artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
彦坂尚嘉「FLOOR EVENT 1970」
会期:2016/09/09~2016/10/29
MISA SHIN GALLERY[東京都]
彦坂尚嘉は1970年に、自室の八畳間と縁側に工業用ラテックスを流し込み、そのプロセスを記録するというパフォーマンスをおこなった。彦坂が所属していた美術家共闘会議(美共闘)は、この頃「1年間、美術館と画廊を使用せずに、おのおの1回ずつ有料の美術展を開催する」というプロジェクトを展開しており、この「FLOOR EVENT」もその一環として企画されたものである。彦坂が全裸でラテックスを撒く作業は、友人のアーティスト小柳幹夫が補助し、その様子を現代音楽家の刀根康尚が彦坂の用意したカメラで記録した。その後、彦坂自身が、ラテックスが乾いて、乳白色から透明になっていく過程を撮影している。ラテックスは10日後に床から剥がされた。
小柳と刀根以外は観客なしで、ひっそりと行なわれたこのパフォーマンスは、だが写真によって記録されることで、「アート作品」として自立していくことになる。翌71年には、第1回美共闘Revolution委員会のプロデュースで、記録写真による個展が開催されており、今回のMISA SHIN GALLERYでの展示には、ヴィンテージ・プリントと個展の案内ハガキが出品されていた。前衛アーティストたちの、体を張ったパフォーマンスの記録は、当時の空気感をいきいきと伝えてくれるだけでなく、一過性のイベントをアート作品として成立させるために、写真メディアが不可欠の役割を担っていることを明らかにする。この作品だけでなく、羽永光利や平田実による1960~70年代の前衛美術家のパフォーマンスの記録写真が注目を集めているのは、単にその資料的な価値というだけではないはずだ。パフォーマンスを画像として封じ込める写真が、むしろその行為の意味を補強・増幅し、魔術的なイメージに変換するのに一役買っているということだろう。
2016/09/23(金)(飯沢耕太郎)
須田一政写真展「Hitchcockian」
会期:2016/09/04~2016/09/25
須田一政の作品に、このところTVの画面を写したものが増えてきていると感じていたのだが、どうやらその傾向はかなり前から始まっていたようだ。今回、東京・四谷のGallery Photo/synthesisで開催された須田の個展に展示されていたのは、「2006年に制作されたまま発表されることなく眠っていた」シリーズである。タイトルが示すように、この連作はサスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督に捧げられている。
須田はヒッチコック映画の大ファンで、彼の作品を飽きることなく、何度も繰り返し見ているようだ。須田に言わせれば、そこには偶然はなく、「コーヒーカップ一つにも暗示的な意味を持たせ、見る側は無意識に彼の仕掛けにはめられる」。写真を使って、その「仕掛け」の分析を試みるというのが、このシリーズのもくろみであり、具体的にはTVの画面に映し出されたヒッチコック映画の映像の断片を、そのままカメラ複写して提示している。その数は230点以上、ヒッチコック映画の名作の数々が、須田の独自の視点で切り取られ、大小の写真にプリントされて、ギャラリーの壁全面に、撒き散らされるように展示されていた。
一言でいえば、ヒッチコック映画の魅力とは、ストーリーの細部への異様なこだわりと、そこに登場してくる小物から匂い立つ、濃密なフェティシズムの香りだろう。須田も、彼なりのこだわりを持ってヒッチコックに対抗し、写真による再構築を試みている。だが、結局のところ「私たちは見ていたものがヒッチコックの脳の内部だったことを思い知る」ことになる。写真を見るわれわれは、須田の導きでその「ヒッチコックの脳の内部」を彷徨うという、不穏ではあるが、どこか甘美でもある旅を体験することができる。そこには、もっと長くそこにいたいと思わせる、じつに蠱惑的な空間が成立していた。
2016/09/22(木)(飯沢耕太郎)
横浪修「Assembly & Assembly Snow」
会期:2016/09/02~2016/10/08
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
2010年頃から開始された横浪修の「Assembly」は、5~9人くらいの少女たちの集団を、やや距離を置いて撮影したシリーズである。彼女たちは、全員同じ服装をしており、輪をつくったり、整列したり、行進したりしている。遠いので顔はほぼ見えず、共通の儀式めいたポーズをとっていることもあって、どこか謎めいた印象を与える、個ではなく、集団としてのありように観客の注意を向けようとする、かなり珍しい種類のポートレート作品といえるだろう。
今回のEMON PHOTO GALLERYでの個展では、それに加えて新作の「Assembly Snow」のシリーズが展示されていた。前作が「個々の集まりを俯瞰することで、集合としての強さ」を引き出すことを目指していたのに対して、新作では「個々が重なり、溶け合う事でひとつになる」ことに集中している。少女たちをモデルにしている点では同じだが、雪や氷の上でポーズをとる少女たちが、スローシャッターでブレて写っていることで、より抽象的な色の塊のように見えてくる。伸び縮みする有機的なフォルムと化した少女たちの姿は、「Assembly」シリーズが新たな段階に入ったことを示していた。
とはいえ、このシリーズは、いまのところはセンスのいい「カワイイ」イメージの集合体に留まっている。「Assembly」の表現には、それ以外の、より不気味でビザールな要素を取り入れることもできそうな気がするが、どうだろうか。例えば制服姿の女子高生7人が、川の中で輪になって手をつないでいる作品(「No. M_1」2015)などに、その片鱗が見えるのではないかと思う。
2016/09/21(水)(飯沢耕太郎)
津田直「IHEYA・IZENA」
会期:2016/08/19~2016/09/17
POST[東京都]
津田直が辺境の地の人々の暮らしや儀礼を「フィールドワーク」として撮影するシリーズも、「SAMELAND」(2014)、「NAGA」(2015)に続いて「IHEYA・IZENA」で3作目になる。そのたびに、東京・恵比寿のPOSTで写真展が開催され、同名の写真集(デザイン・田中義久)が刊行されてきた。
今回、津田が撮影したのは沖縄本島北西部に位置する伊平屋島と伊是名島。2012年から福岡に住むようになったのをきっかけにして、沖縄を訪ねる機会が増え、本シリーズが少しずつかたちをとっていったという。北欧の住人たちを撮影した「SAMELAND」や、ミャンマー奥地のナガ族を取材した「NAGA」は、それほど長くない旅の時間から産み落とされてきたシリーズだが、「IHEYA・IZENA」は何度も島を訪れ、じっくりと熟成させていったものだ。その分、写真の構成に厚みが増し、信仰と深く結びついた住人たちの暮らしの細部が、鮮やかに浮かび上がってきた。「三部作」の掉尾を飾るのにふさわしい充実した写真群といえる。
津田の「フィールドワークシリーズ」は、これで一応完結ということだが、世界中に足跡を記す彼の写真家としての旅は、これから先もずっと続いていくのだろう。だが、そろそろ彼の世界観、写真観をもっと強く打ち出していかなければならない時期に来ているのではないかと思う。これまでの彼の写真シリーズは、それぞれの旅の目的地ごとにまとめられることが多かった。断片的に情報を提示していくのではなく、それらを統合する思考と実践の軸が必要になってきている。かつて『SMOKE LINE』(赤々舎、2008)で試みたような、いくつかの場所をつないでいく、より大きな視点の取り方が求められているのではないだろうか。
2016/09/14(水)(飯沢耕太郎)
篠山紀信展 快楽の館
会期:2016/09/03~2017/01/09
原美術館[東京都]
事前の予想と実際の展示が、これほどぴったり一致する展覧会もむしろ珍しい。篠山紀信が東京・品川の原美術館を舞台にヌード写真展を開催すると聞いたとき、こんなふうになるのではないかと想像した通りの展示が実現していた。
1938年建造という個人住宅を改装した原美術館の、敷地内のあちこちで撮影されたヌード写真が、ほぼ等身大に引き伸ばされて、撮影場所やその近くに貼り付けてある。マネキン人形のようにポーズをとったり、飛んだり跳ねたりしている彼女たち(男性モデルもいる)は、大部分がプロフェッショナルなヌードモデルだろう。ポーズや表情は自然で、裸を見られることに慣れきっている様子がうかがえる。彼女たちをコントロールし、画面におさめていく篠山の手つきも、まったく破綻がない。これまで長年にわたって積み上げられてきた、ヌードを撮る、見せるテクニックが惜しみなく注ぎ込まれ、観客を充分満足させる画像が提供されている。実際に通常の展示よりも、観客数は大幅に伸びているようだ。
ただ、ここまで「想定内」の展示を見せられると、「これでいいのか」と無い物ねだりをしてみたくなってくる。かつて、ヌードを撮る、見せることは、ショッキングで挑発的な行為だった。むろん、篠山のヌード表現が輝きを放っていた1970~80年代の状況を、いま再現するのは不可能なことだ。それでも今回の展示は、写真家も、モデルも、観客も、安全地帯を一歩も出ずに、安心し切ってまどろんでいるようにしか見えない。有名モデルが乳首や陰毛を露出できないのはわかるにしても、やり方次第では、もう少し意表をついた、スリリングな展示も可能だったのではないだろうか。
2016/09/14(水)(飯沢耕太郎)