artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

GOCHO SHIGEO 牛腸茂雄という写真家がいた。1946-1983

会期:2016/10/01~2016/12/28

FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館[東京都]

牛腸茂雄は不思議な写真家で、没後30年以上経ても、彼への関心が薄れるどころか、さらなる展示や出版の企画が続いている。今回の、FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館での展示は、いわば彼の作品世界のダイジェスト版と言うべきものだが、それでも牛腸の写真には見る者の目をとらえて離さない、強力な磁力のようなものが備わっているように感じた。
展示の全体は3部に分かれ、第1部の〈こども〉には初期のスナップ写真が5点、第2部の〈SELF AND OTHERS〉には代表作というべき同名の写真集から27点、そして第3部の〈幼年の「時間(とき)」〉には、彼の最後のシリーズとなった子供たちの写真5点が出品されていた。全37点という数は、あまり多いとはいえない。だが、緊張感を感じさせる写真群を見続けていると、これくらいがちょうどいいという気もしてくる。
牛腸は被写体をあたかも標的のように、画面の真ん中に寄せて撮ることが多い。それゆえ彼の写真を見るときには、写っているモデルたちと真正面から顔を見合わせて対峙することになる。それはあまり普段は経験することのない、特殊な状況と言える。そして、モデルがたとえ幼い子供たちであっても、そこには一個の人間としての揺るぎない存在感がある。牛腸自身もまた、それらの顔と向き合いつつ、「自己とは?」、「他者とは?」、そして「人間とは?」と、自問自答を繰り返していたはずだ。そんな問いかけに答えなければならない地点へ、否応なしにわれわれを追い込んでいく力が、彼の写真には確かに備わっているのではないだろうか。

2016/10/05(水)(飯沢耕太郎)

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永瀬沙世「CUT-OUT」

会期:2016/09/23~2016/10/08

GALLERY 360°[東京都]

一時期コラージュ作品の制作に凝っていたことがあるので、「CUT-OUT」(切り抜き、切り絵)の愉しさは僕もよく知っている。鋏で紙を切り抜くのは、筆で描くように自由にはいかないし、つい切り過ぎたり、細かい部分が抜け落ちてしまったりもする。だが、逆に自分では思ってもみなかった大胆なフォルムがあらわれ出てくることもある。なによりも、紙に鋏で切れ目を入れていくときの独特の触覚的な体験そのものに、不思議な魅力があるのではないかと思う。
永瀬沙世が、そんな「CUT-OUT」の面白さに目覚めたのは、アンリ・マティスの作品を知ったからだという。マティスは78歳になって、絵筆を捨て、「CUT-OUT」の制作に没頭し始めた。「何かから解放された彼のアトリエがあまりにも自由に満ちていてびっくりした」のだという。たしかに、今回東京・表参道のGALLERY 360°で展示された、永瀬の一連の「CUT-OUT」作品には、のびやかな解放感がある。
永瀬はまず紙を網目状に切り抜き、女性モデルがそれらと戯れている様子を撮影した。その画像をアルミ板にインクジェット・プリントし、さらにその上に色のついたフィルターを、少し間隔をとって重ねている。アルミ板とフィルターの質感のズレが、刺激的な視覚と触覚を同時に刺激する効果を生み出していた。会場には「CUT-OUT」された銀色の紙そのものも展示されていたのだが、それらはあたかも近未来の衣装のようにも見える。それらを実際に女性モデルに着せるパフォーマンスも面白そうだ。このおしゃれで軽やかな連作は、まだいろいろなかたちで展開していく余地がある。

2016/10/05(水)(飯沢耕太郎)

第3回代官山フォトフェア

会期:2016/09/30~2016/10/02

代官山ヒルサイドフォーラムほか[東京都]

写真作品を扱うギャラリー、書店・出版社から成る日本芸術写真協会(FAPA)が主催する「代官山フォトフェア」も3回目を迎えた。今年の目玉は、写真史家の金子隆一のコレクションから厳選して展示した「The Photobook」展(ヒルサイドプラザ)。「1960年代以降、世界の中でも独自の変遷を遂げてきた日本の写真集を、総合的に紹介する」展覧会である。たしかにこのところ、日本の写真集に対する関心は世界的に高まりを見せており、時宜を得た好企画といえる。
会場には、小石清『初夏神経』(1933)、川田喜久治『地図』(1965)、荒木経惟『センチメンタルな旅』(1971)などの極めつきの名作写真集のほか、元村和彦が主宰していた邑元社から刊行されたロバート・フランク『私の手の詩』(1972)などの写真集のコーナー(装丁・デザインは杉浦康平)、コロタイプ、グラビア、オフセットなど、印刷システムの違いによる視覚的効果を比較するコーナーなどがあり、充実した内容だった。この展示に限らず、「写真集の展覧会」は、もっといろいろな角度から企画できるのではないだろうか。
代官山フォトフェアでは、FAPA bookとして毎回写真集を刊行している。石内都『Belongings 遺されたもの』、荒木経惟『去年の写真』に続いて、今年は川田喜久治『遠い場所の記憶:1951-1966』が出版された。それに合わせた企画展には、なかなか見ることができない川田の1950~60年代の初期作品が展示されており、東松照明の同時代の作品との比較も含めて興味深い内容だった。川田の旺盛な実験精神が、この時期からすでに芽生えていたことがわかる。ほかに横田大輔、小林健太、志賀理江子らによるトークセッションなど、多彩な催しが行なわれた。天候不順で、観客数は期待されたほどは伸びなかったようだが、昨年と比較しても意欲的な展示・イベントが多かった。東京都写真美術館もリニューアル・オープンしたこともあり、代官山・恵比寿地区全体を巻き込んで、より規模の大きな写真フェスティバルとして展開していけるといいと思う。

2016/10/01(土)(飯沢耕太郎)

それぞれの時「大阪」~森山大道・入江泰吉・百々俊二展~

会期:2016/09/03~2016/10/30

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

奈良市写真美術館には「入江泰吉記念」という冠がついているので、各展覧会には入江泰吉作品の展示が必須になる。今回の「それぞれの時「大阪」」展でも、森山大道と百々俊二の「大阪」の写真と入江の写真をどう組み合わせるかに、相当苦労したのではないかと思う。
入江は戦後、生まれ故郷の奈良で暮らし、「大和路」を中心に写真を撮影・発表してきたが、戦前は大阪で「光藝社」という看板を掲げて活動していた。ところが、1945年3月の大空襲で自宅と店が全焼し、撮りためたネガや写真機材のほとんどが灰燼に帰してしまった。そのとき、唯一焼け残ったのが、今回展示された「文楽」のネガとコンタクト・プリントである。名人が一斉に輩出した、昭和10年代の人形遣い、囃子方らのポートレートと、のちに空襲で焼失する文楽人形をクローズアップで撮影した写真は、とても面白い。コンタクト・プリントには「おおいやき」、「やや明るく」などの書き込みがあり、写真家の息遣いが生々しく伝わってくる。戦後の風景や仏像の写真とはかなり趣が違う、若々しい雰囲気の写真群である。
百々俊二と森山大道の「大阪」もそれぞれ面白かった。百々は九州産業大学の卒業制作だった「新世界劇場」(1969~71)を皮切りに、「大阪・天王寺」(1975~78)、「新世界むかしも今も」(1979~86)、「大阪」(2005~10)と、40年以上にわたって撮影し続けた150点以上の写真を展示していた。一方、大阪・池田市出身の森山大道は、1990年代に撮影された路上スナップを中心に、64点をニュープリントで出品した。彼らの写真を見ていると、街と人とのあり方が、東京と大阪では違っていることに気がつく。路上の人々が、街から遊離しているように見える東京と比較して、大阪では街と分かちがたく一体化した人々の姿を見ることができる。百々も森山も、群衆に紛れ込み、時に彼らを見返しつつシャッターを切るなかで、次第にエキサイトしていく様子が写真から伝わってくる。大阪という空間そのものが、写真家たちにとって魅力的なカオスとなっているのだ。この街から、路上スナップの名作が次々に生まれてくるのも当然というべきだろう。

2016/09/30(金)(飯沢耕太郎)

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秦雅則『鏡と心中』

発行所:一ツ目

発行日:2016/08/09

2008年にキヤノン写真新世紀でグランプリを受賞し、2009~11年に東京・四谷で「企画ギャラリー・明るい部屋」を運営していた頃の秦雅則は、次々に溢れ出していく構想を形にしていく、すこぶる生産的な活動を展開していた。このところ、やや動きが鈍っているのではないかと思っていたら、いきなりハードカバーの写真集が刊行された。これまで、ZINEに類する小冊子はつくっていたが、本格的な写真集としては本書が最初のものになる。
ただ、『鏡と心中』というタイトルの本は、すでに2012年のartdishでの個展「人間にはつかえない言葉」に際して刊行されている。そのときには、写真は口絵ページに12枚ほどおさめられていただけで、「夢日記」のような体裁の文章ページが大部分だった。今回は、いわば写真集判の『鏡と心中』であり、写真図版は72枚という大冊に仕上がっていた。
写っているのは身近な片隅の風景であり、花や植物、小動物、杭や土管などを、しっかりと凝視して、スクエアの画面におさめている。かつての性的なイメージを再構築した破天荒なコラージュ作品とはかなり趣が違う。むしろ静まりかえったスタティックな印象を与える写真群だが、画像の一部に黒々と腐食したような空白が顔を覗かせている写真が目につく。おそらく、フィルムを放置することで生じた傷や染みだろう。それらが現実の風景を、風化していく記憶や、忘れかけた夢に似た感触に変質させている。丁寧につくられたいい写真集だが、秦にはもっと「暴れて」ほしいという気持ちも抑えきれない。次作は真逆の、ノイズや企みが満載の写真集を出してほしいものだ。

2016/09/27(火)(飯沢耕太郎)