artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

‘文化’資源としての〈炭鉱〉展

会期:2009/11/04~2009/12/27

目黒区美術館[東京都]

文字どおり「文化資源」としての炭鉱に焦点を当てた展覧会。同館を会場とした「<ヤマ>の美術・写真・グラフィック」と「川俣正コールマインプロジェクト~筑豊、空知、ルールでの展開」、そしてポレポレ東中野との共同企画として催される映像プログラム「映像の中の炭鉱」の3つのパートで構成されている。「<ヤマ>の美術・写真・グラフィック」では山本作兵衛の《筑豊炭鉱絵巻》をはじめ、土門拳の《筑豊の子どもたち》、岡部昌生の《ユウバリマトリックス》、上野英信らによる《写真万葉録・筑豊》など、炭鉱にまつわる絵画・写真・版画・彫刻・ポスターなどあわせて400点あまりの作品や資料が一堂に会しており、その物量に圧倒される。炭鉱に何の記憶を持たない者でも、たとえば田嶋雅巳の写真シリーズ《炭鉱美人》を見れば、かつて炭鉱で働いていた女たちの証言をとおして当時の暮らしや労働をうかがい知ることができるだろうし、山本作兵衛がみずから歌った炭鉱歌を耳にしながら炭鉱絵巻を見れば、ただ単に絵を読むよりいっそう<ヤマ>の雰囲気を感じ取ることができるだろう。ただ「川俣正コールマインプロジェクト」の会場は、ダンボールを一面に敷き詰めて田川の街並みを再現したインスタレーションだったが、単なる資料展というかたちを回避する意欲は伝わってきたものの、運動としてのプロジェクトのおもしろさをモノとしての展示に落とし込むことの難しさが十分にクリアできているとは到底いえない、何とも侘しい展観だった。しかし、このことを差し引いたとしても、本展は近年まれに見る好企画、決して見逃してはならない展覧会であることはまちがいない。学芸員・正木基による関係者へのインタビューや研究者による論考が収められた図録も充実の出来映え。久々に「読める図録」でうれしい。

2009/11/8(福住廉)

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田口行弘 個展「Über~performative sketch」

会期:2009/10/06~2009/11/07

無人島プロダクション[東京都]

ベルリンを拠点に活動している田口行弘の個展。日々描き続けているドローイングの紙で壁を埋め尽くし、近年になって取り組み始めた映像作品を発表した。とりわけコマ撮りした写真を連続させて映像化したストップモーション・アニメーションが鮮烈な印象を残した。それらのドローイングが別の画廊の内部で変幻自在にかたちを変化させながら縦横無尽に動き回る様子は、じつに楽しい。また、これまた別の画廊の床板を剥ぎ取り、その長い板が群れを成して画廊内を練り歩き、ついには街へと飛び出して徘徊する映像を見ていると、モノとしての板がまさしく生物のように思えてくる。長い板といえば、斎藤義重から菅木志雄、そして川俣正にいたるまで、現代美術にとっては定番の素材だが、田口はそれらを組み合わせて空間を構築する段階から有機的に動かす段階に推し進めたといえるだろう。ただし、川俣が十八番とするような板を集結することによってその場の空間との生きた関係性を結ぶという側面は、残念ながら十分に成熟しているとは言いがたい。この点をクリアしたとき、田口の作品は大きな達成を果たすにちがいない。

2009/11/5(福住廉)

ニュータウンピクニック──遺跡をめぐるアート

会期:2009/10/20~2009/11/07

都筑民家園ほか[神奈川県]

横浜市都筑区の港北ニュータウンにある「大塚・歳勝土遺跡」を中心に催された展覧会。江戸時代の古民家や弥生遺跡などの中にアート作品が展示された。参加したのは、今井紀彰や開発好明、フランシス真悟、上野雄次、文殊の知恵熱など、総勢25組。秀逸だったのは、復元された竪穴式住居の内部に植物のようなオブジェを敷き詰め、来場者をブランコに乗せてその光景を見させた、三宅光春のインスタレーション。暗い空間でブランコに揺られていると、まるで夢のなかを漂うかのような錯覚を起こす。ただ、正面にはその来場者の姿をとらえた映像がリアルタイムで映し出されていたが、これはその夢のような経験から覚醒させることはあっても、それを深化させることはなかったように思う。

2009/11/5(福住廉)

HEARTBEAT-SASAKI展

会期:2009/11/10~2009/12/18

第一生命南ギャラリー[東京都]

心臓の鼓動を描いたドローイングを見せる展覧会。30点あまりの平面作品をそれぞれテーブルの上に並べて空間インスタレーションとして発表した。赤いインクが描くジグザグ模様は心臓の鼓動のリズムを忠実に反映しており、だからそれらが密集した赤い画面は作者の生の何よりの例証である。けれどもふつう、わたしたちがそうした生の根拠を意識することはほとんどないので、赤い線によって心臓の収縮活動をこれほどまでに実直に示されると、ある種の居心地の悪さを感じざるを得ない。しかしメメント・モリとは、まさにこうした不安の感覚と表裏一体だったことを思えば、これらの作品はまちがいなく現代版のメメント・モリである。

2009/11/30(月)(福住廉)

医学と芸術 展:生命と愛の未来を探る

会期:2009/11/28~2010/02/28

森美術館[東京都]

文字どおり医学と芸術をキーワードにした展覧会。ダ・ヴィンチの素描から人体解剖図まで、河鍋暁斎からデミアン・ハーストまで、手術器具から義足・義眼まで、古今東西の芸術作品と医学資料200点あまりを一挙に並べた展示がじつにスリリングでおもしろい。たとえばアルヴィン・ザフラの《どこからでもない議論》(2000)は、人間の頭蓋骨をサンドペーパーの上で幾度も研磨して仕上げた平面作品。骨の粒子で構成されたミニマルな絵画の美しさは、人間の死を即物的にとらえる厳しさに由来している。ヤン・ファーブルの《私は自分の脳を運転するII》(2008)は、題名どおり男が自分の脳を運転する様子を描いた小さな立体作品だが、見ようによっては逆に脳にひきづられているようにも見える。すべての原因を脳に帰結させる唯脳論が世界を席巻している現状を皮肉を込めて笑い飛ばしているかのようだ。渾然一体とした会場を歩いて思い至るのは、これほどまでに生と死の謎を解明しようと努力してきた人類の知的な営みだ。「死」をできるだけ遠ざけることによって「生」を可能なかぎり持続させること。これこそ今も昔も人類にとっての普遍的な問いである。けれども本展に唯一欠落している点があるとすれば、それはそうした知的な営みが歴史的に繰り広げられてきたのは疑いないとしても、それと同時に、人間は人間の生殺与奪を繰り返してきたということもまた揺るぎない事実だということだ。生と死の謎を根底的に解明するのであれば、この暗いアプローチを無視するわけにはいかない。そこで本展を見終わったあとに、駿河台の明治大学博物館に出掛けることをおすすめしたい。そこには数々の拷問器具が立ち並んでおり、苦しみを与えながら生を奪い取ってきた人間の業の深さを体感できるからだ。

2009/11/27(金)(福住廉)

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