artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

“これも自分と認めざるをえない”展

会期:2010/07/16~2010/11/03

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

かつてのCMプランナー、いま表現研究者の佐藤雅彦がディレクションを務めた企画展。人間の属性というテーマのもと、最先端の情報工学や脳科学、生体科学などの知見と技術、そして芸術的感性によって制作された、およそ20作品を展示した。デザインエンジニアや研究者、アーティストたちによって制作された作品が立ち並んだ会場は、まさしくテーマパーク。来場者から収集した指紋や身長、体重、名前など、個人を特定するためのデータを利用しながら、ゲーム感覚で「私」の属性を体験させるところが醍醐味だ。長い行列を経て次々と作品をクリアしていくと、属性という共通項によって、「私」が見ず知らずの他者と同じグループに括られ、結果として「私」という境界がそれほど自明ではないことに気づかされる。おそらく佐藤のねらいは「私」に執着してやまない現代人の堅い肩をもみほぐすことにあるのだろうが、それを前世紀のポストモダニズムのように「構造」「相対化」「差異」「差延」「強度」などといった高踏的なジャーゴン(専門用語)によって理解させるのではなく、科学技術を動員したさまざまな装置によって体験させるところに、今世紀ならではの特徴がある。今後は、双方からそれぞれを架橋しようとするアプローチが課題となるはずだ。

2010/10/09(土)(福住廉)

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陰影礼賛

会期:2010/09/08~2010/10/18

国立新美術館[東京都]

谷崎潤一郎による随筆の題名を冠したコレクション展。全国に5つある国立美術館が所蔵する3万点の作品の中から170点あまりの絵画、写真、版画、映像などを展示した。それらの作品には、なるほど、地面に落ちる「影」と光が及ばない「陰」がそれぞれ表わされているのがわかる。けれども、結局のところ、それ以上でもそれ以下でもなく、きわめて大味な印象しか残らない。かねてから公立美術館では鑑賞の機会を提供するだけして、肝心の考察については鑑賞者に丸投げするような粗雑な企画展が多く見られるが、研究の成果を反映しない展覧会こそ「仕分け」の対象にしてほしいものだ。

2010/10/09(土)(福住廉)

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風間サチコ個展「平成博2010」

会期:2010/10/07~2010/11/27

無人島プロダクション[東京都]

風間サチコの新作展。「ふるさと創生館」や「バブル館」など、架空の博覧会によって平成という時代を回顧する設定で、比較的小さな版画作品9点を発表した。ワールドトレードセンターの屋上で下半身を靴の中に納めながらプレッツェルをほおばるブッシュや、歴代総理大臣の顔をぶら下げた観覧車など、風間ならではのアイロニーが小気味よい。さらに今回の白眉が、風間が個人的にコレクションしてきたという万国博覧会の記念絵葉書。会場内の障子に貼りつけられた無数の絵葉書の一つひとつが、じつにおもしろい。国家の栄華を象徴するパビリオンの数々は、どれも奇妙奇天烈であり、これらの建築が実在していたことに眼を疑うほどだ。けれども、現在の都市建築も、未来の視点から見れば、同じように滑稽なのかもしれない。絵葉書というメディアが伝える戦前戦中の歴史と、版画というメディアが伝える平成の歴史のはざまで、来場者は歴史の幅と厚みを体感することができたわけだ。無名の作り手によってつくられ、無名の大衆によって楽しまれてきた絵葉書という限界芸術を、みずからの美術作品と同列に並べて発表する風間の心意気もあっぱれである。

2010/10/09(土)(福住廉)

ニューアート展2010「描く─手と眼の快」

会期:2010/09/30~2010/10/19

横浜市民ギャラリー[神奈川県]

2006年から横浜市民ギャラリーが毎年企画している「ニューアート展」。今年は、1984年生まれの赤羽史亮と1921年生まれの石山朔の作品をそれぞれ展示した。一見して分かるのは、双方の作品が好対照だということ。赤羽が暗い色と厚みのあるマチエールでアニメキャラクターなどを描くのに対し、石山は強烈な色彩によってダイナミックな抽象画を描く。陰鬱で抑圧された若者と爆発的に解放された老人ということなのか。たしかに石山の初期作を見ると、赤羽ほど黒いわけではないが、色彩はいずれも淀んでおり、筆致の運動性は見られるものの、現在のような重層性は見出せないから、若年の暗さから老年の明るさという図式は、ある程度妥当するように思える。とはいえ、石山の最新作は画面の構成も色の重なりや発色も、以前と比べて若干トーンダウンしているように見えたので、必ずしも無限に明度を高めていくわけでもないようだ。繊細で傷つきやすい内面を外側に表出するという点では、実年齢にかかわらず、どんなアーティストにも通底しているのだろうが、石山がすぐれているのは、それを絵画のみならず小説、フラメンコ、そしてカンツォーネといったさまざまなアートで表現しているからだ。石山の抽象画に感じられる音楽的な律動には、カンツォーネが内側に抱える哀しみがある。

2010/10/02(土)(福住廉)

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入ッテハイケナイ家──“House” Keep out

会期:2010/09/10~2010/10/11

八番館隣[神奈川県]

吉祥寺のオルタナティヴ・スペース「Art Center Ongoing」を運営する小川希が、「黄金町バザール2010」内で企画したグループ展。かつて風俗店だった建物を会場に、有賀慎吾、柴田祐輔、鈴木光、永畑智大、芳賀龍一の5人がそれぞれ作品を発表した。いずれもデンジャラスな魅力を十分に発揮した作品で、見応えがあったが、それは空間の特性を過剰に引き出そうとしていたからだろう。柴田は1階の蕎麦屋だった店舗内をぐちゃぐちゃに引っかきまわし、芳賀も目的不明の暴力的な装置を取りつけることで、カモフラージュとしての蕎麦屋の仮面性と人工性を破壊してみせた。「ちょんの間」として使われていた2階では、有賀が拘禁された不気味な人体像を、永畑がチープでキッチュなセックスマシーンを、そして鈴木はモノローグで綴った私小説風の静謐な映像作品をそれぞれ展示した。こうした空間の歴史性や記憶を過剰に上書きするような戦術が際立って見えたのは、「黄金町バザール2010」が街の歴史や記憶をアートによって封じ込めようとしていたからだ。それが負の歴史を抱えるこの街にアートを根づかせるための戦略的な方途の現われだとしても、私たちの記憶に焼きつくのは、白い壁に展示されたアートなどではなく、むしろ暗がりの中で鼻をつくかび臭い匂いであり、それらに蓋をしようとするアートではなく、むしろ積極的に押し広げようとするアートである。まちおこし系のアートプロジェクトに意義があるとすれば、それはアートによって地域経済が潤ったり、地域の共同体が再生するなどという実利的な面ではなく、私たち自身がどのようなアートを必要としているのかを露にするところにあるのかもしれない。

2010/09/20(月)(福住廉)