artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

林ナツミ「本日の浮遊」

会期:2012/06/16~2012/07/29

MEM[東京都]

大ブレイクの予感を感じさせる写真展だった。6月16日に、僕と作者の林ナツミのトークイベントが開催されたのだが、雨模様にもかかわらずNADiff a/p/a/r/tIFの会場は超満員。林の写真への関心の高さを肌で感じることができた。彼女が「本日の浮遊」シリーズを、1年間の予定で自分のブログ「よわよわカメラウーマン日記」で公開しはじめたのは2011年1月1日だった。その「浮遊少女」のパフォーマンスは、特に海外で尻上がりに反響を呼び、台湾での写真展、写真集の刊行につながっていく。ブログやフェイスブックなど、これまでとはまったく違う回路で人気に火がついたというのは注目すべき現象だと思う。今回の個展の開催に続いて、7月には青幻舎から同名の写真集も刊行される予定だ。
林の写真の魅力は、撮影場所の設定から、実際の撮影、そしてプリントの選択、ブログへのアップに至るまでのプロセスを丁寧に、まったく手を抜かずにやっている所から来ているのだろう。1回の撮影で100回以上もジャンプすることもあるというから、体力がよく続くものだと感心してしまう。最初の頃は、まさに1日1枚のペースで発表していたのだが、あまりにも手間と時間がかかるので、自分のペースで制作することにして、現在は2011年6月の時点まで達しているのだという。なお、彼女はパフォーマンスに専念していて、シャッターを切っているのはパートナーの原久路である。「バルテュス絵画の考察」シリーズで、これまた内外の注目を集めている彼との共同作業も、「本日の浮遊」の大きな要素となっているのではないだろうか。まだ時間はかかりそうだが、ぜひ最後まで「浮遊」を全うし続けていってほしいものだ。

2012/06/16(土)(飯沢耕太郎)

植田正治「童暦・砂丘劇場」

会期:2012/06/05~2012/07/01

JCII PHOTO SALON[東京都]

植田正治が1971年に刊行した写真集『童暦』(中央公論社)は、僕にとっても忘れがたい写真集だ。当時『カメラ毎日』の編集部員だった山岸章二が企画・編集した「映像の現代」シリーズの第3巻として刊行されたこの写真集は、山陰地方を拠点に活動する「地方作家」であった植田の名前を、一躍全国に知らしめるものとなった。僕自身もこの写真集で彼の写真の面白さに開眼したひとりであり、何度見直しても驚きと感動を覚える。山陰の風土とそこに生きる人々の姿を、四季を通じて撮影したドキュメンタリーとしてももちろん優れた成果なのだが、それ以上に小さな子どもたちの存在のはかなさと輝きが、詩情とともに浮かび上がってくる、極めつきの名作と言えるだろう。
今回の展示では、ペンタックスカメラ博物館に旧蔵され、2010年に日本カメラ財団に移管された、その「童暦」シリーズの代表作を見ることができた。ただし、写真集の『童暦』に収録されたものとは微妙に構図が違う、別カットのプリントも含まれているのが興味深い。植田が、いったん作品を写真集として完成させた後でも、さらに試行錯誤を続けていったことがわかる。それに加えて、自宅近くの弓ケ浜や鳥取砂丘を「巨大なホリゾント」を持つ劇場に見立てて撮影した「砂丘劇場」のシリーズも、あわせて展示してあった。戦前の傑作「少女四態」(1939年)から1980年代の「砂丘モード」に至るまで、この日本には珍しい広々とした開放的な空間が、植田のインスピレーションを常に刺激し続け、魅力的な群像写真の連作として結実していったことが、そこにはよく表われていた。
来年(2013年)は、いよいよ植田正治の生誕100年の年だ。そろそろ、その写真家としての全体像をしっかりとかたちにしていかなければならない時期が来ているということである。

2012/06/15(金)(飯沢耕太郎)

佐藤志保、畠山雄豪、人見将の写真展「念力、滲透、輪郭」

会期:2012/06/13~2012/06/24

リコーフォトギャラリー RING CUBE[東京都]

昨年7月に東川町国際写真フェスティバルの関連行事として開催されたリコーポートフォリオオーディション。鷹野隆大と一緒に僕も審査に参加したのだが、そのレベルの高さにびっくりさせられた。ポートフォリオを制作し、自分の作品をプレゼンテーションするということが、写真家たちの間にごく当たり前のルーティンとして定着しつつあるということだろう。そのときは北海道札幌在住の山本顕史がグランプリに選ばれ、昨年11~12月に東京・銀座のリコーフォトギャラリーRING CUBEで個展「ユキオト」が開催された。だが次点に残った佐藤志保、畠山雄豪、人見将の作品も甲乙つけがたく、あまりにも惜しいということで、今回その3人で「念力、滲透、輪郭」と題する展示を開催することになった。
佐藤志保の「念力」はダウジング、テレポーテーション、透視、幽体離脱などの超常現象をテーマにした作品。それぞれの状況をモデルに演じてもらい、とても気のきいたテキストを付して作品化している。4×5インチの大判カメラで撮影したプリントのクオリティが高く、脱力感のあるユーモアが独特の味わいを醸し出していた。畠山雄豪の「滲透」は、川の中に顔を覗かせる石を真上から撮影し、水と鉱物との「滲透」の状況を細やかに浮かび上がらせる。作品を床に並べて、その間を観客が縫うように歩き回れるように設定したインスタレーションがなかなかよかった。人見将の「輪郭」は、人体の影を定着したフォトグラム作品。さまざまなポーズをとるシルエットに、コラージュやドローイングで装飾的な要素を付け加え、軽やかな遊び心を発揮する作品に仕上げている。
3人とも、今後の活躍が大いに期待できる。オープニングの会場で、畠山から来年秋に山本顕史も含めた4人展を開催したいという抱負が述べられた。偶然の機会で出会った4人だが、おのおのの力が融合し、化学反応を起こすとさらに面白くなるのではないだろうか。

2012/06/13(水)(飯沢耕太郎)

勝又邦彦「dimensions」

会期:2012/06/04~2012/06/16

表参道画廊[東京都]

勝又邦彦は2000年代以来、風景写真の領域でコンスタントに佳作を発表してきた。2001年にさがみはら写真新人奨励賞、2005年には日本写真協会新人賞を受賞するなど、その作品は高い評価を受けている。ただ、彼の仕事を見続けてきて、どこか壁を突き抜けられないもどかしさを感じ続けていたのも事実だ。アイディアの多彩さ、作品の質の高さは間違いないのだが、その知的で繊細なアプローチに、どこか既視感がつきまとう所があるのだ。
今回の表参道画廊の個展は「東京写真月間2012」の関連企画として、東京国立近代美術館の増田玲が構成した。都市の遠景を横長のパノラマ的な画面におさめた代表作の「skyline」(2001年~)のシリーズをはじめとして、「screen」(2002年~)、「Hotel’s Window」(2003年~)、さらに新作の映像作品「cities on the move」が展示されていた。どれも練り上げられたいい仕事なのだが、やはりもどかしさは拭えない。作品の完成度ではなく、もっと「これを見せたい」という確信を見せてほしいと思う。
4つのシリーズのなかでは、ホテルの客室のインテリアと窓の外の眺めを同時に捉えた「Hotel’s Window」に可能性を感じた。「内/外」というステロタイプな図式からはみ出していくような、イメージとしての強度がある。さらに粘り強く、先に進めてほしい作品だ。

2012/06/08(金)(飯沢耕太郎)

平川典俊「木漏れ日の向こうに」

会期:2012/04/14~2012/06/10

群馬県立近代美術館[群馬県]

僕は以前、平川典俊について「なぜ東京で『東京の夢』を見ることができないのか」という文章を書いたことがある(『déjà-vu』19号、1995年4月)。そのなかで、平川のことを「知的なアラキ」なのではないかと論じた。彼の「東京の夢」(1991年)、「At a bedroom in the middle of night」(1993年)、「女、子どもと日本人」(1994年)などの写真作品に見られる、モデルの女性の性的なイメージを直接的に開示するのではなく、「じらし」や「ほのめかし」によって暗喩的に表現していく手法が、荒木と共通しているのではないかと考えたのだ。
その印象は、今回群馬県立近代美術館で開催された、彼の日本の公共美術館では初めての大規模な個展を見てもそれほど変わらなかった。ただ、平川自身がカタログに掲載されたアート・リンゼイとの対談「不確定の目撃者」でも強調しているように、彼と荒木とは「アートへのアプローチに於いては全く違った位置にいる」こともよくわかった。荒木の写真が、あくまでも彼と被写体となる女性との直接的な(私的な)関係を基点にしているのに対して、平川のモデルたちは彼のプロジェクトの一要素としてのみ取り扱われている。彼が常に問題にしているのは彼女たちの社会的な違和感や不安感であり、さらにその写真を見る観客の、抑圧され、歪められた反応のあり方なのだ。また平川が提示するイメージは、彼自身による大量のテキストによって、二重、三重に取り囲まれており、絡めとられており、観客の思考をその文脈によって方向づけていく。多くの場合、テキスト抜きに、いきなり物質化した性的イメージを突きつけてくる荒木とは、その点においても対照的だ。
それでも、平川がなぜこれほどまでに、性的な感情を刺激し、揺さぶるような写真にこだわり続けているのかという疑問は残った。彼は、自分は「写真に固執しているのではない」と何度も述べているが、僕のような立場から見ると、彼の写真のたたずまいは実に魅力的なのだ。昆虫が花の蜜に引き寄せられるような心理的な罠が、至るところに仕掛けられていて、知らず知らずのうちに妄想の糸を紡ぎ出すように導かれてしまう。他のヴィデオ作品やインスタレーション作品に比べても、彼の写真作品の巧妙さ、独特の喚起力は際立って見える。平川典俊は天性の写真家なのではないだろうか。少なくとも、彼ほど写真の力を熟知し、効果的に使用しているアーティストは他にあまりいないのではないかと思う。

2012/06/05(火)(飯沢耕太郎)