artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

一点消失・中村宏

会期:2011/10/03~2011/10/22

Gallery-58[東京都]

中村宏の新作展。昨今精力的に取り組んでいる「一点消失」のシリーズを発表した。中央部の一点に消失する遠近法にもとづきながらも、同時に表面をグリッドで仕切ることで奥行き感と平面性をひとつの画面のなかで並立させている。それゆえ、見る者の視線は絵画の奥に引き込まれる絵画の魔術を味わいつつも、その経験自体があくまでも平面上での出来事であることを思い知らされるのである。絵画の再帰性を強く意識させる絵画だが、ほとんどの画面の右下を大きく横切る黒い影が、その再帰性そのものを自己言及しているように思われた。

2011/10/12(水)(福住廉)

Chim↑Pom「SURVIVAL DANCE」

会期:2011/09/24~2011/10/15

無人島プロダクション[東京都]

Chim↑Pomが調子に乗っている。もとい、ノリに乗っているというべきか。かつての荒削りな魅力はどこへやら、今回の展示は個別の作品の完成度も、それらを構成する展示の仕方も、ともに優れていたから正直驚かされた。一発逆転ホームランをぶちかますわりに空振りも多かった打撃のスタイルから、確実に出塁できる打撃法へと進化したといってもいい。さまざまな映画の銃撃シーンを集めた映像を投影したスクリーンに向けてエリイがマシンガンをぶっ放す映像作品は、銃撃音の迫力もさることながら、会場に実弾を浴びて穴だらけになったスクリーンを掲げ、その上に映像をプロジェクションしていたため、暴力的なカタルシスと甘い狂気を効果的に倍増させていた。天井裏の空間でミラーボールの回転する照明とともに新旧の《スーパー☆ラット》を見せる映像インスタレーションにしても、来場者に梯子を登らせて天上の世界を垣間見させるやり方が、なんともうまい。作品の形式的な面でいえば、前者はクリスチャン・マークレーを、後者はオノ・ヨーコをそれぞれ彷彿させるが、いずれもChim↑Pomのほうが断然おもしろいことは明らかだ。映画的編集の妙を見せるのではなく、映画というフィクションそのものを撃ち抜く暴力的な想像力。それを映像によって表現しながらも、穴だらけの布切れ一枚によって現実と接続することで、映像という自律圏にも風穴を開けてみせたわけだ。ようするに、現代アートの文脈を確実に踏まえつつ、それを一歩前進させているのである。パズルのピース(一片)に見立てた会場の壁を一部崩落させ、ピース(平和)の瓦解を象徴的に表現したり、「原爆の火」で消費文化の記号を描くなど、他の作品もいちいち心憎い。現代アートの流儀をスマートに使いこなすようになったのかと思えば、その一方で稲岡求と水野俊紀の生身の肉体を使ったバカな作品もあり、自分たちの原点を決して忘れているわけではないこともしっかりアピールしている。このバカから出発して社会や政治、あるいは美術の文脈に到達する振幅こそ、Chim↑Pomの醍醐味であり、それがバカを隠したがる現代アートに満足できない私たちの心を鷲づかみにするのである。彼らに追いつき、拮抗し、やがて鮮やかに乗り越える新しいアーティストが待望される。

2011/10/12(水)(福住廉)

太田祐司 個展「ジャクソン・ポロック新作展」

会期:2011/09/08~2011/11/26 ※会期延長

AI KOKO GALLERY[東京都]

2009年の五美大展で「半馬博物館」という架空のミュージアムを発表した太田祐司の個展。イタコの女性にジャクソン・ポロックを呼び出してもらい、当人に新作を描かせたアクション・ペインティングの大作と小品、そして当人へのインタビューと制作風景を映した映像を発表した。オレンジやグリーン、ブラック、シルバーなどの色彩をドリッピングによって重ねたマチエールは、いかにもポロック風。映像を見ると、床に寝かせたキャンバスに、イタコの女性が勢いよく絵筆の塗料を滴り落としているが、その身体動作が徐々に躍動していく様子がわかっておもしろい。なるほど、たしかに「ジャクソン・ポロック新作展」である。故人のアーティストをイタコに呼び出してもらう作品としては、すでにセカンド・プラネット(宮川敬一+外田久雄)がアンディ・ウォーホルにインタビューを行なっているものの、太田が優れているのは、故人と対話するだけでなく、絵画を実作させたからだ。いったい、霊魂が現世の肉体を借りて制作した絵画は真作なのだろうか、それとも贋作なのだろうか。ほんとうの作者は誰なのだろうか。「半馬博物館」や「未確認生命体(UMA)」がそうだったように、真偽や虚実のあいだを絶妙に突く、太田ならではの傑作である。かりに「ほんとう」だったとしても、具象絵画全盛の時代にあって、その愚直なアクション・ペインティングがやけに新鮮に見えたことは偽りではないし、真っ赤な「うそ」だったとしても、シャーマン絵画としてのおもしろさが減殺されるわけでもない。つまり、真偽や虚実というテーマをみずから設定しつつ、しかしその振り子がどちらに傾くかに関わらず、どっちにしろ太田の作品は評価されるのであり、ほんとうに絶賛しなければならないのは、この高度な戦略性なのだ。ところで、それはそれとして、抽象表現主義を頑なに信奉してやまない美術評論家の連中が、いったいこれをどのように評価するのか、という点が気になって仕方がない。

2011/10/06(木)(福住廉)

泉太郎 展 動かざる森の便利、不便利

会期:2011/09/26~2011/10/02

玉川大学 3号館102[東京都]

泉太郎が玉川大学の学生らとともに制作した作品を同大学内で展示した展覧会。発表されたのは、これまでと同様に、独自のルールで行なわれる遊戯を収めた映像インスタレーション7点で、基本的に撮影の場と展示の場を同一にする手法も変わらない。ただし、これまでと大きく異なっていたのは、学生との共作という一面が前面に押し出されていたせいか、全体的に「和気藹々」とした雰囲気が強く醸し出されていた点だ。それが、ひとり遊びという孤絶感を徹底することによって逆説的に求心力を発揮する泉の作品の真髄を、残念なことに遠ざけてしまっていたように思われた。むろん、これまでもボランティアスタッフが画面に映りこむことはあったし、近年の泉は明らかに彼らを巻き込んだ集団的な遊戯に重心を置いていたから、和やかな空気感はその路線の延長線上で必然的に生まれたものなのかもしれない。けれども、学生の無邪気な笑顔に囲まれた泉の遊戯に、どうにもこうにも違和感を拭えなかったのも否定し難い事実だ。それを、単独性からはじまり、やがて集団的な規模にまで発展する遊戯の本質的な特性として肯定的に考えることもできなくはないが、しかし泉太郎が秀逸なのは、遊戯に内在するそのような力を利用しつつも、あくまでもそれを自分の統治下に治める点にあるように思う。他者とともに行なわれる遊戯ですら、彼らを人形のように操りながら、じつは遊戯を独り占めにしているといってもいい。表面的なユーモアの背後にひそむ唯我独尊こそ、泉太郎の真骨頂にほかならない。今回の展示に対する違和感は、学生たちの屈託のない笑顔が、そうした本質的なところに触れているように見えなかったことに由来しているのかもしれない。ワークショップや授業にアーティストを招聘するのはよい。しかし、それがアーティストの魅力を半減させるものであっては断じてならない。改善のポイントは意外と単純なところにあると思う。例えば、今回の作品はすべて大学の中で行なわれていたが、同じ遊戯を大学の外で、すなわち路上や街頭でやってみるとしたら、どうだろう。学生たちは今回のように笑いながら遊ぶことができるだろうか。泉は内側の聖域だろうと外側の野生だろうと同じように遊ぶだろう。それが泉太郎の強さなのだ。

2011/10/02(日)(福住廉)

城戸孝充・天方信吾

会期:2011/09/08~2011/10/02

gallery 21 yo-j[東京都]

城戸孝充と天方信吾の二人展。城戸が制作した立体作品に、天方による音をあわせた《まだ、雨は降り続いている》を発表した。彫刻を出自とするアーティストは数多いが、城戸ほど毎回趣の異なる作品を見せて鑑賞者を圧倒する美術家はいない。今回の立体作品は、鉄板を貼りあわせた重厚な土台の上に細長い真鍮を無数に突き立てたもの。鈍い金色の線が垂直方向に幾重にも重なり合った光景は、密集した竹林や降り注ぐ雨を連想させるが、雨音をモチーフにした音響が徐々に大きくドラマティックに展開すると、その光景がモアレ状に見え始め、一点を見通すことができないほど、視線が撹乱される。その斑紋の先に、見えるはずのない世界が見えたような気がしたから不思議だ。森のなかで不意に雨に打たれ、風雨が山肌を削る音を耳にしながら、岩陰で身を潜めて堪え忍ぶ時間。おのずと動物的な感性が研ぎ澄まされる。やがて大音響が去っていくと、雨上がりの森の静けさが身にしみてくる。画廊の天窓から差し込む穏やかな光も、雨雲と樹木を突き抜けて下りてきた陽射しのように見える。むろん、音の力を借りてはいる。そうだとしても、これほどまでに物体の造形から見えない世界を想像的に体験させる作品は、他に類例を見ないのではないだろうか。城戸孝充が切り開いている彫刻のフロントは、いまもっとも注目すべきトピックである。

2011/09/30(金)(福住廉)