artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

熊澤未来子 展

会期:2011/10/03~2011/11/10

第一生命南ギャラリー[東京都]

精緻でありながらダイナミックな鉛筆画を描く熊澤未来子の個展。過去作と新作をあわせて8点が発表された。重力から解き放たれたような浮遊感が特徴だが、新作《不安定な生活》では新たな展開を見せていた。描かれているのは、天高く伸びる超高層住宅。外壁が随所で外されているため、部屋の様子があらわになっており、しかも魚眼の構図によって周囲の低い建物が描かれているため、この建物が尋常ではない高度に達していることがわかる。超高層住宅といえば、ある種のセレブリティーの象徴でもあるが、熊澤が描き出しているのは、あくまでも庶民の暮らしだ。畳に敷かれた布団や洗い物がたまった台所、ちゃぶ台にコタツ、そして洗濯竿。こうした記号が私たち庶民の暮らしを過不足なく表わしていることは間違いないが、それらを垂直方向に果てしなく伸ばした空想的な絵には、私たちの潜在的な不安が託されているように思われた。震災以後、津波の恐怖によって高層住宅を求める一方、地震の恐怖がそれを打ち消してしまうダブル・バインドが私たちの心にこびりついているからだ。熊澤の鉛筆画は、当人が意識しているかどうかは別として、この時代を物語る年代記になりうるのではないだろうか。

2011/11/02(水)(福住廉)

日常/ワケあり

会期:2011/10/18~2011/11/19

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

ニューヨークを拠点に活動する江口悟、田口一枝、播磨みどりによるグループ展。いずれもインスタレーションで、日常品を紙で構成したり(江口)、構築物にプロジェクターで映像を重ね合わせたり(播磨)、ある種の日常性を共通分母としているようだ。なかでも、圧倒的な展示を見せたのが、田口一枝。同ギャラリーの最も大きな空間に、光沢のあるシルバー・フィルムを連ねたラインを天上から何本も吊り下げ、LEDライトによって反射した光の輪が幾重にも重なり合いながら揺れ動く光景をつくり出した。暗闇の中でゆっくりと回転する冷たい光輪に包まれる経験が、静かな感動を呼ぶ。

2011/10/30(日)(福住廉)

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アンリ・サラ

会期:2011/10/14~2011/11/10

KaiKaiKiKiGallery[東京都]

アルバニア生まれのアーティスト、アンリ・サラの個展。スネアドラムをモチーフとした立体作品と、3本の映像作品などが発表された。映像には、ビルの屋上でサックスを吹く黒人男性やさまざまな人たちが手回しのオルガンを弾いていく様子が映し出され、それぞれ無関係に進行していくものの、次第に映像と音楽が共振してゆき、やがて穴の開いたオルガンの楽譜と灯りのついた高層マンションの窓が重なり合うシーンで完全に一致する。音楽と映像の奇跡的な同期。サッカーボールを頭の上に乗せてバランスを取る最後のシーンが象徴していたように、アンリ・サラが見せようとしていたのは、その危うくも魅力的な瞬間なのだろう。

2011/10/28(金)(福住廉)

荒木経惟─人・街─

会期:2011/10/02~2012/01/09、2012/01/14〜2012/03/20

世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館[東京都]

荒木経惟の写真展。《さっちんとマー坊》や《東京ラッキーホール》、《TOKYO NUDE》など、小規模ながら手堅い構成で荒木の写真を見せた。特に見どころなのが、初期の写真を収めたスクラップ・ブック。全紙サイズの巨大で厚みのあるスクラップ・ブックが、壁に貼り出された写真以上に、凄まじい迫力を放っている。さすがに直接触れることはできなかったものの、そこに収められたプリントはデジタル画像に変換されてモニターで流されていた。もちろんオリジナル・プリントのアウラがないわけではない。ただそれ以上に濃厚に感じ取れたのは、みずからの作品をあくまでもこのサイズで見せようとする写真家としての意気込みだ。ページをめくることが煩わしくなろうが、重たくて持ち運びにくくなろうが、関係ない。なんならすぐにでも搬入できると言わんばかりの強い意志がまざまざと感じられる。小ぶりで手ごろなサイズにまとめがちな昨今の写真家にとって、荒木の重厚なファイルはそれ自体がひとつの作品として映るのではないだろうか。

2011/10/28(金)(福住廉)

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おまえはどうなんだ?

会期:2011/10/08~2011/10/29

松の湯二階[東京都]

銭湯を舞台にした展覧会。銭湯の1階は通常営業しているが、現在は使われていない2階を使って、12人のアーティストが作品を展示した。浴室はもちろん、サウナ、休憩所、更衣室など、空間の隅々を使い切る貪欲さが気持ちよい。ひときわ際立っていたのは、窪田美樹。くしゃくしゃに丸めた刺青の写真を浴槽の中に敷き詰め、湯が波立っているように見せた。さまざまな肌色とさまざまな文様が凝集した迫力が凄まじい。銭湯ばかりか社会全般からも「刺青」が排除されつつあるいま、窪田のインスタレーションはサバルタン(被差別民)の声なき声がさざめいているように見えた。思えば、そもそも銭湯とはさまざまな庶民が文字どおり裸一貫になって集う場所だった。かつて私たちは湯を分かち合い、ともに語らい、明日への英気を養うことで、人生をよりよく生き直してきたのである。そこから落語が生まれ、銭湯のペンキ絵が育まれてきたことを考えれば、銭湯とは人間の生と分かち難く結びついた芸術の母胎だったとさえ言える。浅草寺の「油絵茶屋」が絵から口上を奪っていった歴史を思い出させたように、本展は私たちの暮らしが銭湯という共同体を捨て去っていった歴史を連想させた。私たちは「近現代美術」を手に入れた代わりに、暮らしに根づいた芸術を失ってしまったのである。いま現代アートに私たちが望んでいるのは、その回復である。

2011/10/27(木)(福住廉)