artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

畠山直哉「BLAST」

会期:2013/08/20~2013/09/07

Taka Ishii Gallery[東京都]

石灰岩採掘のための爆破現場をリモート・コントロールのカメラで撮影した「BLAST」シリーズは、畠山直哉にとって重要な意味を持つ作品である。同じく石灰岩の鉱山を撮影した「Lime Hills」をはじめとする彼の初期作品は、細部まで厳密に構築された画面構成に特徴があった。被写体を、その周辺の環境を含めてあたう限り精確に写しとっていくその手つきには揺るぎないものがあったと思う。ところが、1995年から開始されたこの「BLAST」のシリーズでは、写真家としてのコントロールが不可能な状況を相手にしなければならなかった。2,000トンを超えるという大岩が吹き飛ばされて宙を舞う爆破現場はあまりにも危険すぎて、自分の手でシャッターを切ることができないのだ。それゆえ、このシリーズでは、爆破の様子がどう写っているのかはフィルムを現像・プリントしてみなければわからない。このような不確定な状況に身を委ねざるを得ない撮影を経験したことで、揺らぎ、偶然性、無意識などを積極的に取り込んだ新たな撮影のシステムが模索されていくことになる。そのことが、畠山の作品世界を一回り大きなものにしていったのではないだろうか。
このシリーズを集大成した写真集『BLAST』(小学館)の刊行に合わせて開催された今回の個展では、これまでの展示とは違うタイプの作品が選ばれている。画面全体がブレていたり(地面を転がってきた岩が三脚に当たったのだという)、地平線や空の部分がなく、画面全体が「オールオーバー」に岩石のかけらに覆われたりしているような作品だ。全体として、さらに不確定性が増大しているように感じる。畠山自身が写真集の「ながいあとがき」で述べているように、故郷の陸前高田市の実家が「3.11」の大津波で流失したという出来事が、「BLAST」の全体を見直す契機になっているのは間違いないだろう。シリーズそのものにはとりあえずの区切りがついたようだが、写真を通じて自然と人間との関係を探求していく彼の営みは、今後も粘り強く続けられていくのだろう。

畠山直哉
「Blast #14117」2007年
ラムダプリント、100 x 150 cm
Courtesy of Taka Ishii Gallery

2013/08/24(土)(飯沢耕太郎)

茂木綾子「ノマド村」

MISAKO & ROSEN[東京都]

会期:2013/07/28~08/25(8/12~16休)

茂木綾子の名前は懐かしい。1990年代初め、「写真新世紀」の公募がスタートしたばかりの頃、若い女性モデルをふわっとした調子の画像で撮影したポートレートのシリーズが出品された。それがデビュー当時の茂木の作品で、たしか荒木経惟が優秀賞に選んだはずだ。Hiromixや蜷川実花が登場する少し前の、「ガーリー・フォト」の走りというべき作品だったのをよく覚えている。
その後、彼女はヨーロッパに渡り、ドイツ出身のアーティストのヴェルナー・ペンツェルというパートナーを得て、写真以外に映画作品なども制作するようになる。スイスの古城をアーティスト・イン・レジデンスとして開放するプロジェクトに参加した後、4年前に帰国して兵庫県淡路島に居を定めた。今回のMISAKO & ROSENの個展は、「アート、音楽、写真、映画、食、農、暮らしなどにまつわるさまざまな活動の紹介、交流授業」を展開するため、ヴェルナーとともに淡路市長澤に設立した「ノマド村」のたたずまいを撮影した写真を中心に構成されていた。
基本的には廃校になった小学校を改装した施設のディテールを、丹念に、静かに写しとったドキュメントなのだが、壁や床の有機的な素材の質感をそっと撫でるようにカメラにおさめていく眼差しに、優しさと落ち着きがある。かつての彼女の写真の、軽やかに宙を舞うような躍動感はないのだが、複数の写真を繋ぎ合わせていく手際に、細やかな気配りと表現としての成熟を感じた。今回は人の姿をあえて外したようだが、「ノマド村」の住人たちの暮らしぶりももっと見てみたいと思った。

2013/08/22(木)(飯沢耕太郎)

原芳市「天使見た街」

会期:2013/08/19~2013/08/25

Place M / M2 gallery[東京都]

銀座ニコンサロンで「常世の虫」展を開催したばかりの原芳市が、矢継ぎ早に新宿のPlace M とM2 galleryで別の作品を展示した。このところの原のコンスタントな仕事ぶりには、驚くべきものがある。今回の「天使見た街」も、見せられるものはいま全部見せておこうという気迫が伝わってくる、充実した内容の展覧会だった。
原は2000年~01年にかけて『ザ・ストリッパー・舞姫伝説』(双葉社)におさめる写真を撮影するため、日本全国の劇場を回っていた。その怒濤のような日々の後に訪れた虚脱状態のなかで、偶然「リオのカーニバル」のTV番組を目にする。あたかも啓示のように「次はこれを撮影しなければ」と思ったのだという。最初にブラジル・リオデジャネイロを訪れたのは2004年、それから06年までの3年間に計4回滞在した。最初は時差ボケの影響もあって、ほとんど朦朧とした状態で撮影していたのだが、そのうちサンバ・チーム「マンゲーラ」の関係者や貧民街ファベーラの住人たちともコンタクトがとれるようになり、彼らの生により密着した写真に結びついていった。それらをまとめたのが今回の展覧会と、同時に刊行された同名の写真集『天使見た街』(Place M)である。
会場に並んでいるのは、スナップショット的な都市風景もあるが、大部分はカメラを被写体の正面に据え、ポートレートとしての意識で撮影されたものだ。その意味では、1980年代の写真集『ストリッパー図鑑』(でる舎、1982)や『淑女録』(晩聲社、1984)の延長上にある仕事と言えるだろう。だが、カラーポジフィルムで撮影された今回のシリーズは、「図鑑」としての統一性を保っていた前作と比較すると、より自在に被写体との距離感を伸び縮みさせているように見える。それとともに、リオの住人たちの圧倒的な生のエネルギーをひたすら受けとめ、抱きとろうという原の覚悟がしっかりと伝わってきた。
原は撮り続けていくうちに、「写真機に封じ込めた彼ら彼女らが、天使以外のなにものでもないと実感した」のだという。その経過を細やかに綴った写真集の「あとがき」の文章が素晴らしい。前作の「常世の虫」と併せて見てみると、原芳市の写真世界が完全に花開いてきたという強い思いが湧き上がってくる。60歳を過ぎてからという遅咲きの開花であり、これもまた稀有な事例と言えるだろう。

2013/08/22(木)(飯沢耕太郎)

村上友重「この果ての透明な場所」

会期:2013/08/20~2013/09/20

G/P GALLERY[東京都]

村上友重は2004年に個展「球体の紡ぐ線」(新宿ニコンサロン、第6回三木淳賞受賞)でデビューして以来、一貫して風景をテーマにした作品を発表してきた。本人から見ると、いろいろな紆余曲折はあったのかもしれないが、傍目で見ると順調にキャリアを積み上げ、その作品世界も広く、深くなってきているように思える。今回はオランダの写真雑誌『Foam Magazine』が公募した「Foam Talent」賞に選出された新作の展示だった。
写真を通じて「不可知なことに近づいていくこと、または近づいてみたいと願うこと」を目指すという彼女にとって、霧に包まれた眺めという今回のテーマは必然的なものだったと言えるかもしれない。会場には1,200×1,000ミリの大判サイズに引き伸ばしたプリントが7点並ぶが、それらはすべて半ば白い霧に閉ざされた風景を撮影したものだ。霧の中から、火口らしきもの、建物らしきもの、草原らしきものの姿がぼんやりと浮かび上がってくる。見えそうでよく見えないそのたたずまいは、カメラを構えて、手探りで世界の輪郭、手触りを確認していこうという写真家の営みを暗示しているようでもある。おそらく、その霧の中に包み込まれた不透明な状態も過渡的なものであり、やがては晴れ渡ったクリアーな眺め、「この果ての透明な場所」が目の前に開けてくるのだろう。今回の個展のタイトルは、その願望を込めた名づけであるようにも思える。

2013/08/22(木)(飯沢耕太郎)

田口順一『音楽』

発行所:冬青社

発行日:2013年7月10日

高橋国博が主宰して、東京・中野でギャラリーと出版の活動を続ける冬青社からは、時折ユニークな写真集が刊行される。田口順一の『音楽』と題する写真集もそんな一冊だ。
田口は1931年、新潟県生まれだから、東松照明や奈良原一高など、VIVOの写真家たちと同世代にあたる。日本大学芸術学部音楽学科の作曲コースを卒業後、ずっと千葉県の高等学校で教鞭をとりながら現代音楽の作曲家として活動してきた。千葉県立幕張西高等学校の校長を退任後は、武蔵野音楽大学大学院の教授も務めている。その彼は、船橋写真連盟に属して写真家としても作品を発表してきた。「50年間音楽と関わり作曲活動を続けて来ましたが、その活動の足跡と共に、『今の私のあり様』をまとめて」みたのが、今回の写真集ということになる。
ページを開くと、五線譜、ト音記号、自作の曲の楽譜のコピーなどの間に、おそらく身近な場面で撮影したとおぼしき写真が並ぶ。壁、地面、コンクリートの塀などをクローズアップで撮影したそれらの写真群は、周囲の環境からは切り離されて、色彩と物質感のみの表層的なイメージとして抽象化されている。それらのたたずまいは、たしかに視覚的な「音楽」としか言いようのないものであり、田口がそこから確実に何かを聴きとっていることが伝わってくる。ありそうであまりない試みであり、実際に曲を流して、スライドショーのような形で見せても面白いかもしれないと思った。

2013/08/15(木)(飯沢耕太郎)