いも冷めやらぬうちに、また大規模な個展を成功させたからだ。映像を発表する現場で撮影した映像をその場で見せるという芸風はそのままに、この会場の巨大な、しかしあくの強い空間に気圧されることなく、存分に使い切った展示がすばらしい。例えば「ECHOES」(ZAIM)や「日常/場違い」のように、かねてから泉の本領は隙間やデッドスペースを映像インスタレーションによって鮮やかに生き返らせる術にあると思っていたが、近年の泉は与えられた広大な空間を使い倒す才覚も身につけたようだ。神奈川県民ホールギャラリーの、あの無駄に長大な空間を小屋を回転させる道のりとして活用するところなどは、思わず息を呑むほどだ。このセンスは泉独自の視点や空間構成力にもよるのだろうが、その一方で彼がつねに泉太郎という身体によって映像と現場を直結させていることにも由来している。人の身体が生きる空間でないかぎり、その空間が生き生きとするはずもない。この当たり前の事実を忘れているのが、フォトジェニックなだけの彫刻作品で広大な空間を埋めようとして無残に敗北しがちな昨今の現代アーティストである。泉の強さは、美術館の権威的で非人間的な空間であっても、まるでオセロの白と黒を反転させるかのように、いとも簡単にその空間を甦らせるところにある。死んだ美術館を蘇生させるには、泉太郎を呼んで遊ばせるのがいちばんよい。

2010/11/26(金)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00011392.json s 1227619

大﨑のぶゆき「falls」

会期:2010/11/06~2010/11/26

YUKA contemporary[東京都]

水溶性のメディウムで描いたイメージをあえて水で流し溶かし、その形象をゆっくり崩していく様子を映像として見せる作品。色鮮やかな山水画が崩落するアニメーションだが、水流にあわせて落下する人型のアイコンが崩壊のカタルシスを強調していて、おもしろい。確固としていたはずの基盤や土台が脆くも崩れつつある、現在の不安定な社会制度を重ねて見ることもできるだろう。ただし、この作品の醍醐味は「崩落」や「落下」にあるというより、むしろ「変形」にあるのではないか。少女のイメージを扱った別の作品では、垂直方向から撮影しているからなのか、有形物が重力に従って無形物となって崩れ落ちていく経緯ではなく、ゆったりとした速度で別の形象へと変化していく過程を見せているからだ。崩壊の快楽はもちろんある。けれども、それだけではない。大﨑が視覚化しているメタモルフォーズの観察は、変化の先に待ち受けている未知の可能性を暗示しているのであり、それは必ずしもネガティブなものではないのである。

2010/11/24(水)(福住廉)

救いのほとけ──観音と地蔵の美術──

会期:2010/10/09~2010/11/23

町田市立国際版画美術館[東京都]

かの瀬戸内国際芸術が「島巡礼」という言葉で表象されがちだったように、昨今の現代アートをめぐる状況は、宗教的なメタファーによって要約できることが多い。聖地を巡礼することによって贖罪なり祈願を神のもとに届けようとすること。そこに現実逃避の側面がないわけではないが、だからといって仏像への広い関心がすべて非現実的な狂騒にすぎないわけでもないだろう。私たちはいま、神や仏といった超越的な存在に救済の願いを仮託せざるをえないほど、生きることに疲弊している。ただし、そうした消耗する生き方というものは、必ずしも現代的な病理の症候ではなく、かつてもいまも、私たちはそのようにして神や仏に依存しながら生きてきたのだ。「ほとけ」をめぐる平面や彫像を展示した本展は、自立した近代的個人という幻想が打ち砕かれてしまったいま、そのような共依存の関係がそれほど悪いものではないということを、静かに語りかけていた。

2010/11/23(火)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00010593.json s 1227665