artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
ヨコハマ国際映像祭
会期:2009/10/31~2009/11/29
新港ピア、BankART Studio NYKほか[神奈川県]
横浜トリエンナーレとほぼ同じ会場で催された国際映像展。国内外から70組あまりのアーティストが参加した。なかでも群を抜いて際立っていたのが、クリスチャン・マークレーの《ヴィデオ・カルテット》と山川冬樹の《The Voice-Over》。前者はおびただしい数の映画のワンシーンをランダムにつなぎ合わせることで文字どおり四重奏(カルテット)を作り出し、後者はテレビ局のアナウンサーだった実父の声をもとに個人史と世界史を織り交ぜた歴史を物語った。とりわけ視覚的な映像を最小限にとどめ、音声による聴覚や音の振動による触覚を前面化させた山川の作品は、観覧者の脳内で映像を想像的に再生させるという点で、映像表現が氾濫する現代社会にあって映像の芸術にとってのひとつの可能性を提示したように思う。ただ、個々の作品は別として、本展の全体が依然として旧来の制度的なフレームを維持していたことが気になった。新港ぴあで見せられていた映像のアーカイヴは、いくつものモニターをブロック状に積み上げ、無数のプログラムを同時に見せていたが、鑑賞するにはストレスがひじょうに高い。暗い会場で立ったまま鑑賞するには時間が長すぎるし、とてもすべてを鑑賞する気にはなれないからだ。あるいは、ニコ動のコメントがリアルタイムで流れる作品も見られたが、こうした自宅で見ることができる凡庸な映像をあえて展覧会で見せる理由もよくわからない。さらに、きわめつけが作品のキャプション解説文だ。「形式」「内容」「没個性」「物質性」云々かんぬん。これまでの現代アートの展覧会で見られた衒学的(学問的知識を見せびらかすこと)な物言いがやけに多い。映像表現は確実に進化を遂げているし、社会の体制もまたそれに追随している。ところが展覧会の制度や言説はあいもかわらず旧態依然としているのである。映像の同時代をつかまえるには、私たちの意識や言葉を徹底的に自己批判する必要があるのではないだろうか。
2009/11/25(水)(福住廉)
5+1:ジャンクションボックス
会期:2009/11/29~2009/11/23
vacant[東京都]
多摩美術大学の展覧会設計ゼミが主催する毎年恒例の展覧会。今年は原宿のvacantを会場に、櫻井裕子、志村信裕、田口行弘、チャン・ヨンヘ重工業、山下麻衣+小林直人の5組が参加した。際立っていたのは、田口行弘と山下麻衣+小林直人。田口は色とりどりの長い布を原宿の街中に持ち出し、それらを少しずつ動かしながら撮影した写真をつなぎあわせたストップモーション・アニメーションなどを発表した。その映像を見ていると、布が生物のように動いていく様子がおもしろいのはもちろん、次第に街そのものに衣服を着せようとする無謀な試みのように見えてくる。クリストの「梱包」が20世紀的なスペクタクルだったとすれば、田口の動く布は流動的でひそやかな21世紀的な介入なのかもしれない。じっと眼と眼を見つめあいながらイメージをテレパシーで伝えあう山下麻衣+小林直人のパフォーマンス映像作品は、奇跡的に一致したドローイングがじっさいに展示されていたが、これはイメージの正確な伝播より、むしろそのイメージが定型化されていることのほうが断然おもしろい。イメージは自由な想像力として語られがちだが、じっさいは形や構図などの定型に大きく拘束されており、不自由きわまりないものである。その被拘束性は、風光明媚なアルプスの山々の前でそれを木彫りの彫刻にしてみせた作品にも、テーブルの上に置かれた巨大な飴玉をお互いに延々と舐め続けるパフォーマンス映像作品にも、それぞれ如実に現われていたが、これはあらゆるクリエイターにとっての前提条件なのかもしれない。
2009/11/23(月)(福住廉)
休符だらけの音楽装置
会期:2009/10/10~2009/11/03
旧千代田区立練成中学校[東京都]
旧中学校の屋上運動場で催された展覧会。大友良英をはじめ、伊東篤宏、梅田哲也、Sachiko M、堀尾寛太、毛利悠子、山川冬樹が広い会場に作品を点在させた。キャプションもハンドアウトもなかったので、どれが誰の作品かは判別しなかったけれど、全体的に共通していたのは、ひそやかな佇まい。オブジェをわずかに運動させたり、光を時折明滅させたり、小さな音を発したり、巨大な装置を派手に動かすスペクタクルなアートとは対照的に、大切な宝物を手のひらでそっと包み込むような、ナイーヴな感性が通底していたようだ。美術にかぎらず、音楽や映像など文化全般に及ぶ、ゼロ年代の大きな潮流のひとつである「ひそやか系」が一堂に会した展覧会だった。
2009/11/2(福住廉)
ラグジュアリー:ファッションの欲望
会期:2009/10/31~2010/01/17
東京都現代美術館[東京都]
ファッションの展覧会。京都服飾文化財団のコレクションから選ばれた17世紀から現代までの作品およそ100点が展示された。「ラグジュアリー」とは「余剰から生み出された豊かさ」を意味しているらしいが、じっさいの展示はその言葉を見事に裏切り、到底ファッションの欲望を体現したものとは考えられない代物。マネキンに着せられた服飾の数々は、まるで博物館の倉庫からそのまま取り出してきたかのように、じつに貧相極まりなく、それらの服飾を身につけたいという欲望を喚起することもなければ、オブジェとして楽しめるものですらない。建築家の妹島和世がコム・デ・ギャルソンの服を見せるためにデザインしたという空間も、透明なアクリルを湾曲させながら衣服を囲むことによって、手に届きそうで届かない神聖性を引き出そうとしたのだろうが、完全なホワイトキューブならまだしも、冷たい石を連想させる巨大な空間では、その寒々しい灰色がアクリルに映りこむため、透明美が半減するばかりか、肝心の衣服がまったく美しく見えなかった。1999年に同館で催された「身体の夢:ファッションor見えないコルセット」展は、たとえばマルジェラの黴を生やしたジャケットを屋外に展示するなど、かなり挑戦的で厚みのある展示構成だったが、今回の展覧会は作品の量的にも質的にも、そして見せ方という点でも、10年前より明らかに退行しているといわざるを得ない。これが、ファッションと美術館をめぐる経済的状況のちがいに由来しているのか、あるいは基礎研究の衰退を意味しているのかは定かではないが、いずれにせよ人間の欲望を何かしらのかたちで刺激しないかぎり、アートだろうとファッションだろうと、人びとをひきつけることは到底かなわない。
2009/11/18(福住廉)
清方/kiyokata ノスタルジア
会期:2009/11/18~2010/01/11
サントリー美術館[東京都]
「最後の絵師」といわれることが多い鏑木清方の展覧会。代名詞ともいえる美人画のほか、スケッチや絵筆、イーゼル、そして清方が親しんでいたという風俗画などが展示された。清方といえば透き通るような白い肌と着物の絵柄を克明に描き出す高度な描写力だが、今回改めて思い知ったのは背景の処理のうまさ。色の濃淡を巧みに使い分けることで人物の輪郭や身体の所作を浮かび上がらせ、結果として人物像をよりいっそう効果的に引き立てることになっている。図録の装丁もじつに美しい仕上がり。
2009/11/17(福住廉)