artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

トーマス・ルフ展

会期:2016/08/30~2016/11/13

東京国立近代美術館[東京都]

「見る、観察する、考える」というのは、「20世紀の人間たち」のプロジェクトで知られるアウグスト・ザンダーが、写真家としてのモットーを問われて答えた言葉だ。日本では初めてのトーマス・ルフの大規模展を見ているうちに、この言葉が頭に浮かんだ。同じドイツの写真家ということもあるのだろうが、視覚世界を写真という媒体を使って探求し、さらに思考を深めて新たな認識に達するあり方が、この2人は似通っていると思う。
会場には、デュッセルドルフ芸術アカデミーで、ベッヒャー夫妻の下で学んでいた頃の初期作品「室内」(1979~1983)から、新作の「press++」(2015~)まで、全18シリーズ、約125点の作品が並ぶ。それらを見ると、アナログからデジタルへと画像形成のプロセスが移行し、インターネットが世界中を覆い尽くすようになった時代状況に、ルフが誠実かつ的確に対応しつつ、新たな写真表現の可能性を模索し続けてきたことがよくわかる。巨大カラープリント(「ポートレート」1986~1991/1998、「ハウス」1987~1991)、コレクションされた天体写真や新聞写真(「星」1989~1992、「ニュースペーパー・フォト」1990~1991、「カッシーニ」2008~、「ma.r.s.」2010~)、微光暗視装置や旧式の画像合成機(「夜」1992~1996、「アザー・ポートレート」1994~1995)、インターネットから取り込んだデジタル画像(「ヌード」1999~、「基層」2001~、「jpeg」2004~)、3Dプログラム(「zycles」2008~、「フォトグラム」2012~)など、ルフが作品制作に利用してきた画像形成の媒体は驚くほど多岐にわたっている。だが、彼の視覚世界の探求は決して空転したり、上滑りしたりすることなく、物事の本質にまっすぐに迫っていく。その揺るぎのなさは、ドイツ写真の伝統を正当的に受け継いでいるという自信のあらわれともいえそうだ。
むろん、ルフの写真家としての弛みない歩みは、同世代の「ベッヒャー派」の写真家たちの中でも傑出していて、そのまま日本の写真の状況に当てはめられるものではない。だが、「基層」の画像の元になっているのが「日本の成人向けコミックやアニメ」であり、「press++」にも「日本やアメリカの報道機関から入手した写真原稿」が使われていることを知ると、アーカイブ化した画像は誰にでも入手可能であり、新たな写真表現の扉は平等に開かれているということに思い至る。また、一連の宇宙をテーマにしたシリーズは、子供の頃に天文学者に憧れていた彼の個人的な関心を反映したものであるという。一見、手の届きそうのない高みにあるルフの作品群も、けっしてアプローチ不可能なものではないということだ。日本でも、多様な視覚メディアを縦横に駆使する写真表現の冒険が、もっとさまざまなかたちで出てきてもいいはずだ。

2016/09/13(火)(飯沢耕太郎)

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カンコウツウコウ展─秋の会合─

会期:2016/09/06~2016/09/11

SARP[宮城県]

毎年、秋にSARP(仙台アーティストランプレイス)を会場に開催されている「仙台写真月間」。今年は山田静子、小野寺香那恵、カンコウツウコウ「(阿部明子+榎本千賀子)、花輪奈穂、酒井佑、小岩勉、野寺亜季子が参加したが、そのうちカンコウツウコウの展示を見ることができた。
カンコウツウコウは、阿部明子(1984- 宮城県生まれ)と榎本千賀子(1981- 埼玉県生まれ)が今年結成したばかりの写真制作ユニットである。今年になって、阿部は仙台から宮城県小牛田に、榎本は新潟から福島県金山町に住まいを変えた。その「新生活を報告しつつ、共同制作の可能性」を探るというのが本展の企画意図で、SARPの2つのスペースでは、それぞれの新作の展示のほか、ある1枚の写真を起点にして、阿部が榎本の、榎本が阿部の写真を選んで交互に並べるなど、2人の写真を交差・浸透させる試みが展開されていた。阿部の新作は、自宅の庭を撮影した複数の画像を大きく出力して、微妙にずらしたり重ね合わせたりする作品であり、榎本は日々の暮らしを記録した断片的な写真群に、メッセージを記した手紙を添えている。それらのメイン展示を中心に、2人の写真が触手を伸ばすように絡み合って、洗練されたインスタレーションが成立していた。
阿部と榎本は、写真による風景表現の可能性を模索して2013年から毎年開催されているグループ展「リフレクション」(ディレクション/湊雅博)のメンバーでもある。個の表現と共同性とをどのように両立させていくのかは大きな課題だが、このユニットの活動は今後も充分期待できそうだ。

2016/09/11(日)(飯沢耕太郎)

横田大輔「MATTER / 」

会期:2016/09/02~2016/10/23

G/P gallery Ebisu[東京都]

デジタル画像とインターネットの時代における写真アーティストたちの多くは、現実世界の様相をストレートに提示する写真のあり方に懐疑的だ。それはそうだろう。物心がついたときから、加工、改変、再編が自在にできるヴァーチャルなメディアにどっぷりと浸かっていた彼らにとって、現実とは強固で不変なものであるわけはなく、むしろ画像を再構築、再組織化するための材料として利用すべき対象だからだ。彼らはデジタルカメラやスキャナーなどで画像を取り込み、それらを増殖・分裂させたり、ほかの画像と合成したり、別な媒体に上書きしたり、3D化したりする。そんなリミックス的な「写真」作品は、2010年代以降、どうやら日本だけでなく世界中に広がりつつあるようだ。
横田大輔も、デジタル化以降の写真表現の拡張と加速化を、最前線で推し進めようとしている一人である。だが、彼の作品には「テーブル・マジック」(シャーロット・コットン『写真は魔術 アート・フォトグラフィーの未来形』(光村推古書院、2015))のような小手先の操作が目につくほかの作家たちとは、やや違った肌触りを感じる。それは、今回G/P galleryで展示された新作「MATTER」にもあらわれていた。「MATTER」は2015年に中国・アモイで開催されたJimei X Arles国際写真フェスティバルに出品したロール紙に出力した大量の写真を、展示終了後に空き地で焼却するというパフォーマンスの記録である。その経過は約4,000カットの画像データとして残されたが、横田はそれらを再び紙にモノクロームで出力し、ワックス加工したうえで、皺くちゃに丸めてギャラリーの床の上に撒き散らし、積み上げた。ほかに動画による記録映像や、炎上の様子をカラー画像で出力した写真も展示されていた。
出力、再出力を繰り返すことで、元の現実とヴァーチャルな現実との境目が消失し、ただの「情報」と化していくプロセスへのこだわりは、「ポスト・インターネット」世代のほかの写真家、アーティストたちとも共通している。だが、横田は写真画像の変換・加工を、無制限に自由な移行とは考えていない。ぎくしゃくとして無骨な彼のインスタレーションには、自らの身体性の限界、情報化し切れない写真画像の物質性(肉体性)に対する、圧倒的に過剰なこだわりがある。横田は赤石隆明との対談で「制限や負荷って重要なんだと思う。鬱屈したり、欠落した何かからしか表現は生まれないから」(『invisible man/ magazine 05: TRANS#1』G/P GALLERY, 2016)と語っている。小林健太との対談では「壊れた状態からしか何かを見出せなくなってるのかも」(同)と述べる。このような切実な「現実」感覚は貴重であり、信頼できる。彼の、一見写真から遥か遠く離れたもがきこそが、「写真家」の本質的なあり方を体現しているのではないか。

2016/09/10(土)(飯沢耕太郎)

森村泰昌展 「私」の創世記

会期:2016/09/02~2016/11/06

MEM(3F/2F)、NADiff Gallery[東京都]

森村泰昌の「80年代から90年代にかけての初期の白黒写真に焦点を絞った」展覧会である。
全体は3つのパートに分かれ、第1部「卓上の都市」(MEM 3F、前期9月2日~10月2日、後期10月4日~11月6日)には、小さなオブジェを卓上に組み上げて撮影した「卓上のバルコネグロ」のシリーズ(1984~85年)が展示されていた。まだセルフポートレートに移行する前の、写真表現の可能性を模索している段階の初期作品だが、細部の作り込みと、画像形成のプロセスへのこだわりには、後年の森村の志向性がすでにくっきりとあらわれている。前期の展示では、2007年の金沢21世紀美術館の「コレクション展Ⅱ」のときに制作された、サイコロを組み合わせたオブジェの平面画像を3Dプリンタで3次元化した作品も出品されていた。
第2部「彷徨える星男」(MEM 2F、9月2日~10月2日)は、ニューヨーク時代のマルセル・デュシャンの、頭を星型に剃り上げるパフォーマンスをマン・レイが記録した写真を下敷きに制作された映像作品《星男》(1990、13分15秒)と、90年代に撮影されたマン・レイ関連のセルフポートレート作品の展示。デュシャンやマン・レイへの手放しのオマージュとして、大阪・鶴橋のアトリエで頭を剃り、京都の街中をさまよう森村のパフォーマンスには、いつもの批評意識が完全に欠落した奇妙な切実感がある。
第3部「銀幕からの便り」(NADiff Gallery、9月2日~10月10日)では、90年代以降に森村が制作した記録映像作品を集成していた。2002年に川崎市市民ミュージアムで開催された個展「女優家Mの物語」のジオラマ展示の前で繰り広げられたパフォーマンス「劇場としての「私」」の記録映像など、まさに森村の原点というべき作品群である。
これら「プレ森村」というべき時期の、写真を中心とした仕事を見ると、一人のアーティストが自分の作品世界の成り立ちを明確に自覚し、それを解体=構築しつつさらに先へと進んでいこうとした転換期の様相が、くっきりとかたちをとっていることがわかる。そういえば、2016年4月~6月に国立国際美術館で開催された「自画像の美術史──「私」と「わたし」が出会うとき」展にも、「自伝」を参照しようとする身振りがあらわれていた。森村はいま、自らの過去を、ブーメランのように未来へと投げ返す作業に着手しつつあるのかもしれない。

2016/09/10(土)(飯沢耕太郎)

公文健太郎「耕す人」

会期:2016/08/25~2016/10/11

キヤノンギャラリーS[東京都]

公文健太郎は1981年、兵庫県生まれのドキュメンタリー写真家。1999年にネパールを訪れて以来、ブラジルやセネガルなどにも長期滞在し、被写体になる人々との個人的な関係に根ざしたドキュメンタリーのあり方を模索してきた。今回キヤノンギャラリーSで開催された「耕す人」では、一転して北海道から沖縄八重山諸島まで、各地の農家を訪ね歩いて撮影を続けた。ブラジルの日系人農家まで足を伸ばしたのだという。2013~15年にかけて撮影された本シリーズから浮かび上がってくるのは、後継者に悩み、TPP参加の問題に翻弄される現代の農家の暮らしぶりであり、日本の農業環境のドラスティックな変化(むしろ解体、崩壊)の様相だった。公文の撮り方は決して肩肘張ったものではなく、軽やかなスナップ写真のスタイルだが、農業を取り巻く現場の危機的な状況は切々と伝わってくる。作業中の農民たちの「身振り」を抽出する視点の取り方も、とてもうまくいっていた。
気になったのは写真展示のインスタレーションである。会場は観客同士が知らずにぶつかりそうになるほど暗く、小さめの写真が壁にほぼ一列に並んでスポットライトで照らし出されている。プリント自体もやや暗めなので、画像の細部の情報を読み取るのはとてもむずかしい。しかも展示の総数は181枚とかなり多く、一点一点に目を凝らしながら会場を巡っていくのは、観客にかなりの負担を強いることになる。また、写真にはキャプションがないので、それがどこでどのように撮られたかは画面から想像するしかない。
公文は従来のドキュメンタリー写真とは一線を画した“表現”志向の強い展示を試みた。それは結果的にはうまくいかなかった。だが、僕はむしろこの失敗をポジティブに考えたい。今回は展示に過剰なバイアスがかかってしまったが、それをうまくコントロールできれば、写真による視覚伝達の新たな方向性が見えてくるのではないだろうか。なお、展覧会にあわせて平凡社から同名の写真集が刊行された。

2016/09/07(水)(飯沢耕太郎)