artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
城戸孝充 展
会期:2009/09/10~2009/10/04
Gallery 21yo-j[東京都]
彫刻家・城戸孝充の新作展。高い天井を誇る会場に入ると、巨大な水槽の中であぐらを組んで座る大男と目が合ってしまい、ギョッとさせられる。背中に龍の彫り物が入れられたこの人物像は、城戸自身を模りしたもので、実物よりも巨体に見えるのは、円筒形の水槽の表面が湾曲しているからだろう。水槽の背後には、天井付近から吊り下げられた厚いカンヴァスに、これまた城戸自身を写し取った「魚拓」ならぬ「人拓」。布地は深い青で塗り上げられているから、まるで深海のなかを漂う城戸の残像を見ているようだ。けれども、何より驚かされたのは、これまで水という非定型の素材からいかに彫刻的な形象を立ち上げるかという難問に取り組んできた城戸が、ここにきて人間の身体表現に大きく旋回し、なおかつ作家自身の「私性」を前面に押し出してきたことだった。身体を水に沈め、水の奥に送り出す光景から考えると、この展覧会は城戸自身がみずからのこれまでの「生」をあの世に葬り去る、象徴的な儀式だったのかもしれない。次はどのように展開するのか、注目したい。
2009/10/02(金)(福住廉)
ヨナタン・メーゼ展 ミシマ・イズ・バック
会期:2009/09/05~2009/10/03
小山登美夫ギャラリー[東京都]
「横浜トリエンナーレ2008」に参加したヨナタン・メーゼの個展。三島由紀夫やアドルフ・ヒトラーなどの図像、原色をふんだんに盛り込んだ表現主義的な絵画、壁に直接書きつけられたメッセージ、パフォーマンスを記録した映像作品などで会場を構成している。混沌とした雰囲気を醸し出そうとしているのはまちがいないとはいえ、芸術の独裁制を説くヨナタンの思想をもとに考えてみると、混沌をエスカレートさせればさせるほど、芸術の独裁制というヴィジョンの稚拙さが浮き彫りになってしまっているように思えてならない。形式的にはむしろ洗練された手法をとる森村泰昌が、同じように作品のなかで芸術の独裁性を説いたことがあったが、ヨナタンとは対照的に、その野望を説得力のあるかたちで魅力的に鑑賞者に届けていた。ファシズムがそうであるように、人びとを惹きつけるには、何よりもまず圧倒的な美しさが必要である。芸術の独裁制を本気で説くのであれば、まず腹筋を鍛えろとヨナタンに言いたい。
2009/10/01(木)(福住廉)
「変生態_リアルな現代の物質性」Vol.4 東恩納裕一
会期:2009/09/12~2009/10/10
galleryαM[東京都]
キュレイターの天野一夫が企画する連続展の4回目。今回は東恩納裕一が、彼の代名詞ともいえる蛍光灯を組み合わせたシャンデリアをはじめ、ストライプ、ドレープ、モアレなど、これまでの作品を全面的に発表した。新たに展開していたのは、木目調の床材を壁面に貼りつけていたこと。ストライプが縦方向に貼りつけられていたのにたいし、床材は横方向に貼りつけられていたが、その交錯するラインとモアレの縞模様が出会うと、視覚的な混乱状態を味わえる。光と線と色を織り交ぜた、じつに絵画的な空間だった。
2009/09/29(火)(福住廉)
伊佐治雄悟 展 ボトル/bottle
会期:2009/09/28~2009/10/03
ギャラリイK[東京都]
伊佐治雄吾は、凡庸な日常用品を加工することでその美的な側面を浮き彫りにするアーティストだ。ボールペンの先端に熱を加えて、まるでガラス細工のように丸く膨張させたり、洗剤のボトルの表面をカッターで念入りに切り刻み、幾何学模様を描き出しながら分解したり、なんでもない素材が隠し持っている美しさを巧みに引き出している。切り刻まれたボトルは奇妙に伸張しているが、それは可塑性のあるプラスティックにちがいないとはいえ、じっくり見ていくと天に向かって育ちゆく植物のようにも見えてくるから不思議だ。人工的で無機質な素材にすら有機的な生命を感じてしまう、わたしたち自身の偏った癖を体現しているかのようだった。
2009/09/28(月)(福住廉)
ステッチ・バイ・ステッチ 針と糸で描くわたし
会期:2009/07/18~2009/09/27
東京都庭園美術館[東京都]
針と糸を使いこなすアーティストを集めた展覧会。秋山さやか、伊藤存、竹村京、手塚愛子、村山留里子など、8組のアーティストが作品を発表した。なかでも際立っていたのが、夜警の仕事をしながら針仕事に没頭する奥村綱雄と、千人針のように縫い玉を繰り返しつくる吉本篤史。幾度も幾度も針と糸を突き刺すことで、まるで抽象画のような画面をつくり出す奥村の作品は、その執拗な反復の痕跡と手の平に収まるような小さなサイズが、奥村自身の偏執的な私性を強く醸し出していた。また千人針には無数の他者からの呼びかけが込められているのにたいし、吉本の作品にはむしろ自分からの呼びかけと自分による応答が反響しており、その自己完結したコミュニケーションのありようが、逆に鑑賞者の興味を強く刺激していた。両者は、みずから閉じること(縫合)によって社会的に開く(開示)という表現がありうることを示していたと思う。
2009/09/27(日)(福住廉)