artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

黙示録──デューラー/ルドン

会期:2010/10/23~2010/12/05

東京藝術大学大学美術館[東京都]

ヨハネがキリストから啓示されたという新約聖書の最後を飾る預言書、「黙示録」。本展は、アルブレヒト・デューラーによる木版画集《黙示録》を中心に、デューラー以前に木版挿絵として描かれた黙示録や、デューラーの影響を大きく受けたというルドンによる《ヨハネ黙示録》など、100点あまりを一挙に公開するもの。展示の構成を、デューラー以前とデューラー以後を明確に区切っているため、デューラーの《黙示録》の迫力がよりいっそう際立っている。他と比べて圧倒的に大きな版型、緻密でありながら力強い描線、そして躍動感と物語性の高い人物描写。デューラーの前後が丸ペンで描いた少年マンガだとすれば、デューラーの黙示録は劇画調の青年マンガであるといってもいい。なかでもとりわけ突出しているのが、人物の顔を一人ひとりじつに豊かに描き分けている点だ。奇怪な造作はまるで曽我蕭白によるそれのようでもあり、時代こそ異なるにせよ、両者の奇特な視線はどこかで通底しているような気がしてならない。

2010/11/18(木)(福住廉)

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シングルマン

会期:2010/10/02

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

グッチのデザイナーを長らく務めたトム・フォードによる初監督作品。60年代のロサンゼルスを舞台に、建築家の恋人を不慮の事故で失ったゲイの大学教授が自殺を決意した一日を抒情詩のように描き出す。心に深い傷を負った者が自死を選ぶまでの逡巡と、死に際まで決して手放すことができない美意識、不意に訪れる新たな生きる希望。それらを淡々と描きながらも、鑑賞者を最後まで惹きつけてやまないのは、服飾はもちろん、建築や車、動植物、そしてそれらを包み込む空気感やそれらを照らし出す光など、画面の隅々にまで審美眼を行き届かせた映像がじつに美しいからだろう。とりわけ、海中に沈む裸体をとらえた冒頭の映像は印象深い。物語を2時間を切る尺に収めた編集も鮮やかだ。愛した男の存在を忘れかけるほどの新たな出会いに恵まれつつも、その幸福を手に入れる寸前に愛した男の情念によって連れ去られてしまう結末は、これ以上ないほど「文学的」である。

2010/11/17(水)(福住廉)

三瀬夏之介 個展 だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる

会期:2010/11/01~2010/11/30

第一生命ギャラリー[東京都]

アーティストにとっての成功とはなにか。勢いのあるコマーシャル・ギャラリーに所属することなのか、信用できるコレクターに作品が買われることなのか。もちろん、アーティストにとってそれらが重要な目標であることにちがいはない。けれども、それらの前提条件として展覧会で作品を発表することが不可欠である以上、個々の会場にふさわしい作品をたえず制作していくことができるかどうかに、成功の条件はかかっている。より具体的に言い換えれば、画廊より大きな美術館で発表する必要に迫られたとき、その空間に適した作品を用意できるのかが問われるわけだ。この壁にぶち当たり、それまでの勢いを失墜させてしまう新進気鋭のアーティストは、思いのほか多い。けれども、この壁をひらりと乗り越えてみせるのが、三瀬夏之介だ。本展で発表された屏風絵の大作は、この会場の広大な壁面に負けないほどのスケールを誇り、しかも床から離して展示しているため、まるで鑑賞者に覆いかぶさるほどの迫力を生み出している。絵の形式だけではない。その内容も、これまで三瀬がたびたび描き出してきた大魔神や、飛行機、UFOといったモチーフが総動員されたもので、画面の随所で生じている同時多発的な爆発によって、それらのモチーフはおろか、みずからの絵や鑑賞者もろとも、すべてを吹き飛ばすかのような外向性がみなぎっている。それは、ほぼ同時期に開催されたイムラアートギャラリー東京での個展「ぼくの神さま」で発表された作品が、絵という形式のなかで完結しており、いってみれば起承転結が明快な文章のような絵だったのとはじつに対照的だ。本展の屏風絵は、むしろ絵という形式にすら定着できない衝動の現われであり、自分でも容易には把握しがたい不安と苛立ちと祈りをすべて丸ごとぶちまけることができたところに、三瀬夏之介にとっての大きな達成がある。それは、たしかに私たちにも届いている。

2010/11/17(水)(福住廉)

髙瀬省三・石橋聖肖展

会期:2010/11/09~2010/12/23

平塚市美術館[神奈川県]

湘南ゆかりの作家を取り上げた二人展。流木から人体や顔など空想的な造形を彫り出す髙瀬と、彫金によって幻想的なオブジェを作る石橋の作品がそれぞれ展示された。両者による作品は、技法は異なるものの、静謐な空気感を醸し出す点では共通しており、それらが会場全体を静かに包み込んでいた。自然の造形を生かしたまま人為的な造形を目指す髙瀬の作品は、いずれも彫刻家にありがちな自然をねじ伏せるという男性的な構えではなく、むしろ自然に寄り添うようなたおやかな姿勢が一貫しており、その無理のない自然な態度が今日的な感性と共鳴しているような気がした。ただし、一部の作品をガラスケースに入れて展示していたのは、作品保護の観点からなのだろうが、不自然極まりなく、作品の主旨を活かしきれていなかったように思う。細やかな彫金によって極小の世界を創り出す石橋の作品も、キリコのような幻想性を強く感じさせながら、作品を天上から吊るす展示方法のおかげなのか、同時に重力から解き放たれたような浮遊感も感じさせていた。二人展としてはかなり成功している稀有な展覧会である。

2010/11/16(火)(福住廉)

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悪人

会期:2010/09/11

TOHOシネマズシャンテ[東京都]

小説を映画化するのは難しい。それは、実写で描かれたイメージが文字から連想したイメージとかけ離れていることが少なくないからであり、小説のボリュームを収めることのできない映画は必然的に小説の重要な構成要素をそぎ落とすことを余儀なくされるからだ。吉田修一原作、李相日監督作品による本作も、残念ながらそのパターンにはまってしまった。束芋が着想を得たという風俗嬢は映画には含まれていなかったし、だから主人公の男のいたいけな性格を十分に描ききれていなかった。さらに重大な欠落は、悪人と善人、正義と不正義をきれいに振り分けることができないことを描写するのが小説の肝だったにもかかわらず、この映画の重心はどちらかというと人間の美しいところに傾いており、醜いところをほとんど描くことができていなかった点だ。主演の妻夫木聡と深津絵里(の演技)が美しすぎるうえ、物語の終盤の舞台となる灯台のシーンもあまりにもロマンティックにすぎる。2人が灯台を目指す動機がきちんと説明されないまま物語が進んでしまうから、夕日に染まった広い海を前に純愛のあれこれを見せつけられても、こっちはなんだか困ってしまう。唯一気を吐いていたのが、岡田将生。軽薄短小、卑怯卑劣な男をこれでもかというほど演じてみせ、ついついうっとりしてしまいがちな物語の偏りにひとりで歯止めをかけた。岡田が演じた悪人が、強がりながらも一瞬見せる悔恨の情こそ、この映画の見どころである。

2010/11/14(日)(福住廉)