artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

佐久間里美「In a Landscape」

会期:2013/04/20~2013/05/26

POETIC SCAPE[東京都]

佐久間里美は、大阪のPort Gallery Tや東京のMUSEE Fなどで個展を重ねてきた写真家。日本大学芸術学部美術学科で油画を専攻していたという経歴にふさわしく、風景を色面で分割して抽象画を思わせるパターンで構成する作品を発表してきた。これまで、その画像構築のセンスのよさに注目してきたのだが、今回の個展では、作品世界をそこから一歩先に進めていこうとする強い意欲を感じとることができた。
新作の「In a Landscape」では、色面による構成だけではなく、画像の一部が歪んだり、奥行きを感じさせたり、薄膜がかかったようにぼんやりと霞んだりする、さまざまな視覚的な効果が駆使されている。一見すると、多重露光や画像合成のテクニックを用いているようだが、それらはすべて「写真の作法にこだわったストレートな一発撮り」で撮影されているのだという。おそらく、実像と水面や鏡面に写り込んでいる反射像とを、巧みに画面に配置してカメラアングルを決め、シャッターを切っているのだろう。
その視覚的効果はめざましいものがあり、これまでのスタティックでスタイリッシュな都市の風景写真というイメージは完全に一掃されている。ただ、方向性としては間違っていないと思うが、それが画像構築のための手段いうことだけに留まるとすれば問題があると思う。絵画の素養を活かした視覚的効果ということで言えば、例えばゲルハルト・リヒターにかなうはずがない。何を、なぜ撮るのかという心理的な動機の部分をもう少し掘り下げ、画面の中にさらに「思いがけない何か」を呼び込んでもらいたいものだ。

2013/05/11(土)(飯沢耕太郎)

村越としや「木立を抜けて」

会期:2013/04/12~2013/05/11

Taka Ishii Gallery Potography & Film[東京都]

最終日になんとか村越としやの展示を見ることができた。今回の「木立を抜けて」は新作ではなく、2009年に撮影されたもの。余命3カ月と宣告された祖母の写真を撮影しようと、実家のある福島県須賀川に何度も帰っていた。ところが、次第にやせ細っていく祖母の姿をほとんど撮ることができず、「祖母の影を追うように実家周辺を歩いては」6×6判のカメラのシャッターを切っていたという。今回の展示では、祖母が亡くなった後も撮り続けた写真も含めて15点を展示していた。
この欄でも何度か紹介しているように、「3.11」以後に村越の表現力は格段に上がってきている。だがこの展示を見ると、すでに2009年の時点で彼のスタイルはほぼ完成していたことがわかる。親和性と違和感とが微妙にバランスを保った風景との距離感、目にじっとりと絡み付いてくるような湿り気を帯びたモノクロームプリントの質感、なんでもない光景からアニミズム的な気配を感じ取る能力などは、すでにこの頃の写真にもはっきりと表われている。
展示作品のなかに、蛇行して地平に消えていく川を、おそらくは橋の上から撮影した写真があった。その右側の河岸に釣り人らしい白っぽい服装の人物の姿が写っている。遠すぎて顔つきなどはまったくわからないのだが、これまで村越の作品には人の影がほとんどあらわれてこなかったので、その一枚が妙に気になった。ストイックに「風景」に没入していく村越の作品も魅力的だが、そろそろ画面の中に「人」の要素をもっと取り入れていってもいい時期に来ているのではないだろうか。どうもこの釣り人は、村越の分身のような気がしてならない。

2013/05/11(土)(飯沢耕太郎)

志賀理江子『螺旋海岸 album』

発行所:赤々舎

発行日:2013年3月28日

2012年11月~13年1月にせんだいメディアテークで開催された志賀理江子の個展「螺旋海岸」が、日本の写真表現の行方を左右するような途方もない問題作であることが明らかになりつつある。展覧会の会期中に刊行された『螺旋海岸 notebook』(赤々舎)が、志賀自身の連続レクチャーの記録を中心にした「テキスト編」だとすれば、今回の『螺旋海岸 album』は「作品編」と言うべきものだ。あの等身大以上の木製パネルが斜めに林立する展示会場の衝撃を再現するのはまず無理だが、この写真集も相当に凝った造本である(デザインは森大志郎)。基本的には見開き断ち落としのダイナミックなレイアウトなのだが、同じ写真が何度か違うトリミングで出てきたり、畳み掛けるように同種のイメージが繰り返されたりして揺さぶりをかける。鈴木清がデザイナーの鈴木一誌と組んだ『天幕の街』(1982)や『夢の走り』(1988)の造本を思い起こした。
それにしても、「螺旋海岸」の黒々としたブラックホールのような写真群は、見る者の視線を吸い寄せ、捉えて離さない強烈な引力を備えている。今回特に茫然自失させられたのは、30ページ以上にわたって続く「鏡」と呼ばれる白く塗られた石、石、石の写真だ。闇の奥からぬっと目の前に現われてくるこれらの石は、大きさも出自もまったく不明で、なぜこれらの写真が撮影され、他の写真群を取り囲むように配置されているのかまったくわからない。それでも、名取市北釜の住民たちとともに繰り広げられる儀式めいたパフォーマンスの記録が、これらのっぺらぼうの石たちを「鏡」として、反映・増殖していくプロセスには確かな説得力がある。『螺旋海岸』をどのように読み解いていくのかは、これから先の大きな課題だ。誰かに本気で志賀理江子論に取り組んでほしいのだが。

2013/05/06(月)(飯沢耕太郎)

金村修「Ansel Adams Stardust (You are not alone)」

会期:2014/04/23~2014/05/06

銀座ニコンサロン[東京都]

金村修は、いつ頃から変化することを意識的に拒否するようになったのだろうか。1990年代前半にデビューしてすぐに、彼は雑然とした都市の環境を、6×7判カメラに詰めたモノクロームフィルムでフォルマリスティックに切り取り、やや大きめにプリントして壁面にモザイク状に貼り付けていく展示の方法をとるようになる(ロックの曲名まがいのタイトルの付け方もその頃からだ)。つまり、もう既に20年以上も、ミュージシャンが同じヒット曲をずっと歌い続けるように、同工異曲の展示を見せ続けてきたのだ。
それがどんな理由によるものなのかはよくわからない。おそらくある種の頑固なこだわりというよりは、変化することに対して神経質な怖れを抱いているのではないかと想像できる。いずれにせよ、彼は同じ曲を歌い続けることを自らの意思で選択した。そしてそのことについて、常に釈明しなければならないという強迫観念にとらわれているように見える。この所の彼の展示が、いつでも大量の言葉の群れによって覆い尽くされているのは、そのためではないだろうか。
今回の「Ansel Adams Stardust (You are not alone)」展でも、会場内の柱の四面に、文章をびっしりとプリントした印画紙が貼付けられていた。断言してもよいが、彼の言葉は何らかのメッセージを伝えることを目的にしているわけではない。丁寧にその意味を読み解いていこうとしても、はぐらかしとこけ威しの迷路の中で堂々巡りするだけだ。要するに、これらの饒舌な言葉の群れは、金村が自分の写真行為を正当化するために吐き散らしたものだ。3枚の写真ですむ所に3000枚の写真を費やすように、3行ですむ言葉を3000行に増殖させるシステムを金村は発明した。このシステムにのっとって写真を撮影し、言葉を綴れば、いくらでも無制限に垂れ流すことができる。自分で作った砦に立て籠り続けても別にいい。だがもう一度、吹きっさらしの荒野で、抜き身の戦いを挑む気概はないのだろうか。

2013/05/03(土)(飯沢耕太郎)

植田正治の「実験精神」

会期:2013/04/27~2013/06/30

植田正治写真美術館[鳥取県]

今年は植田正治の生誕100周年ということで、記念行事が相次いで開催されている。鳥取県伯耆町の植田正治写真美術館でも、代表作約250点を集成した展覧会が開催された。「植田正治の「実験精神」」というタイトルは、まさに山陰の地を舞台に冒険心、チャレンジ精神、遊び心を存分に発揮し続けたこの写真家にふさわしいものといえる。美術館の3つの展示室を全部使って、「1『かけ出し』時代 1930年代」「2 東京への挑戦 1937-40年」「3 演出写真 1948-51年」「4 造形的なイメージ 1950年代」「5 童暦 1959-70年」「6 小さい伝記 1974-85年」「7 音のない記憶 1972-73年」「8 白い風 1980-81年」「9 砂丘モード 1983-90年」「10 軌道回帰と大判写真 1987-92年」「11 幻視遊間 1987-92年」「12 印籠カメラ 1995-97年」と並ぶ作品群を見て、その多彩な「実験精神」の広がりにあらためて目を見張らされた。
特に注目すべきは、むしろ「砂丘モード」以降の「晩年」の作品ではないだろうか。70歳を超えてファッション写真に挑戦した「砂丘モード」をはじめとして、パノラマカメラ、35ミリインスタントスライドフィルム、20×24インチ(約50×60センチ)の超大判ポラロイドカメラ、コンパクトカメラなど、植田は一作ごとに撮影機材を変え、次々に新たな領域に踏み込んでいった。その創作意欲の高まりは驚くべきものがある。植田は2000年7月4日に急性心筋梗塞でなくなるのだが、その年の1月1日には「5分間の軌跡」と題して、太陽の光が壁際に並べたオブジェにあたって変化する様を撮影した連作を撮影していた。最後までその「実験精神」が衰えることはなかったということだ。
戦時中休刊していて、ようやく復刊したばかりの『カメラ』(1946年3月号)のアンケートに答えて、植田はこう書いている。「方針としては決めて居りませんが、只今の所、無茶苦茶に写したいです。自由に伸び伸びと、再び大いにやります」。この決意を最後まで守り通したということだろう。

2013/05/02(木)(飯沢耕太郎)