artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

蔵真墨『氷見』

発行所:蒼穹舍

発行日:2013年7月8日

写真学校の卒業制作の審査などをしていると、自分の生まれ育った家やその周辺を撮影した作品がけっこうたくさん出てくる。たいていは女子学生が撮影しているのだが、密かに僕が「里帰り写真」とか「実家写真」と呼んでいるそんなテーマは、流行とまではいかないにしても根強い人気を保っているようだ。ただ、その大部分は被写体の撮りやすさに甘え切っていて、どれも似たようななまぬるい感触になってしまっている。蔵真墨の『氷見』を見ると、同じ「里帰り写真」でも、そのアプローチの仕方によっては、まったく違ったものになりうることがよくわかるだろう。
富山県氷見市は、蔵にいわせれば「海と山、漁港と田んぼ、長いシャッター商店街と国道沿いに店舗群があるような田舎町」だ。たしかに、そこに写っているのは、日本中どこにでもあるような風景、家族や親戚の姿である。だが、それらが、まさに2000~2013年という撮影の時期に見合った、身も蓋もないほどのリアリティを持って迫ってくるのは、ひとえに蔵が「近しい人や見慣れた風景を客観的にとらえることが可能か」という課題に、まっすぐに取り組んでいるからだろう。路上スナップの凄みを味わわせてくれた快作『蔵のお伊勢参り』(蒼穹舍、2011)とはむろん違った撮り方だが、この写真集でも「見慣れた」被写体を見つめる彼女の視線には一点の曇りもない。とはいえ、写真が冷ややかで暴露的に見えるかというと決してそうではなく、故郷の「独自の奥深い魅力」への愛着もしっかりと伝わってくる。

2013/07/30(火)(飯沢耕太郎)

阿部淳「市民・黒白ノート・黒白ノート2」

会期:2013/07/29~2013/08/04

プレイスM[東京都]

阿部淳は自らが主宰するVACUM PRESSから、『市民』(2009)、『黒白(こくびゃく)ノート』(2010)、『黒白ノート2』(2012)の3冊の写真集を刊行している。だが、『市民』と他の2冊では写真を選択・構成するやり方が違ってきているようだ。『市民』では「都市の人々という具体的で明解なまとまり」を志向しているのに対して、『黒白ノート』『黒白ノート2』では「写真が形になる、生成の途上に一瞬偶発的に起きる写真的経験」を浮かび上がらせようとしている。そのために『黒白ノート2』を編集するにあたって、「(2000年までの)20年間のコンタクトから、その意識でセレクトし直し、今のところ600点ほどのプリントを」仕上げたのだという。
このような、スナップショットそのものの成立のあり方を問い直すような作業は、あるようであまりないのではないだろうか。結果として、『市民』『黒白ノート』『黒白ノート2』と進むにつれて、以前のくっきりと被写体を定着したような完成度の高いスナップショットが、より曖昧で未分化な場面をすくい取った画面に変質しようとしている。今回の第25回写真の会賞受賞展では、3冊の写真集からアトランダムに抽出されたプリント200点以上が、壁全体に撒き散らすように貼り巡らされており、阿部の真摯な探求のプロセスを辿ることができるようになっていた。黒く塗りつぶされたような影のパートから、不意にぬっと姿をあらわす「都市の人々」のたたずまいが、何とも不穏で暴力的だ。この探求がこれから先どのように展開していくのかを、しっかり見届けていきたいものだ。
なお階下のM2ギャラリーでは、写真の会賞を同時受賞した松江泰治の新作映像作品「jp0205v」が展示されていた。こちらも面白い作品だ。写真(静止画像)の画面をスクロールするように動画で撮影することで、スリリングな視覚体験を創出している。

2013/07/29(月)(飯沢耕太郎)

下瀬信雄「つきをゆびさす」

会期:2013/07/17~2013/07/30

銀座ニコンサロン[東京都]

下瀬信雄は、山口県萩市で写真館を経営しながら作家活動を続けている写真家。1996年以来、ニコンサロンで10年以上にわたって発表し続けた「結界」シリーズなどで知られるが、1998年に刊行された写真集『萩の日々』(講談社)に連なるような、日々目にした光景を撮影し続けたスナップショットの独特の切り口にも惹かれるものがある。今回は中判カメラとデジタル一眼レフカメラを併用して、萩を中心として津和野、美東、周南、北九州の各市まで撮影の範囲を広げ、春から秋にかけてゆったりと流れる時間のなかでの人々の暮らし、子どもたち、植物や昆虫、街の光景などを丁寧に、だがのびやかな眼差しで捉えている。被写体の微妙な陰翳を、そっと包み込むように捉えた写真群を眺めていると、呼吸がすっと楽になるような気持ちのよさを味わうことができた。
タイトルの「つきをゆびさす」というのは、仏教用語の「指月」(しがつ)から来ているという。月を指さそうとしても、月を見ることはできずに指を見ることになるということだ。萩市に指月城(萩城の別名)や指月公園があるというだけではなく、どうやらこの言葉を、下瀬はある種の「写真論」として解釈しているようだ。つまり、真実を写そうとしても、写るのは目の前のとるに足らない事象ばかり。だがそのことを嘆くよりは、むしろ「指」そのものの眺めの面白さ、多様性を細やかに見つめ続けることに歓びを感じているのだろう。これから先もずっと長く撮り続けていってほしい写真家のひとりだ。なお本展は、8月8日~21日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2013/07/29(月)(飯沢耕太郎)

浜口陽三、池内晶子、福田尚代、三宅砂織「秘密の湖」

会期:2013/05/18~2013/08/11

ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション[東京都]

東京・水天宮前のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションで開催された「秘密の湖」展は、同館が所蔵する銅版画家、浜口陽三の作品に、三人の現代美術作家の新作をあわせた展覧会だ。そのうち、1975年岐阜県生まれの三宅砂織の作品は、フォトグラムの技法で制作されている。普通、フォトグラムは写真の印画紙の上に何かを置いて光をあて、その輪郭をシルエットとして写しとることでつくられる。ところが三宅の場合、フォトグラムのために用いられる主な材料は、彼女自身が透明なシートの上に描いたドローイングなのだ。それらを印画紙の上に配置し、さらにガラス玉や模造宝石のようなオブジェをちりばめて光に曝す。結果として、できあがってくるのは、写真とも絵画ともつかない、何とも奇妙な手触りを備えた画像である。
もうひとつ重要なのは、三宅のドローイングの元になっているのが写真だということだ。彼女が自分で撮影したものもあるし、友人からもらったスナップ写真、古書店や蚤の市などで購入した古写真(ファウンド・フォト)もある。実際の風景を描くのではなく、写真をドローイングに“翻訳”していく、そのプロセスが制作に組み込まれ、さらに予測不可能な光の拡散や滲みが作用することで、彼女の作品は確実に写真的なリアリティを獲得している。見方によっては、本物の写真よりもより写真らしく見えてしまうものもあるのがとても興味深かった。このような写真と絵画の融合の試みは、なかなか面白い表現の可能性を孕んでいるのではないだろうか。
なお、赤い絹糸を結び合わせて、繊細な神経の震えが形をとったような空間を構築する池田晶子、本のページに無数の針穴を穿ったり、原稿用紙の枡目を切り抜いたりして、日常の事物を魔術的に変容させる福田尚代の作品も、それぞれ見応えがあった。三人の女性作家の「秘密の湖」を垣間見るような、どこかエロチックな視覚的経験を味わわせてくれる好企画だと思う。

2013/07/28(日)(飯沢耕太郎)

東松照明『Make』

発行所:SUPER LABO

発行日:2013年5月

写真の本質は「Take」(撮ること)なのか、それとも「Make」(作ること)なのか。そんな議論が話題を集めたのは1980年代、「コンストラクテッド・フォト」とか「ステージド・フォト」とか称される、あらかじめセットを組んだり、場面を演出したりして撮影するスタイルがいっせいに登場してきた時期だった。「Take か、Makeか?」という二者選択として論じられることが多いが、必ずしもそうとは言えないことが、この写真集を見ているとよくわかる。というより東松照明は、そのスタートの時期から「Take」と「Make」を混在させたり、行き来したりする操作をごく自然体でおこなうことができる写真家だった。何しろ、彼のデビュー作である愛知大学写真部の展覧会に出品された「皮肉な誕生」(1950)や「残酷な花嫁」(同)が、すでに「Make」の要素をたっぷりと含んだ作品だったのだ。
それから2000年代に至るまで、東松は倦むことなく「Make」作品を制作し続けた。「ニュー・ワールド・マップ」(1992~93)、「ゴールデン・マッシュルーム」(1988~89)、「キャラクターP」(1994~)など、見るからに「Make」的な作品もあるが、「プラスチックス」(1988~89)などは、見た目は「Take」の写真に思える。ただこうしてみると、彼の写真家としての体質の根源的な部分に「Make」への衝動があり、それが何か大きな転機をもたらすきっかけになっていたことは間違いないと思う。
本書は東松が生前から企画し、作品の選択や構成も自分で決めていたのだという。用意周到というしかない。むしろ若い世代の写真家たちにとって、東松照明を新たな角度から見直す、いい機会になるのではないだろうか。

2013/07/24(水)(飯沢耕太郎)