artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

記憶の円環|榮榮&映里と袁廣鳴の映像表現

会期:2016/07/23~2016/09/19

水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]

今年4月に急逝した水戸芸術館現代美術センター芸術監督、浅井俊裕氏の遺作となった本展は、東アジアの「映像表現」の現在を問い直す重要な展覧会となった。
榮榮&映里(ロンロン・アンド・インリ)は、2000年から中国人と日本人のカップルで活動している写真家ユニット。自分たちが住んでいる場所と、彼らと3人の息子たちの家族のあり方とを重ね合わせ、身体性を強調した写真作品として提示する。今回は「六里屯」(第1部 1994~2000、第2部 2000~2002)、「草場地(2004~2012)、「三影堂」(2006~2008)、「妻有物語」(2012~2014)の4シリーズが展示されており、彼らの関係がそれぞれの土地に根ざしつつ次第に深まり、成熟していくプロセスが、静かに浮かび上がってくる構成になっていた。
袁廣鳴(ユェン・グァンミン)の映像作品のパートは、より衝撃的だった。袁は台湾のビデオアートの先駆者として1980年代から活動してきたアーティストだが、近作では一見繁栄しつつあるようで、底深い危機感や不安感を抱え込んでいる東アジアの政治、経済、文化の状況を踏まえたテンションの高い作品を発表するようになってきている。平和に静まりかえったリビングルームがいきなり爆発する「住まう」(2014)、亡霊のような人物たちが闇の中から出現し、手を挙げて一斉にこちらを指差す「指を差す」(同)、さらに「3・11」を踏まえて、台湾の原子力発電所をテーマに制作した「エネルギーの風景」(同)など、日常と非日常を滑らかに、だが恐るべき強度でつないでいく袁の映像構築力の凄みを、まざまざと味わわせてくれる傑作ぞろいだった。
これらの「映像表現」を目にすると、東アジアの写真家や映像作家たちの関心が、明らかに個と社会との抜き差しならぬ関係、身体の政治性に向き始めていることがわかる。翻って、日本のアーティストたちはどうだろうか。あまりにもそれらの問題に鈍感で能天気なのではないだろうか。

2016/09/06(火)(飯沢耕太郎)

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山本雅紀×平良博義×瀬頭順平写真展

会期:2016/09/03~2016/09/17

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

ZEN FOTO GALLERYで2015年6月に個展「鑑と灯し火」を開催した布施直樹がキュレーションした3人展。彼がここ1年余りで出会った写真家たちの中から「普段コマーシャルギャラリーや写真雑誌の製作現場の視点からは見過ごされがちな」3人の写真家たちの作品を選んで展覧会を構成した。
山本雅紀(1989- 兵庫県生まれ)は「ハラワタ」で彼の家族たちとの混沌とした日常に肉薄し、平良博義(1987- 東京都生まれ)は「日々の川」で彼がたまたま荒川河川敷で出会ったホームレスの人たちの暮らしぶりを記録する。瀬頭順平(1978- 埼玉県生まれ)は「西海岸」で兵庫県須磨近辺の海水浴場に群れ集う若者たちをスナップしている。それぞれ方向性は違っているが、「身体的に写真に接し……被写体となる生身の人々の声、その時の写真家と人々との関係、感情を肌で感じ取れる」(布施によるコメント)ということでは共通している。だが、これから先がむずかしくなりそうだ。さらにステップアップしていくためには、闇雲に写真の数を増やすだけではなく、どのように写真をまとめていくかを、よりクリアーに確定していく必要がある。テキストと写真との関係をどのように構築するのかも課題になる。また、3人ともモノクローム作品なのだが、「なぜモノクロームなのか?」を一度きちんと考えてみるべきだろう。ぜひ写真集の刊行、あるいは個展の開催をめざして、写真のクオリティを上げていってほしいものだ。
3人の写真家の作品展示のほかに、「8名の新人作家によるブック形式ポートフォリオ展」も併催されていた。コマーシャルギャラリーとしてはかなりユニークな企画である。何度か続けていくと、思いがけない大物が登場してきそうな気もする。

2016/09/03(土)(飯沢耕太郎)

友人作家が集う──石原悦郎追悼展“Le bal” Part1-maestoso

会期:2016/09/03~2016/10/05

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

オーナーの石原悦郎(1941~2016)の逝去にともなって、1978年にオープンした写真プリント販売ギャラリーの草分け、ツァイト・フォト・サロンが幕を下ろすことになった。その最後の展示として、12月まで3期にわたって「“Le bal”」展が開催される。これまでツァイト・フォトが開催した展覧会は400近く、かかわった写真家(美術家)は100名以上にのぼる。今回の「Part1-maestoso」展には64名の写真家たちが出品しているのだが、その顔ぶれを見ているだけで、このギャラリーが日本現代写真の展開に果たしてきた役割の大きさがわかる。出品作家は以下の面々である。
1ロベール・ドアノー、2築地仁、3丹野章、4畠山直哉、5小野祐次、6林隆喜、7ベルナール・フォコン、8中川政昭、9小石清、10クッチオーニ、11細江賢治、12服部冬樹、13アキ・ルミ、14ウィリアム・クライン、15荒木経惟、16ジョック・スタージェス、17ハナブサリュウ、18杉浦邦恵、19沈学皙、20北井一夫、21渡辺兼人、22富谷昌子、23杉本博司、24アドルフ・ブラウン、25吉川富三、26ルイジ・ギッリ、27ウジェーヌ・アジェ、28ゲイリー・ウィノグランド、29青木野枝、30ロバート・メイプルソープ、31小林秀雄、32木村伊兵衛、33モーリス・タバール、34市川美幸、35鈴木涼子、36屋代敏博、37柴田敏雄、38廣瀬忠司、39松江泰治、40尾仲浩二、41荒井浩之、42木之下晃、43安斎重男、44橋本照嵩、45山崎博、46先間康博、47佐藤時啓、48小瀧達郎、49アンドレ・ケルテス、50小林のりお、51金村修、52筑紫拓也、53松本路子、54楢橋朝子、55オノデラユキ、56佐野陽一、57浦上有紀、58藤部明子、59須田一政、60蔵真墨、61渡辺眸、62鷹野隆大、63ロバート・フランク、64神蔵美子。
これらの写真家たちの作品がアトランダムに壁に並ぶ様は壮観であり、それぞれの個展のシーンがよみがえってくる。ツァイト・フォトの閉廊の痛手は、むしろこれから先にじわじわと広がっていくのではないだろうか。なお「“Le bal”」展の「Part2-scherzo」は10月11日~11月12日に、「Part3-adagio cantabile」は11月18日~12月22日に同会場で開催される。

2016/09/03(土)(飯沢耕太郎)

杉本博司 ロスト・ヒューマン

会期:2016/09/03~2016/11/13

東京都写真美術館[東京都]

2年間の休館を経て、東京都写真美術館がリニューアル・オープンした。英語の名称がTokyo Metropolitan Museum of PhotographyからTokyo Photographic Art Museum(TOP MUSEUM)に替わった。エレベーターが2台に増え、展示室も改装され、より快適な環境での作品鑑賞が期待できそうだ。そのこけら落としとして2階展示室、3階展示室で開催されたのが杉本博司の「ロスト・ヒューマン」展(地下1階展示室では「世界報道写真展2016」を開催)。リニューアル・オープン展以外にはまず考えられない予算と時間をかけて、凝りに凝った大規模展を実現した。
3階展示室の「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は、2014年にパリのパレ・ド・トーキョーで開催された同名の展覧会をバージョン・アップしたものである。「理想主義者」、「比較宗教学者」、「養蜂家」から「国土交通省都市計画担当官」、「自由主義者」、「コメディアン」に至る、世界の終わりを記述した33のテキストにあわせて、トタン張りの小室をしつらえ、そこにさまざまな収集品、書籍、歴史資料、自作の写真作品などを配置している。質の高いコレクションとよく練り上げられたインスタレーションは圧巻であり、「漁師」のパートに展示された「歌い踊るロブスター」や、マルセル・デュシャンの「遺作」を意識した「ラブドール・アンジェ」の部屋など、絶妙な諧謔味もまぶされている。視覚的なエンターテインメントの展示として、上々の出来映えといえる。
2階展示室の「廃墟劇場」、「仏の海」では、一転して写真のテクニックの極致というべき作品を見せる。「廃墟劇場」は杉本の代表作である上映中の映画館のスクリーンを長時間露光で白く飛ばして撮影した「劇場」シリーズの延長上にある作品である。見捨てられて廃墟になった映画館で撮影するというコンセプトは、3階展示室のインスタレーションと呼応している。「仏の海」は京都・三十三間堂の千手観音像を、早朝の自然光で撮影した写真群で、8×10インチカメラの緻密な描写力で「荘厳の内に西方浄土が顕現する」瞬間を写し止めている。
これらの展示を見て、どうしても考えてしまったのは、写真美術館、そして写真という媒体が、この先どうなっていくのかということだ。リニューアル・オープン展には、今後の写真美術館の方向性が、メッセージとして託されていると考えるのは当然だろう。杉本の「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は、もはやコントロール不可能な現実世界(仮想現実も含めて)に撮影という行為を通じてかかわり、そこから新たなヴィジョンを引き出してくる「写真」の営みからは遠く隔たったものだ。それは彼の内なる構想(むしろ「妄想」)を、手際よく組み上げたインスタレーションであり、観客は杉本の掌の上を連れ回され、目の前に繰り広げられる仮想的現実に驚嘆することを強いられる。先に述べたように、展示の出来映えは見事なものだが、それは「写真のこと」ではないだろう。東京都現代美術館や国立国際美術館ではなく、東京都写真美術館がリニューアル展示として開催するのにふさわしい企画であったのかという点については、疑問を呈しておきたい。

2016/09/02(金)(飯沢耕太郎)

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セレステ・ウレアガ/カクガワエイジ「doble mirada 2つの視点、そこから見える未来へ」

会期:2016/09/01~2016/09/04

ニューロ吉祥寺[東京都]

セレステ・ウレアガはアルゼンチン・ネウケン出身の写真家、ビジュアルアーティスト。ブエノスアイレスでスタジオ390を運営し、ロックミュージシャンのポートレートやオーディオビジュアル作品を中心に制作・発表している。彼女は2015年に来日し、東京・麹町のセルバンテス文化センターで写真展「アルゼンチンロックのポートレート」を開催した。そのとき、石黒健治の写真ワークショップ「真眼塾」を主催しているカクガワエイジと知り合い、意気投合したことが、1年後の二人展に結びついた。
吉祥寺・井之頭公園近くの会場には40点の写真が2列に並んでいた。上下2枚の写真のうちどちらかがウレアガかカクガワの写真だが、作者名は明記されていない。「愛、生、死」など漠然としたテーマ設定はあるが、写真の選択はかなり恣意的に見える。モノクロームあり、カラーあり。ウレアガのアルゼンチンの写真と、昨年の来日時に日本で撮影した写真が混じり合っており、カクガワも日本だけではなく、パリ、ロンドン、フィンランドなどでも撮影している。まさにカオス状態が出現しているのだが、それでも自ずとアルゼンチン人と日本人の写真を介したコミュニケーションのあり方の違いが浮かび上がってくるのが興味深かった。会場の最初のパートに展示された2枚の写真が象徴的だろう。「閉じたドア」(カクガワ)と「開いた目」(ウレアガ)である。それらはコミュニケーションの回路が内向きに閉じがちな日本と、底抜けに開放的なアルゼンチンの状況を明瞭に指し示している。
このような異文化交流は、継続していくことでさらなる実りを生むのではないだろうか。まったく正反対にかけ離れているからこそ、刺激的な出会いもありそうだ。次はぜひ「地球の裏側の国」アルゼンチンでも二人展を実現してほしい。

2016/09/01(木)(飯沢耕太郎)