artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
新川屋酒展・ノニータの京浜ローカル1.0
新川屋酒店[神奈川県]
会期:前期/2012年4月28日~5月27日 後期/6月2日~7月1日
ノニータ(谷野浩行)という名前の響きはとても懐かしい。1991年の第1回写真新世紀の審査で、彼は優秀賞(荒木経惟選)を受賞した。ちなみに、もうひとりの優秀賞受賞者(南條史生選)だったのが、現在パリ在住のオノデラユキである。
プロデューサーの淺野幸彦の企画による今回の「新川屋酒展・ノニータの京浜ローカル1.0」は、「写真家ノニータの20年の軌跡をたどり、新作まで」を全部見せようという意欲的な展覧会だ。川崎の旧京浜工業地帯のまっただなか、駅前の立ち飲みコーナーがある酒屋さんの壁全体に写真を貼り、トークイベントや撮影会が開催された。その「ノニータのシャシンの話」という第2回目のトークにゲストとして参加したのだが、全身全霊で写真に打ち込んでいく姿勢が、以前とまったく変わっていなかったことに感動した。
懐かしい写真新世紀の優秀賞受賞作品「禅とクリムト」の実物も見ることができた。スケッチブックに、モノクロームの女性ポートレートを、一見無造作に貼り込んだものだが、「これしかない」という確信と気合いが感じられる。そのテンションの高さは、近作までしっかり保たれていて、女性のスカートの中味を驚くほど生真面目に撮影し続けた「パンモロ」のシリーズなど、ノニータ以外にはなかなか思いつかないし、実行も不可能だろう。これから先さらに大きく、「全身写真家」としての可能性が花開いてくる予感がする。
なお、会場になった南武線尻手駅前の新川屋酒店の雰囲気が最高だった。昭和の匂いが漂う雑然とした店内は、展覧会の会場として大いに活用できそうだ。ノニータ展の第二弾など、ぜひ定期的に展示やトークイベントを企画していってほしいものだ。
2012/06/03(日)(飯沢耕太郎)
タムトリ展「未来ちゃんの未来」
会期:2012/06/01~2012/06/24
blind gallery[東京都]
なかなか面白いアイディアの企画展だ。昨年出版されて、写真集としては異例の大ヒットになった川島小鳥の『未来ちゃん』(ナナロク社)。そこに掲載されている佐渡島在住の女の子「未来ちゃん」の写真に触発されて、タイ・バンコク在住の漫画家、アニメーター、タムくんことウィスットポンニミットが、イラストを書き下ろした。タムくんの原画と、その発想の元になった川島の写真を並べて展示してある。
写真と漫画という組み合わせが、ありそうであまりないことに加えて、二人の作品の関係が絶妙で、見ていてとても楽しい。写真の場面をそのまま再現するのではなく、「未来ちゃん」は少し成長して少女になり、SF的な設定の下にいろいろな冒険を繰り広げる。タムくんの、のんびり、ほんわかとした画風が、川島の写真の世界をうまく引き継いで増幅させている。こういう企画は、もっと続いていくといいと思う。つまり、今度は川島が「未来ちゃんの未来」の姿を撮影して、タムくんのイラストをさらに発展させていくのだ。
また、他の写真家と漫画家同士の組み合わせというのも考えられそうだ。たとえば、荒木経惟の『センチメンタルな旅』や『愛しのチロ』だったら、漫画家は誰がいいだろうかなどとつい考えてしまった。
2012/06/02(土)(飯沢耕太郎)
写真の現在4 そのときの光、そのさきの風
会期:2012/06/01~2012/07/29
東京国立近代美術館 ギャラリー4[東京都]
案内状などで展覧会の出品者の顔ぶれを見て、これくらいの展示だろうと値踏みをする。その予想はあまり外れないのだが、この展覧会は違っていた。どちらかといえば地味な作品を発現する写真家が多いし、展示そのものもたしかに派手ではないのだが、いぶし銀の輝きを発する充実した内容だったのだ。おそらく有元伸也、本山周平、中村綾緒、村越としや、新井卓という5人の写真家たちの作品世界が、共鳴しつつ、互いに相乗効果を発揮して絶妙のアンサンブルを奏でたということだろう。
展示のポイントは2つある。ひとつは新井を除いた4人が、いわゆる自主運営ギャラリーを拠点として写真作家としての活動を開始し、現在でもそれを継続している者が多いということだ。有元は四谷でTOTEM POLE GALLERYを運営し、本山と中村は新宿のphotographers' galleryのメンバーだった。そして村越は2009年、清澄白河にTAPギャラリーを立ち上げ、現在もそこで精力的に作品を発表している。新井のみが自主運営ギャラリーとは直接かかわりがないが、彼のダゲレオタイプという19世紀の古典技法への強いこだわりをみると、自分たちの独立した場を確保して展示活動を行なうという自主運営ギャラリーの精神を共有しているようにも思えてくる。
もうひとつは、出品作家が展示作品を制作、あるいは決定していった時期が、ちょうど「3.11」と重なりあっていたということだ。村越は福島県須賀川市の出身であり、中村は仙台に実家がある。新井卓の近作の大判ダゲレオタイプ作品は、東北の太平洋沿岸の被災地で撮影されたものだ。有元や本山も、震災を契機に自らの写真のスタイルを見直し、変えていこうとしている。この2つの要素がうまく絡み合い、写真家たちが覚悟を決めて展覧会に臨んだことが、緊張度の高い展示を実現できた最大の理由だろう。どの写真家の展示もベスト・パフォーマンスといってよい出来栄えだったが、特に本山周平が沖縄中城城跡公園で撮影した200カットを撮影順に展示した、「世界I」(2005年)の突き抜けたインスタレーションが印象に残った。
2012/06/02(土)(飯沢耕太郎)
横須賀功光 展
会期:2012/05/16~2012/07/21
エモン・フォトギャラリー[東京都]
横須賀功光(よこすか・のりあき)が2003年に亡くなってから、もう10年近くになる。彼は1937年の生まれだが、同世代の森山大道、中平卓馬、荒木経惟らが元気に仕事を続けているのと比較すると、60歳代の死去はやはり早すぎたという思いが拭えない。その意味で今回の展覧会のように、彼の1970~80年代の代表作をあらためて見直す機会を持つのはとてもいいことだと思う。こんな写真家がいたということを、記憶にも記録にも留めておきたいからだ。
今回の展示作品は「壁」(1972年)と「光銀事件」(1989年)の2つのシリーズ。特に裸体の男女がコンクリートの壁の前でパフォーマンスを繰り広げる「壁」は、あらためて見て、ぴんと張りつめた緊張感が漂ういい作品だと思った。この頃の横須賀は、広告・ファッションの世界で次々とヒット作を連発する人気写真家だったが、一方でこの「壁」のように、卓越したテクニックを駆使して人間の身体の極限状況を定着するようなプライヴェート・ワークにも果敢に取り組んでいた。このシリーズはニコンサロンでの個展「壁があった」で最初に発表され、「岩」「射」「城」「亜」など他の漢字一文字のタイトルを持つ作品とともに、山岸章二編集の写真集『射』(「映像の現代9」中央公論社、1972)におさめられる。今回は1500×1500ミリの大プリントに引き伸ばされて展示されていたが、そのことによって彼の緊密な画面構成と的確な演出力がよりくっきりと表われてきているように感じた。
1980年代の「光銀事件」になると、その緊張感はやや弛み、画面全体にふわふわと漂うような浮遊感が生じてきている。ソラリゼーションの効果を巧みに活かしながら、洗練されたエロティシズムの世界が織り上げられていくのだ。どちらを評価するかは好みが分かれそうだが、僕は「壁」の荒々しい実験意識により共感を覚えた。そこには同時代の森山大道や中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」の写真に通じる、ざらついた空気感が漂っている。
2012/06/01(金)(飯沢耕太郎)
尾形一郎 尾形優「自邸『タイルの家』で開く写真展」
尾形一郎・優自邸[東京都]
会期:2012年5月18日、19日、26日、27日
尾形一郎と尾形優の作品は、いつも謎めいたたたずまいを見せている。今回自邸「タイルの家」を会場にして展示された「ナミビア/室内の砂丘」のシリーズもそうで、こんな場所が本当にあるのだろうかと疑ってしまうほどだ。被写体になっているのは、約100年前のダイヤモンドラッシュの時期に、ナミビアの砂漠地帯にドイツ人たちが建造した住宅群。ダイヤモンドを採り尽くして彼らが立ち去った後も、極度の乾燥によって家々の壁紙やドアの枠などはそのまま保存され、その中に侵入した砂粒が部屋を半ば埋め尽くしつつある。今回お二人の話を聞いて、その眺めが「人類の頭の中にある深層風景」として撮影されていることがよくわかった。尾形一郎(当時は小野一郎と言う名前で活動)のデビュー作だった、メキシコの過度に装飾的な協会建築を撮影した「ウルトラバロック」(1992~)のシリーズもそうなのだが、彼らは常に現実の世界と内的なヴィジョンとして出現してくる「深層風景」とを照らし合わせるようにして仕事を進めてきたのだ。
それらが通常の視覚的世界の尺度を超え、どこか現実の秩序を逸脱した夢のような相貌を備えているのは、尾形一郎がディスレクシア(dyslexia)というやや特異な障害の持ち主であることと関係がありそうだ。難読症、識字障害とも訳されるディスレクシアの人は、本を一行目から順を追って読み進めたり、長い文章を書いたりするのが難しい。本のページのすべての単語が同時に眼に入ってくるし、文章はブツブツに途切れてしまうので、あとでカット・アンド・ペーストしてつなぎ合わせなければならないのだ。だが、ディスレクシアの人は、ある種の表現活動に天才的な能力を発揮することがある。レオナルド・ダ・ヴィンチやトーマス・エジソンやアガサ・クリスティも、ディスレクシアだったとされている。尾形一郎も、そんな表現者の系譜に連なるひとりといえるだろう。パートナーの尾形優との共同作業を通じて、彼は写真家として、また建築家として、実に独特な作品世界を構築していった。それが「ナミビア/室内の砂丘」のシリーズや、今回公開された自邸「タイルの家」に見事に表われてきているのだ。
「ウルトラバロック」が制作されていた1998年頃から建造され始めた「タイルの家」には、メキシコ産の装飾タイル、陶器、屏風、沖縄の住宅に使われる穴模様のコンクリートブロック、ドイツ製の鉄道模型などが混在した、不思議な空間が醸成されている。これまた尾形一郎のディスレクシア的な世界像を、建築のかたちで実現したものといえそうだ。そのインテリアは、ナミビアの砂に埋もれかけた家を撮影してからは、灰色の塗料で少しずつ塗りつぶされつつある。つまり、彼らが訪れた世界各地の建築物、それらを撮影した写真、彼らがつくり出した建築空間が、連動しながら入れ子状態で結びつき、謎めいた、だがどこか奇妙に懐かしい空間にわれわれを誘うのだ。このユニークな仕事を、少人数で味わうことができたのは幸運だったが、もう少しスケールの大きな展示(インスタレーション)として見てみたいとも思った。
2012/05/27(日)(飯沢耕太郎)