artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
いけばな雑司が谷2011
会期:2011/11/17~2011/11/20
旧高田小学校[東京都]
鬼子母神にほど近い廃校で催された生け花の展覧会。「生け花」というと格式高い伝統芸術の印象が根強いが、本展で発表されたのは型破りな生け花ばかり。流派の異なる17人の華道家/作家たちが、教室や廊下などで作品を展示した。教室の一面にススキの穂を渦巻状に立ち並べたり(太田光)、間伐材を極薄にスライスした素材「かなば」を縦横無尽に張り巡らせたり(日向洋一)、広い空間に決して見劣りしない作品が多い。いまでは廃校を使ったアートイベントは珍しくないが、これほどまでに空間の容量と作品のスケール感が調和した展覧会は決して多くはないだろう。なかでも抜群だったのが、上野雄次。乗用車の屋根に木の枝を組み合わせた巨大なオブジェを設置し、都内各所の繁華街を激走した。会場には、その様子を記録した映像が流されていたが、車高をも上回る大きなオブジェが街を水平移動していく姿は異様で、街の人びとから大きな注目を集めていた。ただし、この作品は非日常的な出来事によって日常を異化するパフォーマンスにすぎないわけではない。映像をよく見ると、木の枝のあいまに植物の葉が生けられているのがわかるから、これはやはり正真正銘の「生け花」である。巨大な死(木の枝)に包まれながら疾走する、わずかな生。生を美しく死に送り届けることが生け花の本質だとすれば、上野はそれを花器から解き放ち、私たちの都市生活の只中を走らせることで、それを反転して見せた。死から生を強引に導き出そうとするという点で、上野雄次の表現は「生け花」というより、まさしく「はないけ」なのだ。
2011/11/18(金)(福住廉)
写真新世紀 東京展 2011
会期:2011/10/29~2011/11/20
東京都写真美術館[東京都]
34回目を迎えた「写真新世紀」展。1,300人を超える応募者数から厳選された優秀賞5名および佳作20名の作品とファイルがあわせて展示された。注目したのは、坂口真理子と鈴木淳。坂口の《訪々入浴百景》はさまざまな家庭や職場に湯船を持ち込み、その場の日常風景の只中で入浴する坂口を映したシリーズ。表情をつくるわけでもなく、かといって殺すわけでもなく、他人の空間でいたって普通に湯につかる坂口の表情がおもしろい。一方、鈴木淳の《だれもいない、ということもない》は、街の風景をとらえた凡庸なスナップショットだが、よく見るとそこに映し出されている人たちはいずれも顔が見えない。つまり、みんながみんなあちら側を向いていて、こちら側を見ていない瞬間をとらえたわけだ。生身のまま被写体と対峙する坂口と、被写体に見られることなく見る鈴木。前者の関心が交流の先に訪れる孤独だったとすれば、後者のそれは孤独の先にやってくる交流と言えるのかもしれない。
2011/11/17(木)(福住廉)
藤原新也の現在「書行無常」展
会期:2011/11/05~2011/11/27
3331 Arts Chiyoda[東京都]
写真家の藤原新也の個展。旅先で書を行なうシリーズを中心に、被災地をとらえた写真などもあわせて展示した。藤原新也といえば、「人間は犬に食われるほど自由だ」というコピーで知られる写真家だが、その一方で時事問題についても積極的に発言する社会批評家としても活躍している。だが今回の展示で明らかになったのは、アーティストとしての藤原新也だ。世界各地の現場で繰り広げられる書は、さながらアクション・ペインティングのような運動性を感じさせるし、広大な雪原を「春」という形に踏み固め、その上にスプレーで着色したり、筆に見立てた髪の毛に墨汁を滲みこませたヌードモデルを抱きかかえながら書を書くパフォーマンスなどは、まさしくアーティストそのもの。「老いてなお益々盛んな…」と言ったら失礼かもしれないが、ここにきて写真や文章にとどまらず、「なんでもやってやる!」という境地に達したのかもしれない。このアグレッシヴなパワーが来場者を圧倒したのは事実だが、本展における藤原新也のありようは表現や芸術にかかわる者にとってある種のモデルを示していたようにも思えた。このどうしょうもない世界の只中で生きてゆき、やがて死んでゆかねばならない私たち自身には、「なんでもやっていい」という甘えはもはやなく、「なんでもやらざるをえない」という厳しさしか残されていないからだ。であればこそ、文字どおりジタバタしながらもがき苦しみ、そうやって身体を社会に晒して右往左往した先に、この苦境を突破する人間の根源的な生命力を見出すほかない。アーティストのように、いやアーティストとして、あらゆる人びとがたくましく行動しなければ太刀打ちできない時代になってしまったのである。本展で示されていたのは、この危機に身をもっていちはやく対応した人間の記録だったと思う。
2011/11/10(木)(福住廉)
ブリューゲルの動く絵
会期:2011/12/17
ユーロスペース[東京都]
タイトルどおり、ブリューゲルの絵を動かした映画。レイ・マイェフスキ監督は、16世紀のフランドルを舞台にしたブリューゲルの絵画《十字架を担うキリスト》を、最新のCG技術によって映像化した。そびえ立つ岩壁の上の風車小屋や車刑のための高いポール、そして十字架を背負ったキリストを中心とした群像。絵画と同じ風景のなかで絵画と同じ人物が動き出し、画面に表わされていない前後の物語が想像的に描かれてゆく。演出上の最も大きな特徴は、絵画には描かれていないブリューゲル本人(あの『ブレードランナー』のルトガー・ハウアー!)が登場していることと、そのブリューゲルをはじめ絵画に登場しない何人かだけが言葉を語る反面、絵画に登場している人物たちは言葉を一切発しないこと。会話によって物語を綴るという文法が採用されていないため、ふだんの映画の見方がまったく通用しないところがおもしろい。むろん、ブリューゲルに精通している人であれば、また違った楽しみがあるのかもしれないし、そうでない人にとっては退屈以外の何物でもないのかもしれない。けれども、この映画の醍醐味は絵画のなかに入ってあれこれ想像をめぐらすという私たちが常日頃おこなっている鑑賞経験そのものを映像化した点にあるように思われる。一枚の絵から物音や自然音を再生することはあっても、人と人の会話まで想像することは稀だろうし、映画のラストで美術館に展示されているブリューゲルの実作をズームアウトしていくシーンは、明らかに鑑賞という想像的な脳内活動の終わりを示していたからだ。その意味で、この映画はブリューゲルについての映画というより、ブリューゲルの絵画を鑑賞する私たち自身を描いた作品だと言えるだろう。
2011/11/09(水)(福住廉)
油絵茶屋再現展
会期:2011/10/15~2011/11/15
浅草寺境内[東京都]
木下直之の名著『美術という見世物』(筑摩書房、1999)に詳述されている「油絵茶屋」を再現した展覧会。同書によれば、「油絵茶屋」とは庶民がお茶を飲みながら油絵を楽しむ見世物で、明治7年(1874)、五姓田芳柳と義松の親子が浅草寺の境内で催したという。「美術館」も「展覧会」もなかった時代に、日本で初めて催された油絵の展覧会である。当時の油絵は現存していないが、アーティストの小沢剛による指導のもと、東京藝術大学の学生たちが残された資料を手がかりに絵を再現し、同じく浅草寺の境内に建てた小屋の中に展示した。発表されたのは12点で、いずれも歌舞伎の役者絵。キャンバスではなく板の上に描かれ、大半は黒い額に収められているが、なかには背景から人物や動物を自立させたインスタレーションもある。おもしろいのは、再現とはいえ、それぞれの描き手の個性があらわになっていること。森本愛子による《職人の酒盛》は日本画のように細い線と薄塗りの絵肌だが、花魁を描いた小山真徳による《金瓶桜今紫》は厚塗りだ。二代目市川團十郎が演じた関羽を描いた菅亮平や盗賊の首領《日本駄右衛門》を描いた高橋涼太など、男性の描き手が緻密な筆致による丁寧な写実性を追及しているのに対し、怨霊による復讐劇を描いた高城ちひろや人気力士の苦悩を描いた福田聖子など、女性の描き手が大胆かつ情動的な表現を試みている違いも興味深い。物珍しさに誘われたのか、浅草寺の参拝客が続々と小屋に流れ込み、非常に多くの人たちが油絵を楽しんでいた。とはいえ、気になった点がないわけではなかった。それは、見世物小屋としての不徹底ぶり。提灯や幟が明らかに不足していたため、見世物小屋にしては地味すぎるし、周囲の賑々しい露店に埋没していた印象は否めない。木下によれば、「油絵茶屋」には絵から口上が奪われていく近代化の歴史が体現されているそうだが、浅草界隈の芸人を呼んで画題について解説させるなどの工夫があってもよかった。そもそも「油絵茶屋」が見世物として成り立っていたのは、油絵が当時のニューメディアだったからであり、勝手知ったる画題が新奇な形式で表現されていたからこそ、庶民は「油絵茶屋」に好奇心とともに群がっていたはずだった。だとすれば、学生たちが熱心に取り組んでいる「油絵」という技法こそ、徹底的に見直す必要があったのではないだろうか。
2011/11/04(金)(福住廉)