artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
山脇敏次「Dimension of Vision〈視覚の立脚点〉」
会期:2011/10/26~2011/11/06
IN STYLE PHOTOGRAPHY CENTER[東京都]
山脇敏次は広告関係の仕事をしながら、2008年頃から本格的に写真作品を制作しはじめ、今回の初個展に結びつけた。試作したプリントの数は約2,000点。それを70点余りにまで絞り込んだわけだが、その「思考の転換」のきっかけになったのは、「3・11」の経験だったという。その結果として、さまざまな要素が含み込まれた混沌としたイメージの連なりが、「Episode I〈Abstract〉」(モノクローム作品)、「Episode II〈Translation〉」(カラー作品)を経て、「Episode III〈Calm〉」(「3・11の海の写真」)に至る構造がくっきりとかたちをとってきた。
最後に一点だけ、泡立ち、盛り上がる黒い波の上を飛行機が飛んでいく写真を入れたことについては、むずかしい選択だったといえるだろう。この決定性の強いイメージによって、シャッフルと散乱の原理によって編み上げられていった写真展の構成が、予定調和で収束してしまったともいえるからだ。だが、山脇の写真作家としての将来性を考えると、決してここで終わってしまったわけではなく、むしろこれから先も自らの「視覚の立脚点」を探り当てようとする解体=構築の作業が続いていくことが予想される。これらの写真群もまた、ふたたび組み換えられ、まったく違ったかたちで姿を現わすことも充分にありえるのではないだろうか。
なお、写真展にあわせて写真集版の『Dimension of Vision』(スタジオアラパージュ)も刊行された。写真展の構成を踏襲しているが、こちらには109点の写真がおさめられている。
2011/10/26(水)(飯沢耕太郎)
柴田敏雄「concrete abstraction」
会期:2011/10/07~2011/11/06
BLD GALLERY[東京都]
「concrete abstraction」という展覧会のタイトルは実に気がきいている。concreteは「具体的な、有形の、実際の」という意味だからabstraction(抽象)の反対概念だ。だが同時に「コンクリートの」という意味もあり、柴田の作品の被写体のほとんどすべてに、この「コンクリート(セメント)」で固められた建造物が写っている。しかも今回展示された写真に写っているそれらの多くは、モザイク状の平面的なパターンを強調して撮影されており、あたかも抽象画のように処理されている。concreteとabstractionという言葉の意味作用が、二重、三重に錯綜し、絡み合っているのだ。
このような遊び心のあるタイトルを付けるところに、柴田敏雄の写真家としての余裕を感じることができる。4×5インチ、20×24インチ、40×50インチの大小三種類のサイズのプリントを、効果的に配置した展示プランにも同じことを感じる。2000年代以降、プリントの方式をモノクロームからカラーに変えることによって柴田のなかに育ってきている、軽やかに弾むような表現の歓びを、今回の展示でもはっきりと感じとることができた。もうひとつ、「コンクリート」とともに目立っていたのは、ダム、水路、滝などさまざまな形態をとる水の表情への強い関心だ。コンクリートの強固な物質性を和らげ、時には完全に解体してしまう融通無碍な水のパワーは、やはり柴田の作品世界のありかたを大きく変えつつあるのではないかと思う。それが、これから先どんなふうにかたちをとっていくのかが楽しみだ。
2011/10/19(水)(飯沢耕太郎)
進藤万里子「bibo -SP KL TK-」
会期:2011/10/14~2011/11/05
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
進藤万里子が「bio」や「body」を連想させる「bibo」というタイトルで作品を発表しはじめてから、もう10年あまりになる。個展の数も今回で10回を超え、蒼穹舍から同名の写真集も刊行されたので、一区切りの時期にきているのは間違いないだろう。
今回の展示にはSP KL TKという記号のようなものが添えられているが、これはサンパウロ、クアラルンプール、東京の略称。つまり、これらの都市で写真が撮影されているということなのだが、鏡やガラス窓に映る像を舐めるように写しとり、モノクロームのロールペーパーに大きく引き伸ばしたプリントを壁から吊るすという作品の内容、形式が最初からまったく変わっていないので、いつ見てもいっこうに代わり映えがしない。この歪んだ画像と、白黒のコントラストを強調したプリントのあり方に進藤が強く執着し、そこに他に変えがたいリアリティを託していることはよくわかる。だがその「変わらなさ」は、近作になるにつれてむしろ表現者としての彼女の首を絞め、彼女自身にも、作品を見るわれわれ観客にも閉塞感を与えているように思えてならない。
自分のやり方に頑固にこだわるという姿勢は、とても大事なことだ。だがそれは時に、一歩踏み出していくという勇気のなさを覆い隠す、言い訳になってしまうことがある。いま、進藤に起こりかけているのがまさにそれだろう。恐れることはない。固定してしまった自らの作品世界を突き崩し、さらに先に進むべきだ。
2011/10/19(水)(飯沢耕太郎)
発光する港~香港写真の現在2011
会期:2011/10/17~2011/11/17
ガーディアン・ガーデン[東京都]
ガーディアン・ガーデンで2~3年に一度のペースで開催されている「アジアンフォトグラフィー」のシリーズも7回目を数える。これまで、韓国、台湾、中国などの若手写真家たちを紹介してきたのだが、今回は台湾のキュレーター、呉嘉寳(ウー・ジャバオ)の構成で、香港の9人の写真家たちの作品が展示された。
張偉樂(チョン・ワイロック)、陳偉江(チャン・ワイクウォン)、何兆南(ホ・シュウナム)、余偉建(ヴィンセント・ユー)、呉世傑(ング・サイキット)、謝明荘(チェ・ミンチョン)、蘇慶強(ソ・ヒンキゥング)、何柏基(ホ・パックケイ)、頼朗騫(ライ・ロンヒン)の9人は、1957年生まれの呉世傑から1986年生まれの張偉樂まで、世代的にはかなり幅が広い。だがそこには、ポラロイド写真(頼朗騫)、パノラマ写真(呉世傑、余偉建)、フェイスブックとカメラ付き携帯電話(張偉樂)など、さまざまなメディアを介して画像を加工しつつ、多彩な映像世界を構築していく香港の写真家たちのスタイルがよくあらわれている。画像処理の洗練度は中国本土や台湾の写真家たちより高いが、強度という点ではやや物足りない所もある。だが、陳偉江の体を張った果敢なスナップショットの集積など、これまでとはやや異質な表現も芽生えはじめているようだ。
このような展覧会を見ると、日本も含めた「東アジアの写真表現」のあり方について、あらためてきちんと考えるべきではないかと思ってしまう。単発の展示ではなく、そろそろ東アジア各国、各地域の写真を共通性と異質性の観点から裁断する、より大きなスケールの展覧会やシンポジウムを企画していかなければならないのではないだろうか。
2011/10/18(火)(飯沢耕太郎)
アナトリー・チェルカソフ「自然における私の居場所」
会期:2011/10/12~2011/10/25
銀座ニコンサロン[東京都]
アナトリー・チェルカソフは、1935年生まれのウクライナの写真家。農業経済学者として活動しながら、1950年代から写真を撮影しはじめた。当初は「純粋な芸術性」の追求にはそれほど関心はなく、「目に映る周囲の様子をありのままに撮る」ことをめざしていたという。だが、19世紀に流行したプラチナプリントと出会うことで、風景の「触知性」を細やかに撮影し、定着することをめざすようになる。今回の日本での初個展では、そうやって制作された大小50点余りのプラチナプリント作品が並んでいた。
テーマはかなりバラエティに富んでいて、鉱山、発電所などの人工的な建造物を広がりのある風景のなかで捉えた作品もあれば、水辺、森など大自然に溶け込んでいくことを楽しむような作品もある。マイケル・ケンナの風景写真を思わせる簡潔な構図も好んでいて、樹の上に雪が積もっている冬の情景など、典雅な詩情を感じさせるいい作品だ。どこか日本人の好む風景写真の型に通じるものがあるようにも感じた。全体に、プラチナプリントの柔らかく穏やかな質感がうまく活かされていて、品格のある美しさを感じる作品が多かった。「自分は写真家としてはスタートラインにたったばかり」と挨拶の文章で記している。この謙虚な姿勢もいいと思う。
2011/10/18(火)(飯沢耕太郎)