artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

平川典俊「unión de…バラガン邸の完成」

会期:2013/06/22~2013/07/13

タカ・イシイギャラリー京都[京都府]

平川典俊の「unión de…バラガン邸の完成」は、これまでの彼の仕事とはやや異質な印象を与える作品だ。ニューヨーク在住の平川は1990年代以来、性的な抑圧からの解放をテーマとする挑発的な作品を発表し続けてきた。2012年に群馬県立近代美術館で開催された個展「木漏れ日の向こうに」では、性器や性行為を直接的に提示したり、ほのめかしたりする作品の何点かが、オープニング当日に主催者側によって撤去されるということもあったようだ。
ところが世界遺産にも制定されている、メキシコの建築家、ルイス・バラガンのメキシコシティの自邸を舞台に、中判カメラで撮影された本作は、端正なモノクローム・プリントによる古典的といっていいような風格を備えた作品だった。当地で公募したというダンサーたちは、バラガン邸の部屋の中や庭で、平川があらかじめ描いた絵コンテに従って、活人画を思わせるパフォーマンスを行なう。意表をついた視点の切り替えや、秘密の行為を覗き見るようなカメラ・アングルなどに、平川らしいたくらみは感じられるものの、いつもの猥雑さは影を潜めている。
むしろ今回の作品には、ある特定の空間において、そこにいる男女のパフォーマー(同時にそれを見る観客)の感情を増幅したり、重ね合わせたり、コントロールしたりする平川のあざといほどの「演出家」としての手際が、見事に発揮されているといえる。彼は自己の内面性よりは、彼以外の他者が社会環境からどのような影響を受け、どうふるまうのかに強い関心を抱くアーティストだ。写真や映像は、そんな平川の意図を実現するのに適したメディアなのだろう。なお本展で、タカ・イシイギャラリー京都は、隣接する小山登美夫ギャラリー京都とともに5年間の活動を終えて閉廊する。京都における現代美術の重要な拠点がなくなるのはとても残念だ。

写真:Noritoshi Hirakawa
Adriana and Alejandr, 2012
Silver gelatin print
Image size: 33 x 45 cm / 13 x 17.7 inches
Paper size: 40.6 x 50.8 cm / 16 x 20 inches
Courtesy of Taka Ishii Gallery, Tokyo

2013/06/22(土)(飯沢耕太郎)

横谷宣「森話」

会期:2013/06/05~2013/08/10

gallery bauhaus[東京都]

横谷宣がgallery bauhausで個展を開催したのは、2009年1月~2月だから、それからすでに4年以上が経っている。その間彼が何をしていたのかといえば、「印画紙を作っていた」のだという。前回の個展は口コミで評判を呼び、50点以上の作品が売れた。岡山在住の、ほとんど無名の写真家の展示としては、まったく異例のことといえる。横谷のセピア色にトーニングされたプリントは、調色、ニス塗りなどに時間がかかり、しかも水彩紙に乳剤を塗布した特殊な印画紙でしか焼けない。ところが、この印画紙が製造中止で手に入らなくなり、販売したプリントを制作するためには、自分で印画紙をつくるしかなくなってしまった。失敗を重ね、試行錯誤しているうちに4年以上の時間が過ぎてしまったというわけだ。いかにも徹底した完璧主義者の横谷らしいエピソードといえるだろう。
今回展示された「森話」のシリーズは、1点を除いてはすでに4年前にプリントが終わっていた作品だ。前回の「黙想録」は、手製のレンズを用いて、さまざまな被写体から、彼自身の「原風景」というべきイメージを抽出しようとする試みだった。それと比較すると、「森話」は1997年に3ケ月ほどの期間をかけて、東南アジアの国々で集中して撮影された写真群なので、シリーズとしてのまとまりがある。擬古典的なピクトリアリズムの再生に留まることなく、彼がその場所で感じとったリアリティを、できうるかぎり精密に定着していこうという志向は、このシリーズでも貫かれている。
ようやく印画紙製作という重荷から解放されたわけなので、横谷にはぜひ新作の発表を期待したい。一時の虚脱状態からようやく脱して、本格的に撮影にかかろうという意欲も湧いてきたようだ。次回の個展の開催時期は、少し早まるのではないだろうか。

2013/06/21(金)(飯沢耕太郎)

北野謙『our face: Asia』

発行所:青幻舎

発行日:2013年4月26日

「ショッピングセンター前に作られた特設野外映画場で映画を観る31人を重ねた肖像(主に建設現場で働く出稼ぎ労働者)」(中国北京市、2009)、「日本のアニメのコスプレをする少女34人を重ねた肖像」(台湾台北市、2009)、「原宿の少女43人を重ねた肖像」(東京都原宿、2000~2002)、「2011年の東日本大震災による福島第一原子力発電所事故後、脱原発の声をあげる25人を重ねた肖像」(東京都代々木公園、首相官邸前、2012)──写真集におさめられた1枚目から4枚目までの作品のタイトルを書き抜いてみた。北野謙が「our face」のシリーズを撮り進めるプロセスの、愚直なほど生真面目で丁寧な姿勢が、これらのキャプションからも伝わってくるのではないだろうか。トルコからインドネシアまで、アジア11カ国53都市を1999年以来15年にわたって回り、数千人以上の人々に声をかけてポートレートを撮影し、印画紙に焼き付けていく。気が遠くなるほどの労作であり、133点の作品がおさめられた写真集のページをめくっていると、彼が費やした時間の厚みが凝縮して、壁のように立ち上がってくるように感じてしまう。
北野が採用したフォトモンタージュによる集合ポートレートは、19世紀以来人類学や犯罪者の調査のために使われてきた手法だった。ある集団に共通する身体的な特徴を、モンタージュ写真から抽出するために用いられたのだ。ところが北野のこのシリーズには、それらの写真を見るときに感じる不気味さ、禍々しさ、威圧感などがあまりない。たしかに集団の一人ひとりの個性は、写真の中に溶け込み、一体化しているのだが、そこにはある種の安らぎや信頼が芽生えてきているように思えるのだ。プロジェクトを開始してすぐに撮影した千葉県鴨川の漁師さんが、自分たちの写真を見て「これは俺たちの顔だよ」といったのだという。写真を「俺たちの顔」つまり「our faces」ではなく「our face」にしていくためにこそ、北野は全精力を傾けている。その強い思いが、モデルになる人々一人ひとりにも、きちんと伝わっているのではないだろうか。

2013/06/18(火)(飯沢耕太郎)

薄井一議「Showa88/ 昭和88年」

会期:2013/06/15~2013/08/08

写大ギャラリー[東京都]

薄井一議が2011年にZEN FOTO GALLERYで「Showa88」展を開催したとき、やや奇妙に感じたのは、2011年は「昭和86年」であり「昭和88年」ではなかったことだった。もし彼が、2013年=昭和88年にも展覧会を開催することを見越してこのタイトルを選んだとすれば、かなりの配慮ということになるのだが、実際はそうではないのではないか。「Showa88」という響きのよさに惹かれたのだろう。いずれにしても、1998年に、彼の母校でもある東京工芸大学の中にある写大ギャラリーで、このシリーズをあらためて展示できたのは、薄井にとってもわれわれ観客にとってもとてもよかったのではないかと思う。彼の作品が孕む可能性をあらためて確認することができたからだ。
今回は大判プリント18点による展示である。飛田新地(大阪)、五条楽園(京都)、栄町(那覇)など、昭和の匂いが色濃く残る歓楽街のたたずまいを、一癖も二癖もありそうな住人たちとともにおさえたこのシリーズは、薄井の代表作になっていくのではないか。けばけばしいピンク色をそこここに登場させることによる、目くらましのような視覚的効果もうまく計算されている。ノスタルジーやエキゾチシズムに過度に寄りかかることなく、日本=東アジアに特有の生の形をしっかりと見出していこうという志向性を、強く感じることができた。
とすると、このシリーズは、もう少し長いスパンで撮り進めてもいいのではないだろうか。会場に展示されていた作品は、すべて前回のZEN FOTO GALLERYでの「Showa88」展のときに刊行された、同名の写真集におさめられていたものだった。新作の「Showa88」もぜひ見てみたいと思う。

2013/06/16(日)(飯沢耕太郎)

村田兼一「眠り姫~Another Tale of Princess」出版記念展

会期:2013/06/12~2013/06/29

神保町画廊[東京都]

村田兼一は1990年代半ば頃から、モノクローム・プリントに彩色した耽美的なヌード・フォトを発表し続けてきた(手彩色は山崎由美子による)。相当にきわどいポーズの写真が多いにもかかわらず、どこか品のよさを感じさせ、浮世絵に通じるような手の込んだ工芸品としての魅力も備えた村田の作品は、ヨーロッパで人気が高く、特にドイツでは『JAPANESE PRINCESS』(Edition Reuss, 2005)以来、すでに写真集が4冊も刊行されている。ところが日本ではなぜか本格的な写真集出版が実現していなかった。今回初めて『眠り姫~Another Tale of Princess』(アトリエサード)が刊行されたのを記念して、神保町画廊で開催されたのが本展である。
写真集におさめられている手彩色作品の代表作も展示されていたのだが、僕がむしろ注目したのは近作のデジタルカメラを使った写真群だった。村田のヌード・フォトは、ブログなどを通じてコンタクトをとり、大阪市近郊の彼の自宅を改装したスタジオを訪れた女性モデルたちとの共同作業というべきものである。以前は村田の世界観にモデルを「当てはめていく」傾向が強かったのだが、最近は彼女たちの個性をのびのびと発揮させるように、対話を繰り返しながら撮影を進めていくようになった。その相互交換的なコミュニケーションのあり方が、デジタルカメラを使うことでさらに加速され、軽やかなものに変わりつつあるのではないかと思う。
すでにドイツで写真集として刊行された『UPSKIRT VOYEUR』(Edition Reuss, 2012)にもはっきりとあらわれているのだが、スナップショット的な偶発性を活かした撮影のやり方によって、村田の写真の世界にのびやかな風が吹き通ってきているように感じる。これから先の彼の作品は、細やかにつくり込んだ手彩色写真と、デジタルカメラによるスナップショットとの二本立てで進めていくべきなのではないだろうか。

2013/06/15(土)(飯沢耕太郎)