artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

本橋成一 写真展 昭和藝能東西

会期:2010/07/21~2010/08/03

銀座ニコンサロン[東京都]

昭和の時代に栄えていたさまざまな芸能の現場をとらえた写真展。見世物、落語、相撲、ストリップ、小人プロレスなど、いまとなっては郷愁を誘ってやまない、あるいは初めて見る、数々の芸能の一面を目にすることができた。それらの生き生きとした雰囲気はじつに魅力的であり、だからこそそれらが失われつつある現状を省みると、心の底から侘しくなる。かつて福田定良は新しい大衆演芸の条件として「芸術の楽しさと生活の匂い」を指摘していたが、今日の社会にあってこうした芸能の現場が失われつつあるということは、芸から生活の匂いが消えていることだけではなく、暮らしの匂いそのものが根絶されているということなのかもしれない。例えば、近年芸能に対して道徳意識を過剰に求める傾向が強いが、そもそも芸能とは、かねてから「ヤクザ者」の世界にあるのであり、これに一般的な倫理意識を当てはめようとすること自体が筋違いである。雑多な匂いを感じ取ることがない世界は、退屈であり、なおかつ恐ろしい。

2010/07/30(金)(福住廉)

鉄を叩く──多和圭三 展

会期:2010/06/26~2010/08/22

足利市立美術館[栃木県]

彫刻家・多和圭三の初めての回顧展。初期の野外彫刻から鉄の塊をひたすら打ち続ける代表作まで、多和の30年あまりに及ぶ制作活動を振り返った。70年代から80年代にかけて6回参加した「所沢野外彫刻展」の記録写真のほか、打ち続けることで別の一面を出現させた鉄の立方体作品、その制作風景を記録した映像、そして手製の玄能(ハンマー)など実物の道具の数々、多和のこれまでの活動を一望できる堅実な構成だ。なかでも特筆すべきは、鉄を打つ作品の制作過程を記録した映像。多和が鉄を打つ姿を初めて見ることができた(部分的にYou Tubeで視聴できる)。振り上げた玄能を鉄の表面に向けて振り下ろす姿は、激突の瞬間の高い金属音を聞いていると、あたかも求道的な修行僧のように見えるが、休憩を入れながら定型化した身体運動を繰り返す点では、むしろ熟練のアスリートのようだ。じっさい、つねに両足をしっかりと踏みしめ、決して体幹を崩さないほど安定した身体の「型」は、小手先の職人芸というより、全身で体得したアスリートの才覚ともいうべきもので、その無駄のない所作そのものがじつに美しい(もっと下半身をやわらかく屈伸させているのかと勝手に想像していたが、そうでもないところが意外だった)。鉄の表面を幾度も幾度も打ち続けることで別の一面を浮き彫りにする作品は、だから、多和本人が「ゆっくりと、あてどなく、ゆっくりと」と語っているように、必要最小限の身体運動の痕跡であり、同じく仕上がりもミニマリズムの風合いが強かった。ただし、最近では表面の触感や凹凸を激しく前面化させた《無量》(2007)や《景色─境界》(2008)など、従来の方法から抜け出すかのような作品もあるし、じっさい鉄板に溶断機で無数の線状痕を残す作品など、新たな手法に取り組んでいるようだ。身体に身についてしまった癖を意図的に捨て去ること。思えば、伝統芸能にしろアスリートにしろ、優れたアーティストは一芸的に芸を追究するより、絶えず自己の身体をつくり変えながら新たな造型や運動に挑戦して新たな「型」を獲得してきたはずだった。このように近年の多和が「つくる」ことに傾倒していることが明らかな以上、もうそろそろ、多和圭三を「ポストもの派」という物語から解放するべきではないだろうか。今後、愛媛県の久万美術館と目黒区美術館へ巡回。

2010/07/28(水)(福住廉)

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トロマラマ

会期:2010/07/24~2010/11/07

森美術館 ギャラリー1[東京都]

トロマラマはインドネシア在住の3人組で、大量のボタンやビーズなどでコマ撮りアニメーションを制作するユニット。とりわけ抜群だったのが、木版画の版木をもとにミュージック・ビデオに仕立て上げたアニメーション作品。(音楽も含めて)その映像が「クール」だとは到底言えないが、しかしローテクならではの奇妙な映像体験をもたらしているのはまちがいない。アップテンポのロックに合わせて次々と変化していく画面は、たしかに高速の時間を体感させるが、それらが版画とコマ撮りというそれぞれ長大な時間を費やして制作されたという背景を知ると、圧縮された時間のなかから部分的に解凍された時間が果てしなく漏れ出てくるかのように錯覚して、時間を二重に経験することができる。デヴィッド・ハーヴェイはポストモダン社会の条件として「時間と空間の圧縮」を挙げていたが、トロマラマはこうした時間の多重性こそポストモダン社会の同時代的なリアリティーであることを端的に示している。これは、同時期に隣接する会場で催されている「ネイチャー・センス」という恐ろしく大味で、無常というより、ただ空疎な展覧会などよりも、よっぽど時間と空間に根ざした現在の自然観を的確にとらえていた。

2010/07/23(金)(福住廉)

極小航海時代

会期:2010/06/19~2010/08/01

女子美アートミュージアム[神奈川県]

ペドロ・コスタをはじめ、ジョアン・タバラ、マリア・ルジターノ、ミゲール・パルマなど、ポルトガルの現代アートを紹介する展覧会。光を遮断した広い空間で、それぞれの映像作品が発表された。もっとも優れていたのは、ジョアン・タバラ。《ささやきの井戸》(2002)は、水の中に投げ込まれるコインを水底からの視点で撮影した映像で、来場者も頭上の映像を見上げるかたちで鑑賞する。鈍い音とともに次々と舞い降りてくるコインの動きは、見飽きることがないほど、美しい。とはいえ、一枚一枚のコインにはそれぞれの祈りが込められていることに想いをめぐらすと、見ず知らずの他人の希望をすべて受け入れなければならないかのような重苦しさも覚える。ここには、有無を言わさず一方的に届けられてしまう、あるいは望みもしないのに勝手に関係を結ばれてしまう、現在のコミュニケーションのありようがユーモラスに描き出されていた。もうひとつの作品《輪》(2007)も、シニカルなユーモアに富んでいる。夕暮れの草原でサークル状に連なった大人たちが順番に焚き火で暖をとる映像だが、炎に両手をかざすことができるのはひとりだけで、それ以外の人びとは寒風のなか順番を大人しく待っている。たしかに、これは公平で合理的な民主社会がはらむ不合理な一面を逆説的に表現しているのかもしれない。ただ、その点とは別に、行列をなしているのが成人ばかりだったことから、彼らは子どもの豊かな想像力が奪われた囚人のように見えてならなかった。囚われた奴隷のように画一化された行動に服従している彼らの顔を見ると、やはり一様に表情が乏しい。子どもの野性をもってすれば、たとえばかつてビクトル・エリセが《ミツバチのささやき》(1973)でひじょうに印象的に描き出したように、焚き火の炎の上を嬉々として飛び越えることだって可能なはずだ。未成熟に開き直ることほどみっともないことはないとはいえ、成熟とはなんと退屈なことだろうか。

2010/07/22(木)(福住廉)

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『ぼくのエリ 200歳の少女』

会期:2010/07/10

銀座テアトルシネマ[東京都]

2008年製作のスウェーデン映画。トーマス・アルフレッドソン監督作品。北欧のか弱い少年がヴァンパイアの少女に恋する物語。いかにも少女マンガで描かれそうな凡庸な設定で、じっさい金髪碧眼のナイーヴな少年と内側の野性をもてあます少女が織り成す物語の展開には、どこかで見たかのような既視感を覚えてならない。けれども、この映画の見どころは、物語を支える背景にある。しんしんと降り続ける雪と、北欧モダニズムによる集合住宅。そこで暮らしているのは、離婚して父が不在の家族であり、夜な夜な酒場に通うダメオヤジたち。象徴的に描かれた北欧型の福祉国家の内実が、たいへん興味深い。慎重に守らなければたちまち挫けてしまう少年が福祉国家を体現しているとすれば、文字どおり人並みはずれた生命力を誇る少女は福祉国家を相対化するためのメタファーである。そうすると、この映画は少年の自立の物語というより、むしろ「ゆりかごから墓場まで」を金科玉条とする福祉国家を内側から突き抜ける、脱出と革命の物語のようにも見える。その逃走の先に何が待っているのかはわからないし、ひょっとしたら何もないのかもしれない。けれども、がんじがらめの社会から抜け出す欲望をおしとどめることはできない。そこに、共感できる同時代性がある。

2010/07/21(水)(福住廉)