artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

牛腸茂雄「こども」

会期:2013/09/24~2013/10/14

MEM[東京都]

牛腸茂雄の没後30年記念企画の第二部として、「こども」展が開催された。白水社刊行の新編集写真集『こども』にあわせて、牛腸の写真集『日々』(1971)、『SELF AND OTHERS』(1977)、そして遺作となった『日本カメラ』(1983年6月号)掲載の「幼年の「時間(とき)」に発表された写真を中心に、彼の「こども」写真25点が展示されている。
大四つのバライタ印画紙(イメージサイズは約15・5×23センチ)に、牛腸の桑沢デザイン研究所時代の同級生、三浦和人氏によって引き伸ばされたプリントは、これまで写真集などで見慣れた写真とは少し印象が違う。白黒のコントラストがやや強まって、写真の細部がくっきりと目に入ってくるようになったのだ。そのことによって、牛腸の写真について常に語られてきた「はかなさ」や「揺らぎ」の印象が薄らぎ、むしろその強靭な構築力が露になってきたと言える。牛腸が写真家として、子どもたちから何を、どのように切り取り、引き出そうとしていたのかが、明確に見えてくるからだ。牛腸の写真は決して甘くも優しくもない。子どもたちに対する彼の姿勢も、どこか容赦ないところがある。もしかすると、子どもたちはモデルとして彼のカメラの前に立つことに、脅えや怖れすら感じていたのではないか。そんなことを、写真を見ながら考えていた。
今回MEMで展示された「見慣れた街の中で」と「こども」の写真は、2013年12月に大阪のThe Third Gallery Ayaに巡回する。だが、むろんこれで牛腸茂雄の写真についての検証が完了するわけではない。誰かまた、彼の写真の不思議な力に突き動かされる者が現われてくるのではないだろうか。

2013/09/28(土)(飯沢耕太郎)

高橋万里子「人形画」

会期:2013/09/24~2013/10/20

KULA PHOTO GALLERY[東京都]

2年半ぶりの個展だという。2011年3~4月、まさに東日本大震災が起こった時期に、高橋万里子はphotographers’ galleryとKULA PHOTO GALLERYで個展「Lonely Sweet/ Night Birds」を開催していた。スイーツの商品見本と鳥の剥製をややブレ気味にクローズアップで撮影した、いかにも高橋らしいミステリアスな雰囲気の作品だったのを覚えている。
今回展示された「人形画」は、それに比べるとかなり大きく変わってきている。被写体になっているのは、彼女の友人がフリーマケットで買い求めてきたというスイス製の民族人形。人形というテーマそのものは、高橋の写真にごく初期から登場してくるのでそれほど意外性はない。変わったのはその手法で、カラーコピーされた人形の写真の周囲はアクリル系の絵の具で黒く塗りつぶされ、顔の部分は色鉛筆で加色され、きのこのような形状の奇妙な帽子や衣服には、ファッション雑誌の一部を切り抜いてコラージュが施されている。しかもそれらの加筆、コラージュは一点だけでなく、ヴァリエーションとして増殖していく。高橋は東京造形大学造形学部デザイン学科でグラフィック・デザインを学んでおり、このような手法を用いるのは別に意外なことではない。だが、これまではあくまでも写真の味付けや装飾に留まっていたグラフィック的な要素が、今回のシリーズではより前面に押し出されてきている。
そのことを決して否定的に捉える必要はないだろう。1930年代の小石清、花和銀吾、平井輝七ら関西の前衛写真家たち、また1950年代に彗星のように登場して姿を消した岡上淑子らのフォト・コラージュ作品の系譜を、ぜひ受け継いでいってほしいものだ。

2013/09/24(火)(飯沢耕太郎)

伊丹豪「Study」

会期:2013/09/21~2013/10/03

POST[東京都]

伊丹豪は1976年、徳島生まれの写真家。2000年代以降、個展やグループ展への参加を中心に積極的に作品の発表を続けてきた。視覚的なセンスのよさは以前から際立っていたのだが、何を目指そうとしているのか、ややわかりにくいところがあった。ところが、8月にRONDADEから最初の作品集として刊行された『STUDY』と、それを受けて開催された東京・恵比寿のPOST(旧Lim Art)での同名の個展を見て、彼の写真の方向性がかなりきちんと定まってきたように感じた。
作品集は凝りに凝ったデザインワークによる造本で、最初に黄色の地に「Study/ Go Itami/ Born In Tokushima, Japan/ 1976」とのみ記されたページが50ページほど続き、その後でようやく写真のページが始まる。29点の写真はすべて縦位置で、最初の一点を除いては「上下2枚で写真が立ちあらわれるように」レイアウトされている。どうやら写真家よりもデザイナー、編集者主導の造本だったようだ。この写真集を踏まえた展示では、逆に「デザインの枠からふたたび写真が抽出」されることが目指されており、「1枚の写真、また、空間を支配する群れとして提出」されていた。確かに、伊丹本人の意図が、展示によってくっきりと見えてきたように見える。会場には作品を色面ごとに分解・分割して表示したサンプルも掲げられており、それを見るかぎり伊丹の関心は都市の街頭を色面の重なりとして再構築することだと思われる。ただ、写真集には室内に置かれた鉢入りの植物、液体の表面、重なり合った足(あるいは手)のクローズアップなど、異質な要素から成る作品もおさめられており、多様な方向に伸び広がっていく可能性を感じる。さらに「Study」を推し進めていくことで、より鮮明な世界像が浮かび上がってくるのではないだろうか。

2013/09/23(月)(飯沢耕太郎)

秦雅則「Thanksgiving on summerday?」

TS4312[東京都]

会期:2013年9月6日~29日(金、土、日曜のみ)

以前「秦雅則は不思議な生きものだ」と書いたことがあるのだが、今回東京・四谷三丁目のTS4312で展示された彼の新作を見て、その思いがさらに強まった。発想と、それを形にしていく手続きの両方に、独特の歪みとバイアスが働いているように感じるのだ。
今回のメインとなるDVD作品は、男女両性具有の二人の「神」を表象しているのだという。例によって何人かの男女の顔やボディをパソコン上で継ぎはぎし、ぎくしゃくとした動きを加えている。「神」の周囲には色鮮やかな花々が咲き乱れ、それらが生成と消滅をくり返している。反対側の壁に8組のポートレート作品が並ぶが、これもどうやら複数のモデルの顔のパーツを繋ぎ合わせたもののようだ。片方の顔は、やや苦しげで沈痛な表情が多いが、対になるもうひとつの顔の前には、「神」の周囲に咲いていた花が開き、笑顔や安らぎの表情に変わっている。それとは別に、なぜかメスとオスのグンジョウツノカミキリを一対にした作品も展示されていた。
これらの作品が何かの寓意を表現していることは確かだが、テキストがほとんどないので、解釈は鑑賞者にゆだねられている。とはいえ、秦が組み上げた「神や神らのいたずら」の物語に、奇妙なリアリティと説得力が備わっていることも確かだ。「神」にも人間たちにも、どこかで見たことがあるような既視感と、気味が悪いほどの生々しさがある。パソコンの画面上にのみ存在するこの神話空間を、もう少し緊密に創り続けていくと、とんでもないスケールの大きさを備えた作品世界が生まれてきそうな予感もする。

2013/09/15(日)(飯沢耕太郎)

瀬戸正人「Cesium/Cs-137」

会期:2013/09/11~2013/09/24

銀座ニコンサロン[東京都]

福島県出身の瀬戸正人は東日本大震災から約1年後の2012年2月に、大事故があった福島第一原子力発電所の敷地内に入った。フランスの環境大臣の視察があるというので、ある通信社の依頼で立ち入り禁止の区域内を撮影したのだ。その時、タイベックスーツのマスクごしに見た海辺の眺めは、「美しいといえばこの上なく美しい光景」だった。事故によって撒きちらされたはずの放射性物質(セシウムの量は約35キログラム、チェルノブイリ原発事故の約半分)が、まったく「見えない」ことにむしろ衝撃を受けた瀬戸は、その「恐怖なるモノを写真として可視化したい」と考えて、福島県内の山林、河川、田畑などにカメラを向けるようになる。今回銀座ニコンサロンで展示された「Cesium/Cs-137」(11月7日~13日に大阪ニコンサロンに巡回)は、それらの写真群を集成したものだ。
特に力が入っているのは、黒く縁取られた大判プリントに引き伸ばされた16点の作品で、水の底に沈む植物の根、地面に降り積もった落ち葉、枯れ木などがクローズアップで捉えられている。そこにはむろん、「眼に見える恐怖」の対象としてのセシウムの姿は影も形も見えない。だが、その腐敗臭が漂うような黒々とした眺めは、むしろ別の思いを引き出してくるようにも思える。水底へ、地の底へと止めどなく引き込まれ、われわれの世界を構成する物質そのものが形をとってくる場面に立ち会っているような、驚きとも恐怖ともつかない感情の湧出を、瀬戸自身が戸惑いつつ受け入れているようなのだ。
もう少し時を置かないとはっきりとはわからないが、写真家・瀬戸正人の転換点となりうるシリーズではないだろうか。なお展覧会に合わせて、Place Mから同名の写真集が刊行されている。

2013/09/15(日)(飯沢耕太郎)