artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

Subjective Photography vol.2 大藤薫

会期:2017/03/29~2017/04/15

スタジオ35分[東京都]

ドイツのオットー・シュタイナートが1950年代に提唱し、展覧会の開催や写真集の刊行などで、世界的に反響を呼んだのがSubjective Photography(サブジェクティブ・フォトグラフィ)。日本では「主観主義写真」と訳され、当時一世を風靡していた「リアリズム写真」に対抗する、新しい写真運動として注目された。1956年には日本主観主義写真連盟が結成され、「国際主観主義写真展」(東京・日本橋高島屋)も開催されている。広島市出身の大藤薫(おおとう・かおる、1927~)もその運動の担い手として活躍した一人で、シュタイナートが編集した写真集『Subjective Photography1』(1952)と『Subjective Photography2』(1954)にも作品が掲載されている。今回、東京・新井薬師のスタジオ35分で開催された個展には、ヴィンテージ・プリントから複写して焼き付けたニュー・プリント20点が展示されていた。
いま見ると「主観主義写真」には、戦前の「新興写真」のスタイルに遡ってそのスタイルを受け継いでいくという側面と、造形意識を研ぎ澄ませることで新たな写真表現を打ち立てていこうという意欲とが同居していたように見える。戦前に中国写真家集団の一員だった正岡国男の指導で写真制作を始めたという大藤の写真にも、やはり過去と未来とに引き裂かれていく当時の状況が反映されている。とはいえ、廃船を撮影したシリーズなど、現実世界をフォルムとテクスチャーに還元して再構築しつつ、まさに彼の「主観」的なリアリティが色濃くあらわれている作品もある。大藤に限らず、「主観主義写真」の運動の周辺にいた写真家たちの動向を、もう一度細やかに見直していく必要があるのではないだろうか。
なお、今回のスタジオ35分の展示は、昨年の「vol.1新山清」に続く「Subjective Photography」展の第2弾になる。さらに同時代の写真家たちの発掘を積み重ねていってほしいものだ。

2017/04/06(木)(飯沢耕太郎)

「I am an ‘object’」

会期:2017/03/10~2017/04/04

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

ZEN FOTO GALLERYのディレクターのアマンダ・ロの企画による「I am an ‘object’」展には、西村多美子、安楽寺えみ、殿村任香、Tokyo Rumando、萬一一、鄭 の6人の女性写真家、アーティストが出品していた。1948年生まれの西村から、台湾出身で1985年生まれの鄭 まで、年齢も国籍もキャリアもさまざまだが、「object」というテーマで彼女たちの作品をくくったことで、面白い展示が実現した。
「object」は日本語で言えば「対象」、「目的」であり、写真の「被写体」という意味でも使われる。彼女たちの作品にも、むろん「object」が登場してくるのだが、それらの用法はかなりかけ離れたものだ。西村や殿村のように「観察により対象の像を写し出す作品」もあれば、安楽寺やRumandoのように「写真家自身が被写体であり主体でもある作品」もある。また台湾出身の2人の写真家の作品は、「物体を組み合わせて主題のイメージを創り出す作品」に分類できるだろう。だが、写真を見ているうちに、その「object」の提示の仕方が、やはり男性写真家たちのそれとは違っているように思えてきた。端的に言って、女性写真家たちの「object」と写真家本人との距離はとても近く、ほとんど同化している場合すらある。その生々しい触覚的な表現には、思わずたじろいでしまうほどの切迫感があった。
ZEN FOTO GALLERYでは、普段は個展を中心に企画が組まれているが、時折開催されるグループ展もなかなか面白い。また別の角度から、女性写真家たちの仕事を取りあげてほしいものだ。

2017/04/01(土)(飯沢耕太郎)

フォトジャーナリスト 長倉洋海の眼 地を這い、未来へ駆ける

会期:2017/03/25~2017/05/14

東京都写真美術館地下1階展示室[東京都]

展覧会のメイン会場の手前のスペースに、1981年、長倉洋海が勤めていた通信社に辞表を出してから1年あまりのあいだに、フリーのフォトジャーナリストとして撮影した写真が展示してあった。「世界を揺るがすような一枚」を求めて、ローデシア(現・ジンバブエ)、ソマリア、パレスチナ、カンボジアなどを駆け回って撮影した写真群だが、結果的には思ったようには撮れなかった。通信社や新聞社の後ろ盾なしで紛争地を取材することへの限界を感じた彼は、根本的にやり方を変えることにする。そうやって、1982年に現地に5カ月間滞在して撮影したのが、今回の展示の最初のパートに置かれた「エルサルバドル」のシリーズである。
内戦下の人々の生と死を直視したこのシリーズが、長倉にもたらしたものはとても大きかったのではないだろうか、「じっくり腰を落ち着けて」ひとつの場所に留まり、「自分のための写真」ではなく「人々の思いが感じられる写真」を目指すようになる。また、たまたま難民キャンプで出会った少女、へスースの写真をきっかけにして、一人の人物を長期間にわたって撮り続ける方法論も見出すことができた。それまでにないスタイルで写真を世に問うていく「フォトジャーナリスト」、長倉洋海の誕生は、やはりこのシリーズがきっかけであったことを、あらためて確認することができた。
それ以後の長倉の写真家としての揺るぎのない軌跡は、本展に展示された約170点(スライド上映も含めると300点以上)の作品が物語っている。このところ、その活動にはさらに加速がついてきたようで、展覧会の開催にあわせて、同名のカタログとともに、未來社から全5巻の写真集シリーズ『長倉洋海写真集 Hiromi Nagakura』も刊行された。昨今の不透明な時代状況のなかで、「フォトジャーナリスト」の志を保ち続けるのには、想像以上の困難がつきまとうのではないだろうか。だが、一貫してポジティブな眼差しで撮影された彼の写真群を見ていると、少しは「希望」や「未来」を信じたくなってくる。

2017/03/31(金)(飯沢耕太郎)

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菅野ぱんだ「Planet Fukushima」

会期:2017/03/28~2017/04/10

新宿ニコンサロン[東京都]

菅野ぱんだの出身地である福島県伊達市は、東日本大震災で大事故が発生した福島第一原子力発電所から北西に約50キロ、宮城県との県境に位置している。強制避難の対象地域からは外れたものの、市内には放射能のホット・スポットが点在し、自主避難をした住民もいた。今回の展示は、彼女が震災直後から撮り続けた、同地域の写真群をまとめたものだ。
人物あり、建物あり、出来事ありの、やや雑多にさえ思える写真を撮り続けるうちに、菅野は視界が3つの領域に分断されているように感じてきたのだという。「遠景(風景)」と「近景(人間)」とのあいだに、「中景(放射能という異物)」が挟み込まれているのだ。そして同時に、過去─現在─未来という滑らかな時間の流れも、震災という大きな裂け目によって分断されることになる。そのような認識を表現するために、彼女はフレームの中に大小さまざまな複数の写真をおさめ、それらのフレームをさらに縦横に連ねていく展示方法をとることにした。それは、観客の固定した視点を攪乱するとともに、彼女が体験した時空間のズレや違和感を共有させるために、とてもうまく働いていた。
展示された写真のなかで特に強く印象に残るのは、何度も登場してくる放射能の線量計のクローズアップと、汚染土の処理施設の異様な景観を、上空から俯瞰して捉えたカットである。福島の出来事を特定の地域だけの問題として押し込めるのではなく、ミクロからマクロまで伸び縮みする視点を設定し、まさに宇宙規模の「Planet Fukushima」のそれとして捉え直そうとする意欲的な取り組みといえる。またひとつ、「震災後の写真」の優れた成果が、しっかりと形をとってきた。写真集としてもぜひまとめきってほしい。なお、本展は4月27日~5月3日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2017/03/28(火)(飯沢耕太郎)

「愛しきものへ 塩谷定好 1899─1988」

会期:2017/03/06~2017/05/08

島根県立美術館[島根県]

2016年の三鷹市美術ギャラリーでの展覧会「芸術写真の時代 塩谷定好展」に続いて、島根県松江市の島根県立美術館で「愛しきものへ 塩谷定好 1899─1988」展が開催されている。同美術館に寄贈された作品を中心に、7部構成、全313点という大回顧展である。大正末から昭和初期にかけての絵画的な「芸術写真」のつくり手として、塩谷が技術だけではなく高度な創作力においても、抜群の存在であったといえる。
今回、特に印象深かったのは、一枚のプリントを仕上げるにあたっての塩谷の恐るべき集中力である。『アサヒカメラ』(1926年6月号)掲載の「月例写真第4部」で米谷紅浪が一等に選んだ《漁村》は、彼の初期の代表作のひとつだが、島根半島の沖泊で撮影された、海辺の村の集落の俯瞰構図で捉えた写真のネガから、塩谷は何枚も繰り返しプリントを焼いている。それらの写真群は、印画紙を撓めて引き伸ばす「デフォルマシオン」や油絵具(塩谷はそれに蝋燭の煤を加えていた)で加筆する「描起こし」の手法を用いることによって、彼の理想のイメージに少しずつ近づけられ、ついに10年後に傑作《村の鳥瞰》として完成する。今回の展示は、塩谷のプリント制作プロセスが明確に浮かび上がってくるように構成されており、その息遣いが伝わってくるような臨場感を覚えた。この時代のピクトリアリズム(絵画主義)的な傾向は、1930年代以降に全否定されるのだが、もう一度見直すべき魅力が備わっていることは間違いない。日本の「芸術写真」の再評価を、さらに推し進めていくべきだろう。
塩谷が生まれ育った鳥取県赤碕(現・琴浦町)には、回船問屋だった生家を改装した塩谷定好写真記念館も2014年にオープンした。その近くの大山の麓の伯耆町には、よき後輩であった植田正治の作品を展示・収蔵する植田正治写真美術館もある。山陰の風土と彼らの写真との関係についても、再考していく必要がありそうだ。

2017/03/19(日)(飯沢耕太郎)

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