artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

山本渉「線を引く」

会期:2013/06/04~2013/06/16

photographers' gallery/KULA PHOTO GALLERY[東京都]

山本渉の「線を引く」も「3.11」を挟み込んで成立した写真のシリーズである。山本は2010年10月と2011年3月に、二度にわたって熊野の原生林の中に踏み込んだ。最初はひとりで「森と一つになりたい」という気持ちで撮影に臨み、「写真の中で森と共に生きていける気がして大きな満足感」を得た。二度目は震災の直後で「とても一人ではいられなかった」ので、友人とともに森に入ったという。「目に映るもの全てに震災・津波・原発のレイヤーがかかっていて私は正常な意識ではありませんでした」と率直に述懐している。
4×5インチの大判カメラを森の中に据え、山本自身が紐のような「線」を木々の間に張り巡らしていくパフォーマンスを記録していく写真のあり方は、2010年でも2011年でも変わりはない。実際にphotographers' galleryとKULA PHOTO GALLERYでの展示を見ても、どれが震災前でどれが震災後の写真かを区別するのはむずかしいだろう。それでも、山本にとっても、彼の写真を見るわれわれにとっても、「3.11」を区切りとする「線」がくっきりと浮かび上がってくるように感じる。彼自身はそれほど強く意識していたわけではないだろうが、山本のパフォーマンスは、いやおうなしに象徴的な儀式性を帯びてきているのではないだろうか。まっすぐにぴんと張られた「線」が大部分だが、特にKULA PHOTO GALLERYに展示された作品では、紐が緩んだり、曲がりくねったりしているものが目についた。山本自身の心の震えに同調しているような、そんな「線」の方にシンパシーを感じる。
なお、本展は写真研究家のダン・アビーの編集で刊行された写真集『Drawing A Line/線を引く』(MCV)の出版記念点を兼ねている。しっかりと構成・造本されたクオリティの高い写真集だ。

2013/06/11(火)(飯沢耕太郎)

坂本政十賜「東北」

会期:2013/06/10~2013/06/23

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

坂本政十賜の「東北」展のDMが送られてきたとき、直感的に「震災絡み」の展示ではないかと思った。DMに使われている写真に、直接的に震災の傷跡が写っていたわけではない。だが、「東北」というタイトルも相まって、そのトタン屋根、モルタル、ブロック塀などがモザイク状に組み合わされた建物と駐車場の写真もまた、震災の見えない影に覆い尽くされているように見えてしまったのだ。
実際にギャラリー蒼穹舎での展示を見て、その予想が半ば当たり、半ば外れていたことを知った。坂本がこのシリーズを撮影し始めたのは、2009年で、11年には『アサヒカメラ』で最初の発表をしている。その1カ月後に震災が起きる。いうまでもなくそのことによって、彼が撮影していた青森県、岩手県、秋田県の内陸部の家々を見る視点も変わったのではないだろうか。「東北の家の造形美は、そこに生きる人々の感性から生まれ、豊でかつ厳しい風土がディテールに宿る」ことで成立してくることが、はっきりと見えてきたのだ。
坂本の撮影の姿勢は、震災前も後もほとんど変わってはいないはずだ。6×7判のマミヤ7 IIの80ミリレンズで、東北の家々が環境のなかでどのように在るのかを、丁寧に押さえていこうとするアプローチは一貫している。それでも、その一見素っ気ない写真群には、「土地に生きる人々の魂、そして土地の霊」に肉薄していこうとする、彼の心の昂りがみなぎっているようにも感じる。熱っぽさと冷静さとが同居する、ぴんと張りつめた、いいシリーズに育ちつつあると思う。

2013/06/11(火)(飯沢耕太郎)

野村浩「ヱキスドラ ララララ・・・」

会期:2013/06/08~2013/07/14

POETIC SCAPE[東京都]

野村浩は東京藝術大学在学中の1991年、第一回「写真新世紀」の公募に出品し、「エキスドラ」と題する作品で佳作に入賞した。僕はそのときの審査を担当していたので、その作品はよく覚えている。「ドラえもん」のバリエーションである等身大のキャラクターを、街の中に置いて撮影した写真を、白黒コピーしてコントラストを上げ、綴じ合わせた手づくり写真集だった。現実世界のリアルな描写という、従来の写真表現の枠組みからまったく外れた作品がいっせいに登場してくる時代の流れを、くっきりと指し示す作品だったことが、強く印象に残っている。
この「エキスドラ」のシリーズが、20年以上の時を隔ててよみがえった。今回の「ヱキスドラ ララララ・・・」も、現実世界をそのままストレートに描写する作品ではない。今回彼が被写体としているのは、Googleのストリートビューの画像だ。日本各地の路上の光景を、無作為に選び出し、そこに「ヱキスドラ」をシルエットで配している。基本は2体(ペア)で出現する「ヱキスドラ」たちは、たとえばラブホテルの入口にたたずんだり、「洋服の青山」の前の群衆に紛れこんだり、建築工事現場の前に列をつくったりして、その場所の持つ意味を軽やかに変換してしまう。ストリートビューはむろん仮想現実には違いないのだが、並みの都市風景写真を凌駕するようなリアリティを備えている。そこにもうひとつの仮想現実である「ヱキスドラ」たちがかぶさることで、そのリアリティがさらに増幅するように思えてくるのが興味深い。
展示にはさらに工夫が凝らされていて、会場の入口のドアとショーウィンドーには「ヱキスドラ」を配したギャラリーの建物のストリートビューの画像が、大きく引き伸ばされて飾ってあった。ストリートビューの画像を、まさにその場所に展示するというのは、なかなか面白い試みだと思う。

2013/06/09(日)(飯沢耕太郎)

森山大道「1965~」

会期:2013/06/01~2013/07/20

916[東京都]

916の大きな会場に、大判プリントを中心に森山大道の100点以上の作品が並んでいた。美術館並みのスケールで、しかもかなりわがままなチョイスで展示を構成できるこの会場の特性がよく活かされた展示といえるだろう。
展示作品は1965年2月号の『現代の眼』に発表され、デビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)の巻末にも掲載された「胎児」のシリーズから近作まで多岐にわたる。1960年代末~70年代初頭に撮影されたカラー写真が、大小のモノクローム・プリントに挟み込まれるようにして展示されているのも面白い。会場に掲げた解説の文章(飯沢耕太郎「森山大道──ラビリンスの旅人」)でも指摘したのだが、「湿り気」「浮遊感」「部分/断片化」という特質を備えた森山の作品世界を彷徨い歩く愉しみを、たっぷりと味わい尽くすことができた。
おそらく916を主宰する写真家・上田義彦の好みが、作品のセレクションに強く働いているのではないだろうか。目につくのは、女性を被写体にした、ポートレート、ヌード、スナップショットが、かなり多く選ばれていることだ。ハイヒール、網タイツ、花などを含め、森山が独特の「部分/断片化」の眼差しで切り出してきた「女性」のイメージは、エロティックな連想に見る者を誘い込む。視覚と触覚と嗅覚とが見極めがたく絡み合ったエロスの力を、上田のセレクションがとてもうまく引き出していると思う。
さらにいえば、その匂い立つようなエロティシズムは、上田の写真にはどちらかといえば欠けているところでもある。そのあたりの微妙な綾が、写真展の成立にかかわっていそうな気もする。

2013/06/01(土)(飯沢耕太郎)

淺井愼平「HŌBŌ 星の片隅」

会期:2013/05/30~2013/07/01

キヤノンギャラリーS[東京都]

「HŌBŌ」は淺井愼平が1997年に刊行した写真集のタイトル。旅先で切り取った光景を集成した写真集に「あちこち放浪する人」(もともとは日系移民が使っていた言葉だという)を意味するこの言葉はぴったりしている。それから15年以上を経て、淺井はキヤノンギャラリーSの10周年記念企画の一環として開催された展覧会で、同じタイトルを使った。今回は2011~13年にアメリカ・テキサス州、沖縄、ニュージーランドなどで撮影された近作のみで構成されている。やはり旅と移動が、写真家としての彼の基本的な撮影のスタイルであることに変わりはないことがよくわかる。
鋭いナイフですっと切り抜かれたような、これらのスナップ写真には、ガラス窓や鏡に映る自分の姿以外には「人」の姿がほとんど写り込んでいない。かといって、淺井の写真が「風景写真」なのかといえば、それとも違う。そこには人間の残した痕跡(足跡、ペンキの塗りむら、グラフィティ、古写真、看板など)が、たっぷりと写っているからだ。われわれはそれらの写真を見ながら、そこで何が起こったのか、あるいは起こりつつあるのかを想像する。そんな見えない物語を浮かび上がらせるための手がかりを、淺井は巧みに画面に配置していく。
このような写真は、むしろ「シーン」の集積といえるのではないだろうか。淺井は少年時代から映画に魅せられ、早稲田大学在学中は映画監督になることを夢見ていたという。旅先で好みの景色や事物を見出したとき、彼はあたかも監督が映画の「シーン」を構築するように、シャッターを切っているのだろう。実際に彼の写真の一枚一枚を組み合わせていくと、そこからさまざまな映画(物語)が生まれ落ち、育っていくようにも見えてくるのだ。
なおキヤノンギャラリー銀座では同時期(5月30日~6月5日)に「東京暮色─『早稲田界隈』より」が開催されていた。こちらはしっとりとしたモノクローム写真中心の展示。早稲田大学周辺の時の流れや澱みを、丁寧に写しとっている。

2013/06/01(土)(飯沢耕太郎)