artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

コウノジュンイチ写真展 「境界」

会期:2016/08/01~2016/08/14

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

コウノジュンイチの写真との付き合いは長い。10年以上前に、ワークショップで彼の作品を講評・展示したことがあるし、2009年からは東京・新宿のギャラリー蒼穹舎でコンスタントに作品を発表するようになり、それらもほとんど見ている。その数もすでに10回ほどになっているという。だが、彼の写真について書こうとすると、どうもうまく言葉が紡げないように感じていた。ほとんどが旅の途上で撮影されたスナップ写真なのだが、これといった特徴をなかなか見出しにくかったからだ。だが、昨年日本国内で2004~2011年に撮影した写真をまとめて、写真集『ある日』(蒼穹舎、2015)を刊行したこともあり、少しずつスタイルが固まってきたようだ。
今回の展示作品(四切カラー、38点)は香港、マカオ、台湾、中国などで2011~12年に撮影されたもので、例によって都市の路地から路地へと彷徨いながらシャッターを切っている。旅の非日常性をなるべく出さないように配慮しているようで、逆にその「メリハリのなさ」がコウノの旅写真の特徴といえる。カメラに視線を向けている人物が1人もいないのも、かなり意識的な操作だ。つまり、なるべく自分の気配を消すように撮影しているので、写真を見るわれわれは、コウノの視線と同化してその場面にすっと入り込むことができる。さりげないようで、高度に吟味されたシークエンスの連なりといえるだろう。もうひとつ特徴的なのは、画面の暗部(影、陰)の処理の仕方で、被写体のディテールを潰すか出すかのギリギリの選択がなされている。コウノはカラープリントの自家処理にこだわり続けているが、色味の調整や明暗表現に繊細な神経を働かせているのが伝わってくる。
コウノのどちらかといえば地味な写真群は、華やかなスポットライトを浴びることはないかもしれないが、いぶし銀の輝きを放ちはじめている。日本国内の写真と海外の写真は、いまのところ別々の枠組みで発表されているが、それらがいつか融合してくることもありそうだ。

2016/08/03(飯沢耕太郎)

第32回東川町国際写真フェスティバル2016

会期:2016/07/26~2016/08/31

東川町文化ギャラリーほか[北海道]

今年も北海道東川町で「東川町国際写真フェスティバル」(通称、東川町フォトフェスタ)が開催された。もう32回目ということで、長年にわたって企画を継続してきた行政や町の方々の地道な努力に敬意を表したい。このところの充実した展示を見ると、その成果は着実に実を結びつつあるのではないかと思う。
東川町文化ギャラリーで作品展(7月30日~8月31日)が開催された第32回東川賞の受賞者たちの顔ぶれは以下の通りである。海外作家賞:オスカー・ムニョス(コロンビア)、国内作家賞:広川泰士、新人作家賞:池田葉子、特別作家賞:マイケル・ケンナ(イギリス→アメリカ)、飛騨野数右衛門賞:池本喜巳。毎回、東川賞のラインナップを見ていて思うのは、審査員(浅葉克己、上野修、笠原美智子、楠本亜紀、野町和嘉、平野啓一郎、光田由里、山崎博)が、広く目配りをしつつ、新たな角度から写真の世界を見直していこうとする人選をしていることだ。今回の受賞者でいえば、オスカー・ムニョスや池田葉子がそれにあたる。写真以外にも版画、ドローイング、映像作品、彫刻など多様な媒体で仕事をするアーティストであるムニョスの、画像や文字が水に溶け出したり、手のひらに溜まった水に自分の顔が映り込んだりする作品は、ある意味、東洋的な無常観を表現しているようでもある。池田葉子の三次元空間を、ボケや光の滲みのような写真的なフィルターを介して二次元平面に置き換えていく、多彩で軽やかな手つきもとても印象的だった。彼らのような、あまり日本では評価されてこなかった写真作家にスポットを当てていくことに、東川賞の大きな意義があると思う。
受賞作家作品展以外にも、さまざまな催しが行なわれた。そのなかでは、昨年に続いて廃屋になった商店の建物で開催された「フォトふれNEXT PROJECT」展(南町一丁目ギャラリー)が面白かった。「フォトふれ」(フォトフェスタふれんず)というのは、過去のフォトフェスタにボランティアとして参加したメンバーたちのことで、今年の展示にはフジモリメグミ、伯耆田卓助、堀井ヒロツグ、正岡絵里子が参加している。このうち正岡絵里子は、やはり今年のフォトフェスタの企画である「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」にも参加し、グランプリを受賞した。10年間かけて、生と死のイメージを共存させた厚みのある作品世界を作り上げた正岡をはじめとして、それぞれ「NEXT」が大いに期待できそうだ。同会場では、やはり「フォトふれ」の一人で、東川町にアーティスト・イン・レジデンスで参加した石川竜一(2015年に第40回木村伊兵衛写真賞を受賞)も作品を出品していて、クオリティの高い展示空間になっていた。

2016/07/30(土)(飯沢耕太郎)

馬場磨貴「We are here」

会期:2016/07/23~2016/08/07

OGU MAG[東京都]

1996年に「ふたり」で第33回太陽賞の準太陽賞を受賞し、朝日新聞社写真部勤務やフランス・アルル留学の経験もある馬場磨貴(うまばまき)は、現在フリーランスの「マタニティーフォトグラファー」として活動している。妊婦をヌードで撮影し始めたのは2010年からだが、東京・東尾久のギャラリーOGU MAGUで開催された個展「We are here」を見ると、撮り方、見せ方が大きく変化してきたことがわかる。
当初は撮影した妊婦の画像を、街の日常的な光景にはめ込んでいた。駐車場や横断歩道や歩道橋にヌードを配する写真群もかなり面白い。だが、それらはまだ、画面に異質な要素を対置する異化効果のレベルに留まっていた。ところが、東日本大震災をひとつの契機として、作品の発想がまったく変わってくる。妊婦は怪獣並みに巨大化し、風景に覆いかぶさるようにコラージュされるようになる。しかも、彼女たちの背景になっているのは、ビル街や東京ドームだけではなく、福島原発事故現場近くの立ち入り禁止地域のゲート周辺、福井県の高浜原子力発電所、広島の原爆ドームなどである。
馬場の意図は明らかだろう。妊婦という生命力の根源のような存在を「社会的風景」に組み込むことで、単純なヴィジュアル・ショックを超えた政治性、批評性の強いメッセージを発するということだ。その狙いはとてもうまくいっていると思う。堂々とした妊婦たちの存在感が、風景に潜む危機的な状況を見事にあぶり出している。残念なことに、会場が狭いのと作品数がやや少ないので、このシリーズの面白さを充分に堪能するまでには至らなかった。どこか、もう一回り大きな会場(野外でもいいかもしれない)での展示を、ぜひ考えていただきたい。なお、赤々舎から同名のハードカバー写真集(表紙のデザインは3種類)が刊行されている。

2016/07/23(土)(飯沢耕太郎)

ミロスラフ・クベシュ「人間よ 汝は誰ぞ」

会期:2016/06/22~2016/07/30

gallery bauhaus[東京都]

1927年にチェコ南部のボシレツに生まれたミロスラフ・クベシュは、プラハ経済大学で哲学を教えていたが、68年のソ連軍のプラハ侵攻後に職を追われる。以後、年金生活に入るまで、煉瓦職人や工事現場の監督をして過ごした。1960年代以降、アマチュア写真家としても活動したが、2008年に亡くなるまで、あまり積極的に自分の作品を発表することはなかったという。その後、ネガとプリントを委託したプラハ在住の写真家、ダニエル・シュペルルの手で写真が公表され、2010年には写真集(KANT)も刊行された。今回のgallery bauhausでの個展は、むろん日本では最初の展示であり、代表作57点が出品されている。
生前はほとんど作品を発表することなく、死後に再評価された写真家としては、アメリカ・シカゴでベビーシッターをしながら大量の写真を撮影したヴィヴィアン・マイヤーが思い浮かぶ。クベシュもマイヤーも、6×6判の二眼レフカメラを常用していたことも共通している(クベシュが使用したのはチェコ製のフレクサレット)。だがその作風の違いは明らかで、クベシュの写真には、マイヤーのような、獲物に飛びかかるような凄みやあくの強さはない。広場や公園や水辺で、所在なげに佇む人物に注がれる視線は、どちらかといえば穏やかであり、屈託がない。クベシュは生前に発表した写真評論で「自分の中に稀有なものをもち得ない人間はいない。その何かのために僕たちは彼を好きにならずにはいられない」と書いているが、その誠実で肯定的な人間観は、彼の写真に一貫している。とはいえ、チェコにとっては苦難の時代であった1960~70年代の暗い影は、明らかに彼の写真にも浸透していて、人々の表情や仕草に複雑な陰影を与えている。チェコ人だけでなく、この時代を知る誰もが、彼の写真を見て、懐かしさと同時に微かな痛みを感じるのではないだろうか。チェコには彼のほかにも「埋もれている」写真家がいそうだ。ぜひ、別の写真家たちの作品を見る機会もつくっていただきたい。

2016/07/23(土)(飯沢耕太郎)

クロダミサト「美しく嫉妬する」

会期:2016/07/22~2016/08/07

神保町画廊[東京都]

2009年に写真新世紀展でグランプリを受賞したクロダミサトは、2010年から撮影しはじめた新シリーズを、11年に写真集『沙和子』(リブロアルテ)として刊行した。京都造形芸術大学時代からの友人をモデルに、あえて男性向けのヌード雑誌風のポーズをつけたこのシリーズは、大きな反響を呼ぶ。それから6年余り、写真家もモデルも30歳になって、あらためて「女が女を撮る」ことの意味を再確認するために撮り下ろされたのが、今回の「美しく嫉妬する」である。
実家のある三重県と東京で撮影された新作は、『沙和子』とはかなり肌合いが違う。若さが弾けるような勢いは薄れ、無理なポーズをつけることもなくなった。「そこにいる」モデルを自然体で受け入れ、どちらかといえば記念写真のようにそっけなく撮影している。どうやら表現よりも記録(ドキュメント)という要素が強まってきているようだ。つまり、彼女たちにとって、ヌードを撮り─撮られるという関係の持ち方は、むしろ日常的なものになりつつあるということだが、これは諸刃の剣になりかねない。ヌードであることの非日常性が失われていくことによって、以前の緊張感や高揚感が弛んでいってしまうからだ。そのあたりのバランスをうまくとりながら、ぜひこの先も長く撮り続けていってほしいと思う。
なお、日本カメラ社から同名の写真集(展示とは1点を除いて別カット)が刊行されている。こちらは「女同士の二人旅」の途中で撮影されたという雰囲気がより強まっている。

2016/07/22(金)(飯沢耕太郎)