artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
『何も変えてはならない』
会期:2010/07/31
ユーロスペース[東京都]
2009年製作のペドロ・コスタ監督作品。フランス人女優のジャンヌ・バリバールが歌う、ライブのリハーサルからレコーディング、レッスンなどを執拗に追い続けた映画で、光と影を絶妙にとらえたモノクロの映像がほんとうに美しい。ワンカットが異常に長い構成は、ともすると鑑賞者を退屈させがちだが、入念に考えられた(ように見える)画面の構図とバリバールの官能的な歌声のおかげで、決して飽きることがない。日本の喫茶店で煙草をくゆらす2人の渋いおばあちゃんを写した映像が、唐突に差し挟まれるなど、遊び心をきかせた編集もいい。
2010/08/09(月)(福住廉)
石川真生 写真展
会期:2010/07/23~2010/08/21
TOKIO OUT of PLACE[東京都]
沖縄の写真家・石川真生の写真展。携帯で撮影した『セルフ・ポートレイト─携帯日記─』と、あらゆる人びとに日の丸で自己表現をしてもらう『日の丸を視る目』、2つのシリーズから新作が発表された(また渋谷のZEN FOTO GALLERYでも、ほぼ同時期に『Life in Philly』と『熱き日々 in キャンプハンセン』による写真展が開催)。この2つのシリーズには、後者の石川が撮影者に徹しているのに対して前者の石川が被写体にもなるという違いがあるが、双方に共通しているのはともに人間を丸ごとさらけ出すという写真の暴力性を最大限に発揮しているという点だ。とくに日の丸について考えたことはなくても、石川の写真は自己と日の丸の関係性を明らかにするように迫ってくるし、術後の身体を包み隠さず披露しているように、そのような暴力性を自らにも差し向けるところに、石川真生ならではの倫理がある。それは、写真というメディアがはらむ大衆性がかつてないほどの拡がりを見せている今日、写真家という特権性を自己否定する身ぶりであるばかりか、私たちがつい忘れがちな「写真を撮る」という表現行為の楽しさと恐ろしさを、全身で教えようとする態度の現われのように感じられた。だからこそ、『日の丸を見る目』で被写体となっている人びとの多くが、左右を問わず、思想的に偏っているように見受けられたのが気になった。このシリーズの醍醐味は、携帯で自分を撮ることはあっても、日の丸などには見向きもしないような、市井の人びとが、なかば暴力的に日の丸と自己の関係性を問い直させられた結果、どのような表現が立ち現れるのか、その点に尽きると思うからだ。携帯の世俗性と日の丸の象徴性が重なり合うとき、石川真生はかつてない達成を遂げるのではないか。
2010/08/04(水)(福住廉)
BASARA
会期:2010/08/04~2010/08/09
スパイラルガーデン ギャラリー[東京都]
武闘派の現代美術家、天明屋尚がキュレイションを手掛けた企画展。「BASARA」とは、14世紀の南北朝時代に頻繁に用いられた、豪奢な華美を好む美意識や時世粧を表わす「婆娑羅」を、特定の時代を指す用語としてではなく、現代にまで脈々と通底する、ある種の「遺伝子」として提起するために、天明屋が開発した造語である。天明屋自身をはじめ、池田学、井上雄彦、歌川国芳、河鍋暁斎、三代目彫よし、月岡芳年、野口哲哉、HITOTZUKI(KAMI+SASU)、村山留里子、山口晃、横尾忠則など、ジャンルも世代もバラバラのアーティスト24組が参加したほか、縄文土器や印籠、根付、デコ電、デコトラなど、「BASARA」を体現すると考えられる数々のモノも併せて展示された。いやったらしい縄文土器から全身に刺青をまとった男たちの写真、色彩豊かな細密画から蒔絵のバイクなどが立ち並んだ会場は、まさしく絢爛豪華。パンチの効いた造形が次々と眼に飛び込んでくるのが楽しい。なるほど、「BASARA」がたんなる様式のひとつにとどまらず、日本美術の全体を貫く底流のひとつであることがよくわかるし、アニメやマンガに由来するオタク文化がのさばり、対外的にも「クールジャパン」として制度的に定着したいま、それを現状に対する「宣戦布告」として打ち出す意義はかなり大きい。「スーパーフラット」から「マイクロポップ」へと続いた昨今の日本の現代アートの流れを、大きく切り換えるエポックメイキングな展覧会として評価できると思う。ただし、疑問点がないわけではない。それは、本展の企画者である天明屋自身の作品に、若干の違和感が残ったということだ。きらびやかな色彩や緻密な描写、あるいはおどろおどろしい造形による作品が大半を占めていただけに、天明屋による《思念遊戯》(2009)の落ち着いた画面は奇妙に目立っている。刀剣を持ちながら取っ組み合う2人の任侠が描かれていることから、これはもしかしたら過剰に飾り立てる「BASARA」の背後に控える死生観の現われなのかもしれない。けれども、絵の細部に眼を凝らして見ると、そこには人体を縁取る繊細な線描や金箔を敷き詰めた後景、蛸のなまめかしい曲線、そして何よりもマットな色彩による彫り物の描写などがあり、それらは「BASARA」の破戒美というより、むしろ洗練された調和美、あるいは端正な典雅の印象を強めてしまっている。作品と概念との齟齬を、実作の面ではなく、少なくとも理論的にどのように埋め合わせるのか、そこに今後の課題が残されている気がしたが、ともあれ画期的で挑発的な展覧会だったことはまちがいない。今回はごくごく短期間の展覧会だったので、ぜひ公立美術館に場所を移して、巡回してほしい。
2010/08/04(水)(福住廉)
マン・レイ展 知られざる創作の秘密
会期:2010/07/14~2010/09/13
国立新美術館[東京都]
マン・レイの大々的な回顧展。活動の拠点だったニューヨークやパリ、ロサンゼルス、そして再びパリというように、時系列に沿った構成で、幼少時に描いた絵から、いわずと知れた実験的な写真の数々、そして老年まで嗜んでいた絵まで、約400点あまりの作品が一挙に公開された。解説によると、本人は写真家としてではなく、あくまでも画家として評価されることを望んでいたようだが、本展の展観を見るかぎり、残念ながらそのような評価には同意できない。魅力的だったのはやはり写真や映像であり、絵画はとてつもなく凡庸で、見るべきものは皆無だったからだ。そして見逃してはならないのが、本展の後半で発表されているジュリエットへのインタビュー映像。パートナーによる貴重な証言とアトリエの内観を目撃できるだけでなく、奇天烈なサングラスやメガネを次々とかけかえながらカメラの前でおしゃべりに興じるジュリエットのキャラクターがおもしろい。
2010/08/01(日)(福住廉)
新世代への視点2010
会期:2010/07/26~2010/08/07
ギャラリーなつか、コバヤシ画廊、ギャラリイK、ギャラリー現、ギャルリー東京ユマニテ、藍画廊、なびす画廊、ギャラリーQ、Gallery-58、GALERIE SOL、gallery 21 yo-j[東京都]
「東京現代美術画廊会議」による毎年恒例の企画展。11の画廊が選んだ若手作家の個展をそれぞれの会場で同時期に催した。例年に比べて多様な作品がそろっていたような気がして楽しめたが、今回注目したのは富田菜摘(ギャルリー東京ユマニテ)、鎭目紋子(gallery-58)、山本聖子(コバヤシ画廊)。富田は新聞や雑誌から切り抜いたイメージを張り合わせて等身大の人体像などを発表した。コラージュの立体版ともいえるが、異質のイメージを衝突させて異化効果をねらうというより、投資家風の老人には株式欄を、主婦にはスーパーの安売り情報というように、個別のキャラクターに応じたイメージを正確に選び出している。イメージと人格を厳密に対応させることで個体として自立させようとしているわけだが、にもかかわらず、その個体が断片の集合としてしか成立しないところがおもしろい。その対応関係があまりにも強く結ばれているところが気にならないわけではなかったし、欲をいえば、もう少しイメージに多様性と拡がりがあってもいいような気がしないでもないが、それでも統合された人格というものがフィクションにすぎないことを、富田の作品はうまく教えてくれる。車窓から東京のコンクリート・ジャングルを眺めたような絵を描いた鎭目の絵は、透明感があるわりには暗い色調の画面が東京のとらえどころのない陰鬱さを的確に描き出していた。これは、ふだん東京で暮らしている者にはわかりにくいかもしれないが、地方都市や外国から久々に東京に帰ってきた際に強く感じさせられる感覚である。そしてその暮らしの舞台である住宅の間取り図をチラシから切り抜き、それらの連続と集積をインスタレーションとして見せる山本聖子は、昨年の同画廊での個展より規模をさらに大きく発展させ、浴室やトイレだけをそれぞれ集積させた小品にも取り組むなど、自らの作品を新たな方向に着実に展開させていた。壁から少し離して設置されているため、壁に映りこんだ骨組みの影が間取り図を立体的に見させている。間取り図とは、そもそも三次元を二次元に置き換えることで新しい生活への欲望を刺激するものだが、それをさらに立体化して私たちの夢物語を錯綜させてしまうところに山本の作品の醍醐味がある。けれども、それは骨組みだけを抽出しているという点で、三次元への再帰還を果たしているわけではないから、私たちの視線は立体と平面のあいだを果てしなくさまようほかない。寄る辺のない宙ぶらりんの視線運動をまざまざと体感させる傑作である。
2010/07/30(金)(福住廉)