artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
足立喜一朗 SOAP/SOAP
会期:2010/08/28~2010/09/26
NADiff a/p/a/r/t[東京都]
東京都現代美術館の「Space for future」展(2007-2008)にディスコを模した電話ボックスの作品を発表して注目された、足立喜一朗の新作展。ナディッフの地下空間と一階でそれぞれミラーボールをモチーフとした作品を展示した。地下には、鏡の破片を貼りつけた4つの球体をゆっくり回転させ、部分的にLEDライトを当てることで空間の壁面に無数の光を乱反射させた。立ち込めたスモークが光線を効果的に引き立てている。一方、地上では大きなガラスを支える枠組みに沿った形で十字架のようなオブジェを設置した。よく見ると、これも同じく表面を鏡の断片で覆われた棒状のもので、同じようにゆっくりと回転している。日中ではそれほどでもないが、外が夕闇になるにつれて、光の反射が強まると、ある種の神々しささえ感じさせる作品だ。表面の仕上がりや造形的な完成度から察すると、普遍的で崇高な美を追究するオーソドックスな作品のように見えるが、しかし足立の鋭い視線はそうした凡庸な美術の物語の先にまで到達している。回転する速度の歪さやモーターの騒々しい機械音は、作品の形式的な美しさを自ら相対化する仕掛けであり、そのことによって美の永遠性を信奉してやまない物語のフェイクを演じているわけだ。こうした二重の構えは、モダニズムという支配的な物語が実質的には失効しつつも、しかし制度的にはいまだに残存している現在の状況のなかでこそ、最も有効である。
2010/09/03(金)(福住廉)
タブロオ・マシン[図画機械] 中村宏の絵画と模型
会期:2010/07/25~2010/09/05
練馬区立美術館[東京都]
画家・中村宏の個展。練馬区立美術館が所蔵する作品を中心に150点あまりが展示された。50年代のルポルタージュ絵画から60年代のモンタージュ絵画、70年代の空気遠近法、タブロオ・マシン、90年代以後の立入禁止など、これまでの中村の画業の変遷を時系列に沿って振り返る構成は、2007年に東京都現代美術館で開催された「中村宏──図画事件 1953-2007」に近いが、それに加えて中村によるグラフィックの仕事を丁寧に紹介するとともに、「模型」と呼ぶ小さな立体作品をまとめて発表したところに、本展の特徴がある。「タブロオ・マシン」という言い方に暗示されているように、中村の絵画にはつねに速度が伴っているが、それはたんにアニメーションのような連続的な運動を錯視させる「動く絵画」というより、むしろここからあそこへ移動することを阻まれながらも、なおも動き続けようとする意志のようなものだ。中村の代名詞ともいえる黄色と黒の縞模様で構成された立入禁止のシリーズでは直接的に運動が止められるし、鉄道ダイヤグラムの作品にしても、線を眼で追う運動性はたしかに感じられるが、画面の中央には線そのものをかき消したかのような痕跡が残されているため、その運動のリズムはどうしても途中で阻まれることを余儀なくされている。9枚の絵で構成された《タブロオ機械1-3》(1986-87)は、同じ大きさの支持体を並べているため、あたかもマンガのコマ割りのように見えるし、実際そのように読んでしまいがちだが、描かれた絵の内容は決してマンガのような連続性によって貫かれているわけではなく、むしろその自動的な運動を錯乱させているかのようだ。速度と反速度を同時に絵画の枠組みの中に位置づけようとするばかりか、絵画と反絵画を同時に画面に定着させようとするのが中村宏の目論見だとすれば、それははたして「絵画」なのか「図画」なのか、あるいは「事件」なのか。
2010/09/02(木)(福住廉)
佐々木綾子 展
会期:2010/08/30~2010/09/04
GALERIE SOL[東京都]
スーパーマーケットや職員室など、おびただしいモノであふれる空間を緻密な線で描いた絵。球体がほとんど見られない反面、牛乳パックやファイルケースなど、直角的な物体が大きく前面化しているから、モノとモノが密集した空間を効果的に描いている。にもかかわらず、それほど圧迫感を感じさせないのは、ところどころで空間をあえて歪ませているからだろう。奇妙に歪んだ空間にあふれたモノは、どこかで重力から離れていくような浮遊感すら感じさせる。何かのきっかけでバラバラに解体してしまいそうな脆さを内側に抱えているという点に、偏執的な求心力によって画面を統合する細密画とは異なる、佐々木綾子の特質があるように思う。
2010/09/01(水)(福住廉)
瞳の奥の秘密
会期:2010/08/14
TOHOシネマズシャンテほか[東京都]
ファン・ホゼ・カンパネッラ監督によるサスペンス映画。25年前に未解決のままにされた殺人事件を再捜査する物語が、罪と罰、過去の恋愛や友愛などのテーマを織り交ぜながら展開していく。この物語の根底にあるのは、おそらく時間と記憶と忘却だろう。友人を犠牲にしたばかりか真実を追究することもできなかった悔恨、犯人に傷つけられた心の治癒、かつて好意を寄せた女性への断ち切れぬ想い、そして真犯人を裁く正義と復讐。辛く悲しい記憶は一刻も早く忘れるに限るという言い方があるように、時間の流れのなかで、えてしてそうした心の襞はしだいに滑らかに変化していくものだ。けれども、忘れようにも忘れられず、心の根の部分でどうしても凹凸を平らにしがたいこともある。それは決してスマートな姿ではないのかもしれないが、その「変わることができないもの」に拘泥することにこそ、人間ならではの精神的な営みが現れることを、この映画は見事に描ききっている。
2010/09/01(水)(福住廉)
田中一村 新たなる全貌
会期:2010/08/21~2010/09/26
千葉市美術館[千葉県]
「孤高の画家」として知られる田中一村の本格的な回顧展。近年新たに発見された作品や資料を含む、250点あまりの作品が一挙に展示された。大量の作品をリズムよく見せる展示構成と、堅実な研究調査によって、じつにみごとな企画展となっていた。一村といえば奄美の自然を描いた絵が代名詞になっているが、生誕の地である栃木、絵を学んだ東京と千葉、そして画業を集大成する地として移り住んだ奄美と、一村が生きた時代に沿った展観を見ていくと、一村の絵が幾度も技法的な転換を遂げていることがわかる。当初の南画から写生への転向、勢いのある筆使いと繊細で緻密な描写、写真から描きおこした肖像画や奄美の自然をとらえたモノクロ写真など、一村の創作活動のふり幅はかなり大きい。ただ、そのなかでも終始一村をとらえて離さなかったものがある。それは、陰への意識だ。中央画壇と決別するきっかけとなったといわれる《秋晴》(1948)や、同じように夕暮れの農村を描いた《黄昏》はともに木々や家屋を逆光のなかでとらえているし、奄美時代の作品にしても、印象深いのは色鮮やかな魚の絵より、むしろ墨で塗りつぶしたパパイヤやソテツの絵だ。このとりつかれたように墨に執着する一村の構えは、おそらく南画時代の粘着的な描線に由来しているとも考えられるが、一村はただたんに墨を好んで用いていたわけではないだろう。墨の暗さがあるからこそ、熱帯の花々の艶かしさや干した大根の乾いた白さが際立っているように、一村は陰と陽を同時にとらえようとしていた。そして、それを多くの画家のように中立的な立場から描くのではなく、あくまでも陰の立場に重心を置いていたところに、一村ならではの特徴がある。陰への強い意識は、光に対して正面から向き合い、それをどうにかして画面に定着させようとする構えの現われにほかならない。
2010/08/31(火)(福住廉)