artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
高木こずえ「SUZU」
会期:2011/09/03~2011/10/01
TARO NASU[東京都]
高木こずえの潜在能力の高さは、誰もが認めざるをえないだろう。コンスタントに水準以上の作品を生み出していく安定感は、2006年に写真新世紀グランプリを受賞してのデビューからまったく変わりはない。
今回展示された「SUZU」は、2010年に『MID』と『GROUND』のシリーズで第35回木村伊兵衛写真賞を受賞した直後、生まれ故郷の長野県諏訪に100日あまり滞在して撮影・制作したものだ(信濃毎日新聞社から同名の写真集も刊行)。若い写真家が写真撮影を通じて自らの“ルーツ”を確認するというのは、とかくありがちなことだが、高木にかかると一筋縄ではいかない作品ができ上がってくる。諏訪大社の御柱祭、近親者のスナップのようなそれらしいテーマを扱っても、彼女のなかにセットされているイメージ変換の回路が作動して、何とも不可思議な、宇宙的としかいいようのない時空が姿をあらわしてくるのだ。画面に浮かび上がる円や矩形の幾何学的なパターンも、普通ならとってつけたような印象を与えるところだが、それほど違和感なく共存している。タイトルの「SUZU」というのは、撮影の間「はるか遠くで鳴る小さな鈴の音」に耳を澄ましていたということから来ている。たしかに、その幻の鈴の音がこちらにも聞こえてくるように感じる。そういえば、高木が「SUZU」のように日本語を作品のタイトルにしたのは、もしかするとはじめてかもしれない。これまでは「insider」「MID」「GROUND」など、英語のタイトルが多かったのだ。作品制作の動機と同様に、写真家としての原点を問い直すという志向が彼女のなかに芽生えつつあるのだろうか。
なお、写真集の刊行にあわせて、長野県長野市のホクト文化ホール ギャラリー(長野県民文化会館)でも同名の展覧会(9月14日~19日)が開催された。
2011/09/15(木)(飯沢耕太郎)
森岡督行/平野太呂(写真)『写真集』
発行所:平凡社(コロナ・ブックス)
発行日:2011年9月7日
「写真集の写真集」。このアイディアは以前から形にしたいと思っていたのだが、残念ながら先を越されてしまった。しかも、かなり理想に近い形で。
本書に収録された写真集は、すべて東京・茅場町の森岡書店で扱っているものである。森岡書店は、著者の森岡督行が1926(昭和2)年建造という古いビルの一室に、2006年に開業した古書店である。白壁と焦茶色の床の室内には、趣味のいい書棚と机が並べられ、そこにゆったりと、これまた趣味よく写真集を中心にした本が並べられている。壁の一部はギャラリーとしても使われていて、僕も個展を開催させていただいたことがあった(飯沢耕太郎コラージュ展「ストーンタウン・グラフィティ」2010年12月13日~18日)。個人的にも、とても好きな空間なのだが、ヨーロッパや日本の戦前の写真集など、古書店としての品揃えもしっかりしていて、定期的に足を運ぶお客も多い。本書はその森岡書店の粒ぞろいの写真集を、店主自ら解説して紹介するというなかなか贅沢な企画である。大竹昭子、平松洋子、ピーコ、しまおまほ、藤本壮介など、縁のある人々に森岡が写真集を手紙つきで送るという想定で書かれた文章も、しっかりと丁寧に綴られている。
だが、本書の最大の魅力は、何といっても平野太呂によって撮影された書影の素晴らしさだろう。むろん単なる複写ではない。この本はここに、こんなふうに置かれるべきだという思いがそれぞれ見事に実現されていて、ページをめくるたびに新しい世界が開けてくる。センスのよさだけではなく、写真集そのものに対する理解度の深さが伝わってくるのだ。実物で確認してほしいので、ここではあまり具体的なことは書きたくないが、ひとつだけ。エドワード・スタイケン編の『The Family of Man』が、白いハンガーにぶら下がっている写真を見て、思わず笑ってしまった。
2011/09/14(水)(飯沢耕太郎)
伊東卓「ROOMS」
会期:2011/09/06~2011/09/11
SARP[宮城県]
仙台市青葉区にあるSARP(Sendai Artist-run Place)を舞台に毎年開催されている「仙台写真月間」。仙台市在住の写真家、小岩勉を中心としたメンバーが、質の高い展示を展開している。今回は8月23日から9月18日にかけて城田清弘「続 家の方へ」、茂木大作「家族になりました」、別府笑「sanitas」(この展示だけart room Enoma)、工藤彩子「LOX」、秋保桃子「灯す」、伊東卓「ROOMS」、花輪奈穂「L」、小岩勉「FLORA#2」、野寺亜季子「北風 はと 太陽」が開催された。仙台にしっかりと根ざした写真の鉱脈が形をとり始めているように感じる。
そのうち、たまたま見ることができた伊東卓の「ROOMS」がかなり面白かった。伊東の本業は建物のリフォームで、既に住人が移り住んでしまった住居を見る機会が多い。最初は写真を撮るつもりはなかったのだが、2年前にふと思いついて、その空き部屋のたたずまいにカメラを向けるようになった。今回の個展では、そうやって撮りためた写真の中から13点を選び、半切のプリントに引伸して並べている。家具を移動した後の壁や床に残るかすかな痕跡、染みや埃の堆積、磨き込まれた床の木目、貼り残された日本地図、置いておかれたままの車椅子──それらを淡々と撮影しているだけのモノクローム作品だが、寡黙なイメージがなぜか強く心を揺さぶる。むしろ写真のフレームの外側、今は不在になった住人たちの行方などに、想像力が広がっていくように感じるのだ。伊東は仕事柄、こういう部屋に出会う機会が多いということなので、さらに撮り続けて、よりスケールの大きなシリーズとしてまとめていってほしい。「痕跡学」とでもいうべき思考が、そこから芽生えていきそうな気もする。
2011/09/10(土)(飯沢耕太郎)
原久路「Picture, Photography and Beyond」
会期:2011/09/03~2011/10/02
MEM[東京都]
2009年に「バルテュス絵画の考察」シリーズを発表して注目を集めた原久路の新作展が開催された。新作といっても、前作から派生した作品である。テーマになっているのは、バルテュスの素描や油彩画で描かれている静物で、前作と同じようにやはり微妙な修整が施されている。たとえば素描に描かれた洋梨のような果実(西欧静物画の伝統的な主題)は柿に置き換えられ、撮影の舞台になった旧診療所の建物に残されていた医療器具が、画面の中に微妙に配置を換えて写し込まれている。一点だけ出品された少女の肖像も含めて、ここでも原自身の「バルュテス絵画」に対する解釈や批評が、はっきりと打ち出されているといえるだろう。
結果として、できあがった静物写真=絵画は、どこか神秘的でもある生命感をたたえた画像として成立している。それらを見ているうちに、野島康三が1920~30年代に制作したブロムオイル印画法による一連の静物写真を思い出した。《仏手柑》《枇杷》など、果実をテーマにしたこれらの静物写真もまた、アニミスム的といえそうな雰囲気を感じさせる。そういえば森村泰昌が野島の《仏手柑》を原画として、自分の手と足に置き換えた作品を発表したことがあった。森村もまた、野島の静物写真の不思議な魅力に気づいていたということだろう。
今回は、同じ画像から写真史の草創期に使われた鶏卵紙に焼いたプリントと、大きめのデジタルプリントとを並置する展示も試みられている。原の表現領域を拡大していこうという意欲を感じることができた。ただ、バルテュスのみにこだわり続けていくと、やや煮詰まってしまうこともありそうだ。他の画家や写真家たちの作品から得たインスピレーションも、積極的に取り込んでいってほしいと思う。
2011/09/07(水)(飯沢耕太郎)
秦雅則「埋葬」
会期:2011/09/02~2011/09/14
新・港村(新港ピア)/Under 35 GALLERY[神奈川県]
横浜トリエンナーレの一環として、さまざまなジャンルのアートや文化振興企画を展開している新・港村。その一角のUnder 35 GALLERYは、「35歳以下の現代美術家、写真家、建築家をそれぞれ紹介していく連続個展シリーズ」である。8月6日~17日の西原尚に続いて、秦雅則の展示がスタートした(奥村昂子展を同時開催)。
秦はこの欄でもたびたび取りあげてきたが、僕が今一番注目している若手写真作家のひとりだ。2008年に写真新世紀でグランプリを受賞してデビューし、東京・四谷の企画ギャラリー・明るい部屋の活動を通じて、その表現力に磨きをかけてきた。今回の「埋葬」シリーズを見ても、瘡蓋を引きはがすように心理的なズレや歪みを暴き立てていく作品によって、誰も真似ができない領域に踏み込みつつあるように感じる。秦はこのところずっと、エロ雑誌をスキャニングした画像を微妙にずらしたり組み合わせたりしながら、架空の女の子のイメージを増殖させる作品を発表してきた。今回の展示はその集大成というべきもので、A5判ほどのサイズの小さな写真を300枚以上、フレームにおさめて壁にびっしりと並べ、床にはやや大きめのサイズの写真を12点、やはりフレームにおさめて置いていた。ピースサインで決めている裸の女の子のポーズの能天気さと、身体の各パーツを寄せ集めたゾンビのような土気色の肌とが合体して、悪趣味の極致としかいいようのない強度に達している。ここまで気持ちが悪いグロテスクなイメージ群を見せつけられると、逆に妙な快感が生じてくるのが不思議だ。
秦雅則の作品はどう見てもおさまりが悪い。だが、逆にいつでも分析・分類が不可能であることの凄みを感じてしまう。
2011/09/06(火)(飯沢耕太郎)