artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

武井裕之「はつ恋」

会期:2013/03/06~2013/03/23

神保町画廊[東京都]

「懐かしさ」は写真を見るときに大きな影響を及ぼす感情だが、それを導き出すためには細やかな配慮が必要となる。独学で写真撮影の技術を身につけた武井裕之は、今回「はつ恋」と題して発表されたシリーズを、2005年頃から撮影し始めた。彼はR型のライカと高感度のモノクロームフィルムというクラシックな組み合わせで、制服姿の美少女たちにカメラを向ける。NDフィルターを使用し、ややオーバーに露光することで印画紙の粒子を強調し、ソフトフォーカス気味にプリントする。そのことによって、被写体の現実感が希薄になり、まさに「はつ恋」の対象を遠くから憧れの眼差しで見つめているような、あえかな距離感=「懐かしさ」が生じてくるのだ。
武井の仕事はたしかに「美少女写真」の典型ではあるが、この種の写真につきまとう、あざとさやわざとらしさは、あまり感じられない。彼はこのシリーズを撮影するにあたって、モデルたちに「安心してもらう」ことを心がけてきたのだという。彼女たちの緊張感や不安感は、すぐに表情や身振りに表われてくる。それを少しずつ和らげ、解きほぐしていく手際のよさこそ、撮影やプリントのテクニック以上に大事になってくる。同じモデルを何度も撮影することもあるようだが、あまり慣れ親しんでしまうと、今度は新鮮さが薄れてくる。モデルたちとの微妙な駆け引き。だがそれを「撮りたい」という純粋な情熱で包み込んで、無為自然なものに見せてしまうのが、武井の写真術の真骨頂と言えそうだ。

2013/03/14(木)(飯沢耕太郎)

アーウィン・ブルーメンフェルド「美の秘密」

会期:2013/03/05~2013/05/06

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

世田谷美術館の「エドワード・スタイケン写真展」に続いて、東京都写真美術館でアーウィン・ブルーメンフェルド(1897~1969年)の展示が始まった。スタイケンは1920~30年代の、ブルーメンフェルドは40~50年代のファッション写真の立役者であり、それぞれの時代背景の違い、写真を享受する一般大衆の嗜好の違いがくっきりと見えてくるのが面白かった。あくまでも優美でエレガントなスタイケンの写真のスタイルと比較すると、ブルーメンフェルドのそれは多少俗っぽくけれん味がある。1920~30年代にはまだその時代のファッションをリードする役目を果たしていた上流階級が40~50年代には少しずつ解体し、より「ポップな」嗜好を持つ一般大衆が、『ヴォーグ』や『ハーパーズ・バザー』の主な読者になっていく。その変化が彼らの写真のスタイルに明確に刻みつけられていると言えそうだ。
ブルーメンフェルドの写真について考えるときに見逃せないのは、ベルリンに生まれた彼が、1918年にオランダ・アムステルダムに移り、そこでダダイズムやシュルレアリスムの洗礼を受けたということだ。フォトモンタージュ、ソラリゼーション、極端なクローズアップ、ブレやピンぼけの効果などを駆使した実験的なポートレートやヌードが、この時期にさかんに試みられている。それが1936年にパリに、39年にはニューヨークに移って、本格的にファッション写真家として活動し始めてからも、彼の写真表現のバックグラウンドとして機能していった。ブルーメンフェルドの経歴は、同じ頃にファッション写真をさかんに発表していたマン・レイとも重なりあっている。そう考えると、マン・レイと同様にブルーメンフェルドの作品世界においても、エロティシズムが最大のモチーフとなっていることは当然と言うべきだろう。

2013/03/13(水)(飯沢耕太郎)

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夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史[北海道・東北編]

会期:2013/03/05~2013/05/06

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

東京都写真美術館で2007年から開催されている「夜明けまえ」の展示も4回目を迎えた。今回は[北海道・東北編]ということで、全国各地の美術館、博物館、図書館、資料館に古写真の所在を問い合わせ、現地調査を繰り返して新たな資料を発掘していくスタイルも、すっかり定着したようだ。特に今回の北海道・東北地方は、幕末から明治期にかけて多くの注目すべき写真家たちが活動した地域であり、横山松三郎、田本研造、武林盛一、佐久間範造(以上北海道)、菊池新学(山形)、屋須弘平(岩手県出身、中米グァテマラで活動)、白崎民治(宮城)らの500点を超える写真群はなかなか見応えがあった。アルバムなどを展示するときに、掲載写真を複写し、壁に映写して見せるやり方もうまくいっていたと思う。
今回は最後のパートに、明治時代の自然災害の記録写真が「特別展示」されていた。ウィリアム・K・バルトンと岩田善平による福島・磐梯山の大爆発後の光景(1888年)、作者不詳の山形・庄内地方の大地震の記録(1894年)、宮内幸太郎が撮影した明治三陸津波の写真アルバム(『中島待乳写真台帳』1896年)など、ちょうど東日本大震災から2年という時期でもあり、時宜を得た好企画だと思う。その資料的価値や迫真性もさることながら、写真家たちが地震や津波による死者の姿を、克明に撮影、記録し、すぐにアルバムのような形で公表していることに強い印象を受けた。東日本大震災後の死者のイメージの扱われ方(ほとんど公表されていない)とは対照的だ。死者の写真を公開すべきかどうかは、きちんと考えて答えを出すべき問題ではないだろうか。

2013/03/13(水)(飯沢耕太郎)

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ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家

会期:2013/01/26~2013/03/24

横浜美術館[神奈川県]

今年はロバート・キャパの生誕100年にあたる。また、彼の代表作と見なされていた、スペイン市民戦争の最中に撮影された「崩れ落ちる兵士」(1936年)が、キャパではなく同行していたゲルダ・タローの写真ではないかという説が沢木耕太郎によって打ち出され、大きな話題を集めている(『キャパの十字架』文藝春秋)。本展も、キャパを巡るそういった関心の高まりを反映する企画と言えるのではないだろうか。
今回の展示で注目されるのは、これまでキャパの恋人、あるいはパートナーとして脇役的な扱いを受けていたゲルダ・タローの写真80点以上が、初めてきちんとした形で公開されたということだろう。ゲルダはのちにロバート・キャパと名のるようになるハンガリー出身のエンドレ・フリードマンとパリで出会って、彼から写真を学び、スペイン市民戦争でも行動をともにすることが多かった。しかも、1937年には戦場で27歳という若さで事故死しており、写真家として本格的に活動したのはわずか2年あまりだった。それでも、同時期に撮影されたキャパの写真と比較すると、ダイナミックな画面構成、死者などを含む生々しい被写体に肉迫する姿勢など、彼女自身の写真のスタイルを確立しかけていたことがわかる。また、「崩れ落ちる兵士」を含むキャパの初期の戦争写真が、ほとんどゲルダとの合作と言うべきものであったことも明確に見えてきた。ゲルダ+フリードマン=キャパという図式を、決してネガティブに捉える必要はないのではないだろうか。
ゲルダの死後のキャパの仕事は、ほぼ過不足なく本展に集成されており、第二次世界大戦中の名作だけでなく、むしろ戦後の「失業した戦争写真家」時代のリラックスした写真に、被写体となる人間たちの表情や身振りを「物語」に埋め込んでいく彼の真骨頂を見ることができる。決して「うまい」写真ではないが、実に味わい深い作品群だ。

2013/03/06(水)(飯沢耕太郎)

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渡邊聖子「波と爪」

会期:2013/02/25~2013/03/03

みどり荘[東京都]

渡邊聖子がようやく本領を発揮し始めたようだ。今回の渋谷区青葉台のみどり荘(古いアパートを改装した気持ちのいいスペース)で開催された新作展では、写真のプリントや青焼きのコピーをガラス板で押さえたり、サービスサイズのプリントを束にして置いたりするインスタレーションが試みられていた。そのやり方自体は、以前とそれほど変わっていない。だが、特筆すべきは写真と併置されている「波と爪」(あるいはKiki and Lala are in love I watch their love)と題するテキストの方で、その表現力が格段に上がっているのだ。
渡邊は以前からテキストと写真とを組み合わせる作品を発表してきたのだが、とかく言葉が空転する印象があり、その意図がうまく伝わってこなかった。だが、「歌謡曲を下敷きにした」今回のテキストでは、言葉の絡み合いがいい意味で俗っぽくなり、読者にきちんと届いてきているように感じる。「波は傷の形をしている。あなたたちはそこで抱き合っていても何も見ることはできない。窓だけが仄あかるい。それ以外はすべて暗い。見えない。抱擁する」。スリリングなエロスの場面が、畳み込むようにスピードに乗せて綴られていくその内容は、もはや現代詩の領域(むろん映像は重要な役割を果たしているが)に踏み込んでいると言えそうだ。
本展はartdishから刊行された渡邊の作品集『石の娘』の出版記念展を兼ねている。秦雅則『鏡と心中』、村越としや『言葉を探す』、そして今回の『石の娘』と続いてきたartdishのラインアップは、言葉を中心にした写真集という、ユニークな志向性をさらに強めつつあるようだ。このシリーズも次の展開が楽しみだ。

2013/03/03(日)(飯沢耕太郎)