artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
芸術家の肖像~写真で見る19世紀、20世紀フランスの芸術家たち
会期:2012/04/14~2012/06/24
三鷹市美術ギャラリー[東京都]
どちらかといえば渋い、地味な印象の展覧会だが、写真や美術に関心のある鑑賞者にとっては、とても興味をそそられる展示なのではないだろうか。出品されているのはフランスのコレクターが長年にわたって蒐集したという、画家、彫刻家を中心にしたアーティストたちの肖像写真群である。アングル、ドラクロアから、マネ、セザンヌ、ルノワール、ロダンなどの巨匠のポートレートがずらりと並び、マティスやブランクーシの写真に至る。詩人のシャルル・ボードレールや女優のサラ・ベルナールの肖像も含めて、19世紀~20世紀のフランスの錚々たる文化人たちが、こんな顔をしていたのだということがリアルに見えてくること自体が、なかなかの見物といえるだろう。
それに加えて、写真におけるポートレートというジャンルができあがってくるプロセスが、くっきりと浮かび上がってくるのが興味深い。いかにも型にはまったウジェーヌ・ディスデリの1850年代の名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)から、ナダールやエティアンヌ・カルジャの堂々たる古典的な構図の肖像を経て、ドルナックやエドモン・ベナールのアトリエの環境とモデルとの関係のあり方を緻密に測定・定着した作品まで、19世紀フランスの肖像写真の歴史は、写真という表現媒体の受容と発展の経緯を示す見事なサンプルでもある。それにしても、ここに写っているアーティストたちの姿かたちは妙に生々しい。画家や彫刻家たちの生身の身体から発するオーラが、写真家たちによって捕獲され、これらの写真のなかに封じ込められているようにも見えてくる。最近の「芸術家の肖像」では、なかなかこうはいかないのではないだろうか。
2012/05/09(水)(飯沢耕太郎)
杉本博司「ハダカから被服へ」
会期:2012/03/31~2012/07/01
原美術館[東京都]
杉本博司の最近の展覧会には、基本的にキュレーターは必要ない。彼自身が展覧会のコンセプトを決め、作品を選び、展示を構成・レイアウトし、解説を書くことができるからだ。アーティストとしてのレベルの高さは言うまでもないことだが、彼のキュレーターとしての卓越した能力も特筆すべきだろう。
今回の「ハダカから被服へ」展でも、その手際の鮮やかさを堂々と見せつけていた。「なぜ私達人間は服を着るのだろう?」という問題設定に対して、自作と彼自身のコレクション、自らデザインを手がけた文楽人形や能の衣裳などを会場に散りばめて見事に解答を導き出している。中心になっているのは20世紀を代現するシャネル、サンローラン、スキャパレリ、クレージュ、さらに山本耀司、三宅一生、川久保玲などのファッションの名作を、黒バック、モノクロームで撮影した「スタイアライズド・スカルプチャー」のシリーズ。そこではタイトルが示すように、衣服があたかも彫刻(あるいは建築)のようなフォルムを強調して撮影されており、杉本らしい緻密で周到な画面構成力を見ることができる。1階の「近代被服のブランド化」のパートから、2階の「和製ブランドの殴り込み的パリコレ登場」のパートへと、視点を切り替えて観客を誘う展示構成も鮮やかなものだ。
ただ、このような啓蒙的、優等生的なキュレーションの展示を見続けていると、いささか胃にもたれてくるのも否定できない。写真、アート、建築、ファッション等々、あらゆるジャンルを杉本流の史観と美意識で裁断できるのはよくわかった。「で、そこから先は?」と、無い物ねだりをしてみたい気分にもなってくる。むしろ解答不可能な問いかけの前で、彼が立ちすくんでいる姿を見てみたいなどとも思ってしまうのだ。
2012/05/08(火)(飯沢耕太郎)
中平卓馬『サーキュレーション──日付、場所、行為』
発行所:オシリス
発行日:2012年4月26日
中平卓馬は1971年9月24日~11月にパリ郊外のヴァンセンヌ植物園で開催されたパリ青年ビエンナーレ(正式名称はパリ・ビエンナーレだが、出品作家が20歳~35歳までという制限があるので「青年ビエンナーレ」と表記される)に参加した。出品作の「サーキュレーション──日付、場所、行為(Circulation: Date, Place, Events)」は、いかにも中平らしい過激なコンセプトに貫かれていた。毎日、パリ市内でアトランダムに撮影したスナップショットを、その日のうちに現像・プリントし、そのまま会場の壁に貼り付けていったのだ。雑誌やポスターの画像の複写を含む、都市の雑多な断片的なイメージを増殖させ、写真を作品として完結させていこうという営みに真っ向から異議を唱えるアナーキーな試みだったのだが、印画紙が指定されたスペースからはみ出して床にまで広がり、他の作品まで侵食し始めたことで、ビエンナーレ事務局からクレームがつく。結局、中平は会期終了日の2日前に、事務局の干渉に抗議して会場から全作品を撤去した。
今回オシリスから刊行された『サーキュレーション──日付、場所、行為』は、中平がパリで撮影した35ミリモノクローム・フィルム、約980カットと、現存する48枚のプリントから、パリ青年ビエンナーレの展示作品を再構成した写真集である。35ミリネガからのプリントは金村修が担当した。40年後の現在においては、ベストに近い編集、造本、レイアウトであり、当時の熱っぽい雰囲気がヴィヴィッドに伝わってくる。中平が1970年代の初頭に展開していた、写真を「行為」として捉え直そうという志向は、デジタル化が全面的に浸透した現在の状況において、もう一度問い返されるべきだと思う。『サーキュレーション──日付、場所、行為』は、「思考のための挑発的資料」としての意義と輝きを失ってはいない。
2012/05/03(木)(飯沢耕太郎)
野村恵子「SOUL BLUE」
会期:2012/04/23~2012/04/29
Place M[東京都]
野村恵子の前作は、2009年にエモン・フォトギャラリーで展示された「RED WATER」。赤から青へと基調色が変化したわけだが、血を騒がせるような、光と闇の強烈なコントラストに彩られた風景の合間に、女性のポートレートやヌードを配する構成そのものはそれほど変わっていない。だが、東京の自宅のマンションから定点観測的に撮影し続けた風景の連作(ここでも基調となる色は青)などを見ると、かつての心を浮き立たせるような強烈なビートはやや影を潜め、時の移ろいを静かに見つめるような沈潜した気分が迫り出していることがわかる。20歳代でデビューした野村も、40歳代になり、両親を相次いで亡くしたこともあって、写真家としての現実世界への向き合い方が少しずつ変わり始めているということだろう。
こうなると、そろそろ彼女の現在の到達点をくっきりと示すような展覧会や写真集がほしくなってくる。そう思っていたら、どうやら野村自身も同じことを考えていたようだ。今回の展示には間に合わなかったのだが、秋にこの「SOUL BLUE」のシリーズを、赤々舎からハードカバーの写真集として刊行する予定があるという。野村本人は新作だけでまとめたいという意向のようだが、僕はいっそのことデビュー作の『DEEP SOUTH』(リトルモア、1999)以来の代表作を、総ざらいするくらいの写真集にしてほしいと思う。ひとりの女性写真家の成長の過程を見るということだけではなく、1970年代生まれ野村の世代が築き上げてきた写真の底力を、しっかりと見せつけてほしいのだ。
2012/04/27(金)(飯沢耕太郎)
芸術家Mの舞台裏:福永一夫が撮った「森村泰昌」
会期:2012/04/14~2012/05/17
B GALLERY[東京都]
福永一夫は1989年頃から、森村泰昌が制作するセルフポートレート作品の撮影を担当するようになった。森村はひとつの作品を完成させるために、衣裳、メーキャップ、ポーズ、そして舞台設定のセッティングに至るまで、細部にまで目を凝らしながら全精力を傾注していく。彼自身が画面に写り込むことが前提だから、当然誰かがシャッターを切ることが必要になる。そこで白羽の矢が立ったのが、森村と同じ京都市立芸術大学で学んでいた後輩の福永だったわけだ。
森村と福永の写真の師は、日系アメリカ人のアーネスト・サトウである。彼のアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を例に引いた、厳密なスナップショットの美学についての講義が、森村と福永の「共通の基盤」になっているのだという。つまり、最終的にこのような構図で、このタイミングでシャッターを切るということについて、2人には暗黙の了解事項があるということだ、福永の存在が、森村の旺盛な創作活動を、影で支え続けてきたことは間違いないだろう。
一方で、福永は森村の作品制作の現場を、折りに触れてライカで撮影してきた。それが今回展示された「芸術家Mの舞台裏」のシリーズである。こちらは森村の普段着の姿、また他者に成りきっていく変身の過程がいきいきと、克明にとらえられている。どちらかといえば気軽な、「撮ること」の歓びに突き動かされてシャッターを切った写真群なのだが、ここでもアーネスト・サトウ仕込みの的確なカメラワークが発揮されている。日本を代現する現代美術アーティストの「舞台裏」の貴重な記録というだけでなく、さまざまな出来事が同時発生的に起こってくる制作の現場が、スナップショットの素材として実に面白いものであることがよくわかる。森村の作品とはまた違った魅力を備えたシリーズといえるのではないだろうか。なお、展覧会にあわせて写真集『美術家 森村泰昌の舞台裏』(BEAMS)も刊行されている。
2012/04/22(日)(飯沢耕太郎)